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アショカ王の回心

アショカ王については、仏教に関心のある多くの方がご存じかと思います。私が以前書いた文章から以下に引用すると、
 
紀元前268年、マウリヤ帝国第三代として即位したアショカ王は、祖父チャンドラグプタ、父ビンドゥサーラの帝国建設の遺業を引き継ぎ、最後の抵抗勢力カリンガ国に侵攻する。戦いは凄惨なものとなった。その暴虐な性格によって自国民からさえも恐れられていたアショカ王の攻撃は苛烈を極め、一方、マウリア朝より遥かに長い歴史を持つ大国カリンガは、当時世界最強とも謳われたアショカ軍に対して、徹底抗戦で応じたからだ。目を覆うような殲滅戦の末、アショカ軍はついにカリンガを征服した。伝承によれば犠牲者は民間人を含めて数十万に達したという。

勝利に酔いしれるはずのアショカ王は、しかし死屍累々たる戦場に立って深く後悔し懺悔する事になる。それは余りにも無益な殺戮であり、大きな悲嘆であり、取り返しのつかない惨禍であった。やがて彼は、ひとりの僧侶との出会いによって、劇的に仏教徒へと改宗したのだった。彼は国の政策を武力による覇権から法と徳による統治へと180度転換した。そして仏教に基づいたダルマ(法)の理念を普及するため、ブッダ所縁の地に仏舎利塔(ストゥーパ)を建立し、広大な帝国全土に詔勅を刻み、法の車輪をシンボライズした石柱(スタンバ)を建てていった。
 
以上がアジアの仏教徒に一般的に知られているアショカ王の事績だと思います。ただし、これは多分にアショカ王を仏教徒にとって都合がいいように脚色しているきらいがあり、例えば、彼が仏教徒になったのはカリンガ戦の前だというのが、現在ではほぼ定説になっているようです。
 
上記の引用に加えて、アショカ王の仏教に対する何よりの貢献は、彼がインド国外の様々な地域に仏教使節団を派遣して、ブッダの教えを広く普及した、という点にあります。
 
その結果、仏教はアジア全域の普遍的宗教として広く信仰・実践されるようになりました。それは、同時代に生まれたジャイナ教がついにはインドのローカル宗教に終わり現在に至るのとは極めて対照的であり、正に、アショカ王は仏教が世界宗教へと飛躍する嚆矢となった訳です。
 
さて、ここで本ブログ上問題になるのは、彼、アショカ王にとって、仏教に対する信仰・実践とはどのようなものであったのか、という事です。
 
これは、前回簡単に触れた、『いわゆるパーリ経典を奉じるテーラワーダ諸国における瞑想実践の歴史的連続性と言うものについては、私は一抹の疑問を感じざるを得ない』という事実と密接に関わり合っています。
 
そう、問題は、現在テーラワーダ諸国で『ヴィパッサナー・メディテーション』として普及・実践されている修行システムは、いつ、何処の誰によって、どのように、そして何処の国に最初に、伝えられたのか、という疑問です。
 
一般に、このテーラワーダ諸国におけるヴィパッサナー瞑想こそが、いわゆる『ブッダの瞑想法』であり、それはブッダの時代から2500年間変わらずに継承されてきた真正のブッダが悟りを開いた瞑想法なのだ、というのが常套句になっています。正直私も余り深くは考えずに、今まではそう受け止めてきました。
 
しかし、よく考えるとこのフレーズには何も根拠がない事に気付きます。確かに現在のテーラワーダ仏教の実践のあり方全般を見ると、地球上のどの地域の仏教よりも、ブッダ在世当時の原始仏教に近いものが保存されていると言えるでしょう。
 
けれど、それが果たして、瞑想実践をも同時に兼ね備えたものとして、2500年以上全く断絶もなく継承されてきたのかは大いに疑問があると私は考えています。
 
そこで冒頭のアショカ王の事績が関係してきます。
 
南アジアにおける最初の仏教布教は、正にこのアショカ王によって行われ、文献によって確認できる最古の記録として、彼の息子マヒンダ王子によるスリランカへの仏教伝播が、広く認められているからです。
 
マヒンダ長老は、果たしてこの時同時に、ヴィパッサナーの実践修行のシステムをもスリランカにもたらし、それ以来、スリランカにおいては現在まで途切れることなくその実践が継承され続けてきたのでしょうか?
 
