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前回に引き続き、アショカ王の法勅を読んでいきます。
 
より引用します。上のリンクはPDF文書になっているので参照ください。
 
第13章 シャーバーズガリー
 
A:天愛喜見王、即位8年にして、カリンガ国を征服した。その地より、捕虜として移送されたもの15万、殺されたもの10万、又、その幾倍もの人々が死亡した。
 
B:それより以来、今は、カリンガ国はすでに征服され、天愛は熱心に法の遵奉、法に対する愛慕、及び法の教導を行う。
 
C:これすなわち、カリンガ国を征服したことに対する、天愛の呵責の念である。なぜならば、独立国が武力で征服された場合、殺戮、死亡、又、人々の強制移送があり、これを天愛はすべて苦痛と感じ、又、悲痛と思う故である。
 
D:しかし、天愛はこれよりも、一層悲痛であると感じる事は、そこに住する婆羅門、沙門、又は他の宗派の者、或いは、在家者で、その中に年長者、父母に対する従順、朋友、同僚、親族、従僕、家来に対する正しい取り扱い、堅固な誠信で自己を確立した者もあるが、その際、彼らが、災害、殺戮を蒙り、或いは愛する者との離別の苦しみに会った事である。
 
E:或いはまた、その人々自身は安全が保たれたとしても、彼らの愛情を抱く朋友、知己、同僚、親族が師別の不幸に陥ることにより、これらが又、彼らの苦悩となる。
 
F:このようにこれらの不幸は、万人が蒙るものであるが、又、天愛の酷く悲痛と感じるところでもある。そこには、ヨーナ人(ギリシャ人)の間を除いて、婆羅門、沙門なる階層の存在せぬ国はなく、いずれの国に於いてもいずれかの宗派に対する信仰の存在せぬ所はない。
 
G:それゆえ、カリンガ国で為された、負傷、殺害、移送された数の、百分の一、千分の一に対しても、今や天愛は、これを悲痛と感じる。
 
H:それのみならず、たとえ余人が、朕に害意を抱くとも、許せ得るものならば、天愛はこれを許すべきと考える。
 
I:そして又、天愛の支配下に入った、林住種族をも、朕の生活様式と、思想へと導こうと努める。
 
J:又、彼らが、自らの罪を怖け、刑死されぬ様に、たとえ天愛の悔恨になろうとも、天愛の有する権力において、彼らに告知される。
 
K:実に天愛は、一切の生ある物に危害のない様、克己あり、公平にして、柔和なるを願うものである。
 
L:そして、ダルマーヴィジャヤ・法による勝利なるものを、天愛は考究する。朕の領土内のみならず、600由旬に至るまでの、全ての諸隣邦民族においてもである。(以下、西はギリシャ諸国から、南はチョーラ・パンディヤなど南インド諸国を挙げ)
 
M:(その他、領土内の諸民族名を挙げ)いたる所、人々は、天愛の法の法勅に従順しつつある。
 
O:この様に、至る所で得られた勝利は、至る所で慈愛の感情を生みだしている。慈愛は、法による勝利により得られる。その愛は、今は僅かなものであれ、天愛は、それが後世において、大果報を生むと思う。
 
P:この法勅は、次の目的の為に書かれた。即ち、朕の諸皇子、諸皇孫が、新たな征服をなすべきと、考えぬ様に、また、もし勝利が自然に得られようとも、寛容と刑罰の軽微さを持つ様、そして、法による征服のみを、真の勝利也と考えるようにである。この法による勝利は、現世と、来世に渡ってなされる。そして又、他の全ての目的を捨て、法に対する悦楽を、すべての人々の喜悦とせよ。それもまた、現世と来世に渡ってなされる
 
以上、長々とほぼ全文を引用しましたが、この13章には非常に重要な証言がいくつも含まれています。
 
第一には、カリンガ戦の惨禍についてのアショカ王の深く激しい悔恨がまざまざと描写されている事です。
 
今までの流れを見ると、アショカ王は死後の生天を何よりも重要な人間の幸福と位置付けていました。それはその対極として、死後の堕地獄を何よりも恐れる、と言う思想とセットとなっていると考えられます。
 
パーリ語経典を見ると、すでにこの時代前後には、五道輪廻からやがては六道輪廻に至る輪廻転生の世界観が、明瞭に示されています。
 
つまり、法勅に書かれた死後の生天思想の裏返しとして、たとえそこに書かれていなくとも、堕地獄の恐怖が彼の心の中にはリアルに存在していたと読み込むべきなのです。
 
この堕地獄への恐怖については、カリンガ戦役によって死者数十万を数えた事を彼が深く悔悟している事実の裏に当然想定されますが、それを更に鮮明に表しているのが、婆羅門・沙門に関する彼の言及です。
 
バラモン・ヒンドゥ教と仏教という本来は敵対する二つの宗教には、ひとつの共通項が存在します。
 
それはそれぞれの聖者、バラモン教ならばバラモン司祭、仏教であればサンガのビクを信仰し供養する事によって、死後の善趣(良い再生の境涯)が約束されている、と言う点。その裏返しとして、これらの聖者に危害を加えたり、或いは最悪殺したりする事を最大の悪業と位置付け、究極の堕地獄を保証している点です。
 
