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色々と雑事が多く、更新が遅れました。
 
実はこの間、今までの仏教観あるいは瞑想観に対して、かなり意味のある大きな発見があって、現在頭の中で再構成が進んでいます。
 
大筋の流れでは変わらないのですが、より全体像が俯瞰できるようになった、と言うか。。瞑想というものの作用機序に対して、より実践的かつ科学的な理解が進むと同時に、仏教の歴史、表題にもあるような初期仏教、大乗、密教と言う流れが、その変化あるいは進化?の道筋が見えてきた気がします。
 
きっかけは、原始仏教本を漁りに図書館に行った時に、たまたまブッダチャリタとラリタヴィスタラを発見して読んで見たのが始まりです。
 
だいぶ以前に紹介しましたが、私のこの『脳と心とブッダの悟り』と名付けた思索の作業の、そもそもの最初期に読んだのが、ベック著『仏教』岩波文庫、でしたが、その中で、ベックがその論述の多くを負っていたのが、このブッダチャリタとラリタヴィスタラでした。
 
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 ブッダチャリタとラリタヴィスタラ。原始仏教が大乗化していくプロセスを概観できる。
 
図書館で偶然見かけたこの題名によってその事実を思い出した私は、急ぎこの二冊を借り上げて読みふけりました。
 
そしてその他の大乗経典なども若干読んだ後で、「この際だから密教本も読んでみるか」とある意味軽い気持ちでチベット仏教の本を手にとりました。その図書館には何冊かチベット仏教本が大乗本の並びに取り揃えてあったからです。
 
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実は私は、チベット仏教については以前からある先入観を持っていました。それは1995年に初めてインドに行った時に、ブッダガヤーやダラムサラのチベット寺院を訪ね、若い坊さん連中のなんとも俗物臭いありように辟易していた経験があったからです。
 
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若干の勉強を通して、チベット仏教というものがいわゆる『観念の楼閣』、典型的なドリームランドである、という事も聞き知りました。
 
私の仏教に対するスタンスは当時から現在に至るまで一貫しており、それは何処までも科学的そして『生理学的』に、ヨーガや瞑想、ひいてはブッダの悟りそのものについても解明したい、というものです。
 
なのでそのチベット仏教の余りの『観念性』の強さに、その時には一般教養的な前知識の段階で、拒絶反応を起こしてしまった訳です。
 
ところが、今回、原始仏教について、リグ・ヴェーダやウパニシャッドなどの全インド教的流れの中で論理的にある程度考えたあと、改めてチベット仏教について学んでみると、それまでの食わず嫌いが完全に払拭されるような、新たな発見に満ちている事に気付きました。
 
基本的にチベット仏教が観念の楼閣である、という認識には変わりありませんが、今回読んだ本の中では、その瞑想実践の具体的な様相というものがかなり詳細に綴られており、その事実関係が、ブッダの瞑想法の作用機序について考察する上で、きわめて重要なヒントを与えてくれました。
 
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ネパール仏教はインド仏教とチベットをつなぐ。
 
端的にいえば、チベット仏教における瞑想修行とは、それはタントラ・クンダリーニ・ヨーガ以外の何物でもないでしょう。
 
歴史的に見て、欧米先進国に最初に紹介されたのがヒンドゥ・ヨーガだったが為に、私たちはヨーガと言うとまず第一にヒンドゥの伝統だと考えがちですが、このヨーガの土台になるタントラの潮流は汎インド的に起こったものであって、決して現在ヒンドゥと呼ばれる人々だけの専売特許ではなかった、という事です。
 
タントラの潮流は、現在ヒンドゥとひとくくりにされるシヴァ教やヴィシュヌ教だけではなく、ジャイナ教や、そして当時はまだ生き生きと息づいていたインド仏教においても、ほぼ同時進行的に発生した機運だったのです。
 