この問いに答えるためには、アショカ王にとって、仏教とは一体どのような意味を持っていたかをプロファイリングする事が必須です。何故なら、アショカ王の信仰の核心部分を把握しなければ、彼が『何に焦点を置いて』仏教使節団を各地に派遣したか、というその『目的』が分からないからです。
 
そこで再び中村元選集の出番となります。中村先生は広く初期仏教についての著作を著わしていますが、この選集第6巻インド史Ⅱの中に、いわゆるアショカ王碑文と言うものが網羅的に収録されているからです。
 
これは、ある意味紀元前三世紀という古代インドに生きたいち仏教徒であるアショカ王の肉声の記録と言っていいでしょう。その資料的価値には絶大なものがあります。
 
これらを通読してみて一見して分かる事は何でしょう。それは、そこには世俗的な生活倫理・社会道徳についての教え悟ししか書かれておらず、ここで問題にしている『ブッダの瞑想実践』については、実はほとんど全く語られていない、という事です。
 
彼がこれらの法勅文書によって世人に知らしめたかったのは、あくまでも一切有情の福祉の向上とそのための道徳倫理の確立であって、直接的にブッダの法については言及していないのです。
 
一方で、彼個人が熱心な仏教徒であり、ブッダガヤやルンビニなどメジャーな仏跡を巡礼し、ブッダの事績を記念して石柱を立て、あるいはストゥーパを建てていった事もまた間違いのない事実です。
 
彼はどのような心象に基づいて、これらの行為を為したのでしょうか。
 
カギは彼が自らを自称して『神々に愛された温容ある王(天愛喜見王、Devanampriya Priyadarsin)』と名乗ったことにあると私は考えます。彼はまず第一に、ブッダの弟子ではなく神々に愛でられるべき者として自らをイメージしていた事がうかがわれます。
 
古代インドに生きた仏教徒であるアショカ王が、神々、つまりDevaについて言及する場合、その真意はひとつ。それは天界に住まう神々であり、同時にその天界とはいわゆる輪廻転生思想において人間界や畜生・地獄界などと並び称される天界であるという事です。
 
となれば、彼が自らを『神々に愛される』と自称するその心象とは一体何かが明らかになるでしょう。それは、何よりも自身の死後の天界への転生を意識した称号であったという事です。
 
ここで考えるべき事は、彼がそもそも熱心な仏教徒へと回心したそのきっかけとなったカリンガの戦いです。彼自身の証言によれば、その戦死者は10数万人にのぼり、戦乱に巻き込まれて家族を失い、家を失い、社会的な基盤を失った、いわゆる被災者・難民の群れはその数倍にのぼったといいます。
 
すでにカリンガ戦の以前から一応仏教徒であった彼にとって、この事実は何を意味したでしょう。仏教において、何よりも殺生は極悪の大罪です。その被害者10数万人と言うまぎれもない事実は、冷静になって考えてみれば、地獄も必定、の極悪業に他ありません(あのアングリマーラでさえ、“たかが”千人です!)。
 
戦争を仕掛けている時には止むにやまれぬ覇権への衝動に駆られて盲目になっていたのが、いざインド世界を征服して『大地の主』に成りあがってしまった時、彼はハタと気づいてしまった。
 
『この地上において、人として可能な限り最大限の栄華を私は実現してしまった。未だかつて聞いたためしのない全インド世界の帝王としての地位に私は登りつめた。現世においてこれ以上の栄達は考えられない。
 
しかし、どのような偉大な帝王も、いずれ死ななければならない。そして死後にはその生前の業に従ってそれに見合った来世へと転生するだろう。その時、10数万の命を殺戮し、その数倍に及ぶ人々に塗炭の苦しみを与えた私は何処に転生するのだろうか?
 
それは地獄以外にはありえないのではないか?!』
 
地獄必定。これが、私が思い描くアショカ王の心象世界のプロファイルです。この心象は、輪廻と言う信仰を余り持たない私たちの、想像を絶した恐怖だった事でしょう。
 
次回に続く。
 
※本文中でヴィパッサナーと言う言葉で象徴的に表現しているものは、ゴータマ・ブッダによって発見された悟りへの瞑想法、というような意味であり、本来的にはサマタとヴィパッサナーを合わせた、つまりはテーラワーダ的な『止観』の瞑想法を指しています。
 
ただし、このサマタ・ヴィパッサナーという概念自体が最初期のパーリ経典にブッダの言葉として見られる訳ではないとしたら(どうなのでしょう?)、この定義自体再考の余地があります(この点に関しても後日)。
 
この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。
このブログ内容は広く知られる価値がある、と思った方は、下記をクリックください
 

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