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前回に続いて、
より引用します。上のリンクはPDF文書になっているので参照ください。
 
第五章には、法の実践など徳ある行為をなす事が、いかに難しいか、そして、その難しい行為を、自分がいかに多く為したかを語り、その上で、
 
E,従って、朕の皇子、皇孫、そして壊劫に至る迄の子孫で、朕に倣って、この義務に従う者は善事をなす也。
F,この義務の一部でも怠る者は、悪事をなす者である。
G,実に、悪事は為し易し。
 
と、ここでも『自分の』子孫に対して、厳しく戒めています。
 
その後は、法大官と呼ばれる官職の設置について触れ、一切衆生の為に法を確立し、法に専心する彼らの心得について説いています。
 
そして最後に、
 
O,この法勅は、かかる目的のために、すなわち、これによって久住せしめ、そして、朕の諸の子孫が、朕に倣ってかくの如く、行ぜんが為に刻せられた。
 
と記し、ここでもやはり、この法勅文が何よりも『彼の』子孫への命令である事が強調されています。
 
第六章は、アショカ王自身の政務について語り、いついかなる時でも、民衆に関する政務の必要があった時は、上奏官は直ちにこれを報告し、彼もまた政務の裁可を下すであろうことが述べられています。
 
彼は自らの政務の至らなさ、不十分さを常に感じており、
 
I,朕は、万人の福利の増進が義務であると考えるからである。
K,実に万人の福利の増進以上に重要な義務はないからである。
 
と、万人=一切衆生の幸せの増進こそが、自分の義務である事を強調し、
 
L,従って、朕がいかなる努力をなすとも、これは朕が、すべての生ある者に負う債務を返還し、生ある者に現世において安楽を得させ、来世において、天に達せしめ様とするためである。
 
その義務とは、自分が生ある者に負う債務であり、それを返し、生ある者に現世の安楽と来世の生天を与える事が自分の願いである、と語ります。
 
ここで初めて、具体的に来世の生天について、まずは一切衆生にそれを与えたいという形で述べられています。もちろん、その核心にあるのは、私の分析では『自分』に他ならないのですが。
 
最後に、
 
M,この法勅は、以上の目的のため、即ちこれを恒久に保ち、朕の皇子、皇孫が、万人の福利のために、等しく努力せしめんが為に、刻された。
 
と記し、その実現が如何に最上の努力なしには達成困難であるかを戒めます。ここでも、問題の焦点は自分の子孫、にある訳です。
 
第七章では、全ての宗教宗派の等しい繁栄を望み、その理由として、
 
B,彼等はすべて、克己と心の清浄を願うからである。
E,たとえ、広大なる布施をなすとも、人若し、克己と心の清浄を保たなければ、全くの賎人である。
 
と戒めます。
 
という事は、彼自身は克己と心の清浄を保っている、と自負していた、あるいは少なくともそれを理想としていた事がうかがわれます。
 
心の清浄と言うと、ブッダゴーサのヴィシュディ・マッガなどを私は連想しますが、アショカ王がここで言う所の『清浄』が、果たしてブッダの瞑想法によって達成されるような清浄なのか、あるいは一般論としての心の美しさなのかは、分かりません。
 
第八章では、自分以前の諸王が、狩猟を含むいわゆる遊興の旅行にうつつを抜かしていた事を指摘し、
 
B,しかし、天愛喜見王、即位十年にして、三菩提に行った。
D,これより、法巡礼が起こった。
E,この際、沙門、婆羅門を訪問し、布施を行い、又、各地方の民衆を引見し、法の教勅をなして、これに適せる法の試問をなす事が行われる。
F,以来、これが天愛喜見王の治世の、後期における、享楽となる。
 
と記します。
 
Bの三菩提とはSambodhiで、中村元先生によれば、これはブッダガヤの菩提樹を巡礼した事を意味します。つまり、ここで明確に、仏教徒としてのアショカ王のアイデンティティが、彼自身の口から証言された訳です。
 
彼の仏教徒としての自覚とその思想とは、一体どのようなものだったのでしょうか?
 
ここまでを見ると、ブッダなどの聖人を崇め、その教えに従って、わがままな欲望に自堕落に耽溺するのではなく、そのような欲望を制して、他者のため、世界の為に身を粉にして働く事を、彼自身が理想の王と考えていた事が推測できます。
 
その背後にある詳細な心象は、第九章以降に次第に明らかになっていきます。
 
P16,第九章では、人々は様々な折に様々な祈願の儀式を行うが、それらは多くが迷信であり益のないものである事が指摘されます。
 
B,人々は、病気の際、娶りと嫁入りの際、子女の誕生の際、又、旅行の出発に際して、様々な祈願を行う。男子もかかる際、又、他のこの種の場合にも多くの儀式を行う。
C,しかし、婦女子は、特にこのような際、多くの迷信と無意味な儀式を行う。
D,儀式は確かに、行うべきではあるが、
E,しかし、このような儀式には、ほとんど実り少ない。
F,これに反して、すなわち法の実践は、多くの実りをもたらす。
 
と、指摘します。この辺りは、初期パーリ経典におけるブッダの合理主義を彷彿とさせます。この章を見るとアショカ王もまた、徹底した合理主義者であり、同時に徹底した功利主義者であった事がよく分かります。
 
しかし女性の迷信深さと言うのは、現代女性の占い好きにも通じて、万古不変の普遍的ネイチャーなのだなーとつくづく感じ入りました(笑)
 
現代でも、プージャに熱心なのは男性より遥かに女性の方が多いと言われます。儀式好き、祈願好きな女どもに舌打ちしているアショカ王の姿が目に見えるようです。
 
G,〜奴隷および従僕に対する正しい取り扱い。年長者に対する敬意、動物に対する慈悲、沙門、婆羅門に対する布施(を含む)善行を、法の実践と呼ぶ。
F,(故に全ての人が)言うべきである。「これは善である。この実践は、その目的が達成されるまで、なされねばならない。」と。
 
(また布施は善であると言われてきたが、)
J,しかし、法の布施、又、法恩程の、布施も報恩も存在しない。
K,故に、朋友、親族、及び同僚は、互いにそれぞれの機会に、「これは為すべきである。これは善である。この実践によって、天に達する事が可能となる。」と教戒し合うべきである。
 
と語り、最後に、次の様な『信仰告白』に至ります。
 
L,なぜならば、このこと、すなわち、天に達する以上のものに、価するものはないからである。
 
私はこの文章を読んだ時には、ある種の衝撃を禁じえませんでした。ここには明確に、人間にとって最高の幸せとは、死後に天界に転生する事である、と、アショカ王の肉声として断言されているからです。
 
これは、間違いなく、最初期の時代からやや遅れて成立したと言われるパーリ経典に多出する天界や地獄界などへの輪廻転生説に対応するものでしょう。
 
法の布施が最大の善業であり功徳であり、それが生天をもたらすからこそ、彼はこれほど熱心に法の実践を促していたと考えるとつじつまが合います。
 
自身がダルマ・ラージャ(法の王)に徹する事によって、その生天は揺るぎないものになる。何故なら、史上最高の王による史上最高の法施・法恩は、史上最大の功徳となって、史上最高の生天位を保証するだろうからです。
 
他者の幸せを語りつつ、その本心は『自己の生天』にある、という視点を失ってはならないと思います。もちろん、その背後には、かのカリンガ戦数十万人虐殺の悪行があります。
 
長くなるので、続きは次回に。
 
 
この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。
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