そのタントラ(密教)におけるヨーガの瞑想を、他の誰よりも、ある意味マニアックに追求したのが仏教徒だったのでしょう。
 
 
汎インド世界における『瞑想史』について概観した時、原始仏教から大乗、そして密教に至るまで、その歴史をリードしてきたのは常に仏教徒だったのではないかと、今私は感じています。
 
純粋に肉体に対する働きかけと言う意味でのハタ・ヨーガについてはヒンドゥもまた優れているかも知れません。しかし本来の目的である瞑想実践に関しては、チベット仏教の方が遥かに精緻かつ完成度が高い。その論理においても、実践のシステムにおいても。
 
そんな印象を受けました。
 
ただし、ここで瞑想と言った時に、それはイコールそのまま『ブッダの瞑想法』ではもちろんありません。チベット仏教の瞑想法は、今言ったように完全にタントラ・ヨーガであり、ブッダの瞑想法がその『ヨーガ』の原初形態である、という事実を考慮しても、その方法論は両者では全く異なっています。
 
けれども、チベット仏教のその観念の楼閣を全て捨象した時に現れてくる瞑想実践の生理学的な作用機序の中に、ブッダの瞑想法の本質を把握するために極めて重要なヒントになる事実が隠されている、という印象を受けました。
 
そして私にとってもう一つの驚きは、チベット仏教の世界観の中に、リグ・ヴェーダからウパニシャッド、そしていわゆるヴェーダンタに至るインド思想の本流に当たる諸概念が、全て網羅されていた事実です。
 
ある意味、チベット仏教とは『もうひとつのヒンドゥ教』といってもいいくらいです。
 
前回、それはもうひと月以上前になりますが、私がこのブログに書いた、そしてその続きを未だ書いていない、リグ・ヴェーダにおける創造者ヴィシュヴァカルマンとそれを孕んだ『胎』の問題。それはそのままチベット仏教の中に、ストレートに継承発展されて伝わっています。
 
如来蔵の思想、シャクティ(女尊ダキニやターラ)の思想、クンダリーニの諸観念等々。私が今まで経験し探求してきた流れが、全て、より具体的な形で、チベット仏教の中に伝わっていた事を、私は再発見した訳です。これは、個人的には、かなりエキサイティングな『アハッ体験』でした。
  
しかし、彼らがその表門に掲げている観念の楼閣は、依然として私にとってはある意味、意味のない虚構にすぎません。それはある種の方便とも言えるだろうし、あるいはその方便を本質と見誤った人々も多くいた事でしょう。
 
問題は、その虚構をはぎ取った裸の本質の中から、いかにしてブッダの瞑想法とその『悟り』の実際について抽出し結晶化をするかでしょう。
 
問題の核心は、『慈悲』にあるのではないかと今は感じています。
 
ブッダの一切衆生に対する慈悲。それが生まれいずる根拠とは一体何だったのか。
 
この世界の一切がアニッチャー(無常)であり、アナッター(非我・無我)であり、ドゥッカー(苦)に過ぎないとしたら、苦しみあがく一切衆生の存在もまた無常なものです。
 
無常なものに関与して救い出そう(変えよう)とするのは筋が通りません。その苦しみもいずれは消えてなくなります。そのまま傍観し放置すればいい事です。
 
ブッダが現世否定の単なるニヒリストに過ぎなかったら、慈悲が生まれる理由は存在しません。
 
チベット仏教を概観すると、ひとつの事が明らかです。それは、彼らがウパニシャッド的な絶対者ブラフマンと言う存在を、様々な異名によってほぼそのまま踏襲しているという事実です。
 
もちろん、その絶対者・至高者の性格はウパニシャッドとタントラ・密教では異なります。けれど、それは明らかにブラフマンの発展形に他ありません。
 
リグ・ヴェーダに見られるヴィシュヴァカルマン。それを胎児として生みだした原初の大水あるいは『胎(ガルバ)』。
 
このヴィシュヴァカルマンがやがてウパニシャッドにおいて創造者ブラフマンになり、その住処であるアーカーシャ(虚空・空処)の思想につながります。
 
その流れは、そのままチベット仏教における神的ブッダの『胎蔵』とその誕生神話へと繋がり、驚くべき事に、これらの神話が、具体的な瞑想実践の方法論と作用機序の中に、合理的に組み込まれてさえいる。
 
ここで私が思い出すのが、すでに原始仏教の時代においても、ブッダが梵天(ブラフマンの擬人化)と同一視されていた、という事実です。私の以前の立論によれば、ブッダの瞑想法において彼岸に至る、と言う時、その彼岸の具体的な心象風景とは須弥山の岸でした。
 
その須弥山こそが、世界の車軸でありブラフマンの住処であった事を考慮した時に、全ての脈絡がひとつながりに結びつくと思うのは私だけでしょうか。
 
世界の車軸である創造者ヴィシュヴァカルマンが、胎児として誕生したという事を思い出して下さい。胎児として出生したプルシャがブラフマンとイコールであった事実、そしてブラフマンが世界の車軸たる神的スカンバであった事実も、またしかりです。
 
この胎児として胎蔵され出生する創造者ブラフマンの原イメージが、やがてヒンドゥの文脈ではムカリンガム・シヴァになり、大乗以降の仏教では『如来蔵』の思想になります。
 
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ムカリンガ・シヴァはヨーニ(ガルバ)に蔵される
 
もちろんこの『如来蔵』は、大宇宙における神的ブッダの胎蔵と、私たち個々の人間存在内部の『仏性』の胎蔵を両義する訳です。この如来蔵と仏性の両義は、チベット仏教(顕教&密教)の中に明確に継承されています。
 
繰り返しになりますが、このチベット仏教においては、これらの思想が全てそのまま、『瞑想実践の作用機序において、合理的に内部化され明文化されている』のです。
 
もちろんここで言う合理的とは、極めて特殊チベット的な観念の楼閣であり、全てを真に受ける必要はありませんが、その根底にある『体験的実感』と言うものにこそ、私たちは注目すべきでしょう。
 
この点については恐らく次回に書けると思いますが、ひょっとすると仏教2500年の歴史を通じて、チベット仏教僧こそが、最も厳正な意味での瞑想実践者としてブッダの真の継承者と言えるのかもしれません。
 
これは、いわゆるテーラワーダ仏教の伝統において、失伝されてしまったかも知れない瞑想実践の核心部分を、チベット仏教が保存している可能性さえ考慮する必要があるという事です(この点に関しては逆もまた真なりでバランスが求められますが)。
 
現時点の暫定的な判断なのですが、いわゆるパーリ経典を奉じるテーラワーダ諸国における瞑想実践の歴史的連続性と言うものについては、私は一抹の疑問を感じざるを得ない状況にあります(次回に詳述の予定)。
 
いやはや、何とも具体性に乏しい記述になってしまいました。かなりマニアックな話なので、分からない方には全く分からないかも知れませんが、とりあえず今回は、私が今直面している新鮮な驚きについて、投稿しました。
 
チベット仏教についてはまだまだ表面的な部分しかなぞっていないので、全体像を把握するにはもう少し時間がかかりそうですが、その知見を踏まえた上での『脳と心とブッダの悟り』について、おいおいに書いていきたいと思っています。
 
どうも私の感覚では思考のスピードが光ブロードバンドとすれば記述のスピードはダイヤル・アップに感じられるほど遅い。書く時にはすでにそのテーマは遥かな過去のものになっていて、書くためのモチベーションが減退しています。
 
書くべき事は無限に溜まり続けているのですが、便秘状態で中々書き出す事ができません。『書く(発表する)』ためには裏を取って再確認する作業が必須で、これが思考の流れを切ってしまう事もあります。
 
でもまぁ、とにかく一度始めた事ですから、なんとかゴールに辿り着きたいとは思っているのですが・・・
 
 
この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。
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