D節を注意深く読み説けば、そこには、この聖者、すなわち、ダルマを教導する者に危害を加えた事を、何よりも深く悔悟し、更にこれら聖者による教え(ダルマ)に従って生きる善人に危害を加えた点を、悔悟しています。
 
ここで、焦点になるのが、ダルマ、と言う言葉です。これは本来『(何かを)支える物』と言う意味から派生し、自然の摂理、人倫の法律、正義(善)、義務、真理の法、などを指し示す、とても幅広い意味をもった言葉です。
 
アショカ王の法勅を読んでいくと、これら幅広い意味合いを全て含んだ至上価値としてのダルマを推進する事こそが、来世の善趣を約束する功徳である事が分かります。
 
そして、この輪廻転生世界観の中で、来世の運命を支配する原理の中心にいてそのプロセスを仲介するのが、バラモンや沙門(比丘)と言う聖者であった訳です。
 
そのような聖者に対して危害を加える事は最大の悪業であり、一般人民を殺戮する事よりも遥かに重大な堕地獄の定めをもたらしたはずです。
 
この聖者殺害(危害)による堕地獄の恐怖は、直接触れられてはいませんが、このD節の天愛はこれよりも、一層悲痛であると感じる事は〜』という出だし部分に、鮮明に表れていると考えられます。
 
もちろん、被害者にとって悲痛である、と同時に、何よりも加害者であるアショカ本人にとって悲痛であった、と言う視点を失うべきではありません。
 
概観すると、アショカ王の心象風景とは、五道六道の輪廻転生世界観を大前提として、その中で犯してしまった人民殺戮の大悪業、そして何よりも、ダルマを推進する聖者に対する危害・殺害というk極悪業に対する懺悔・悔悟を一大動機として、自らの堕地獄を生天へと大逆転を図るために、徹底的にダルマ・ラージャに徹するという決意ではなかったかと推測できます。
 
大地の主となってしまったアショカ王にとって、その支配下・影響下にある全ての人民は、わが子も同然だった。インド世界における『最高責任者』はアショカ王なのです。当然、彼ら人民が善業をなせば、それは責任者であり父であるアショカ王に回向される。逆に彼らが悪業にふければ、それは悪徳の回向になる。
 
全ての人民が、一致団結して『ダルマ』を推進する事によって、自身を始め全ての人民が生天の果報に恵まれ幸せになれる。けれど自分の幸せを前面に出したら差しさわりがあるから、『お前たちの為に』を前面に出して語りかけたという事です。
 
正にインド的な究極の『You Happy, Me Happy !』の世界だと思いませんか?
 
こう書いたからと言って、私がアショカ王を貶している、と捉えるべきではありません。ある意味彼は、現代の諸政治家・権力者よりも遥かに善良かつ有能な支配者だった。
 
けれども、その背後にある彼の『利己』と言う動機を失念し、いたずらに彼を絶対視し理想化する事もまた避けなければなりません。
 
マウリア朝の初代チャンドラ・グプタが、マガダ地方の周辺から兵を起こし、当時の支配者ナンダ朝を倒して一気にインド世界の覇者になり得たのは、その宰相であるカウティリアの力によるものが大きかったと言われています。
 
このカウテイリアは著書『アルタ・シャストラ(実理論)』で知られ、インドのマキャベリと言う異名を得ている様に、徹底した功利主義者だったと言われています。
 
おそらくアショカ王は、このマウリア朝の伝統である徹底した功利主義の忠実な徒であったのでしょう。彼の諸事業の多くが、祖父チャンドラグプタの路線を継承・発展させたものである事がそれを証明しています。
 
その功利主義が、輪廻転生的な価値観の中で十全に発揮されたのが、そのダルマ・ヴィジャヤの方針であったと考えれば、全ての辻褄が合う気がするのですが、いかがでしょうか。
 
だいぶ投稿間隔が間遠になっていますが、次回は『輪廻転生教としての仏教』と言う視点から、主に現代テーラワーダ仏教国の思想について考える予定です。
 
そう、私のようにまずはヴィパッサナ瞑想の実践からテーラワーダに入った者にはなじみの薄い話なのですが、スリランカにしても、ミャンマーやタイにしても、民衆の実践としての仏教を捉えた時、輪廻転生と言う世界観は避けては通れない基盤なのです。
 
そして、この事実はただただテーラワーダ仏教だけに当てはまるものではありません。ブッダの死後『仏教』として普及・発展し、継承されてきたほとんどすべての仏教諸セクトが、この輪廻転生思想を抜きにしては全く成立しえないものだった訳です。
 
これはブッダ本人の意思に関わらずそうであったという、ひとつの歴史的な事実です。この視点をはずしては、仏教に関するあらゆる考察は成り立ちえない。そのように私は考えています。
 
 
この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。
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「概観すると、アショカ王の心象風景とは、五道六道の輪廻転生世界観を大前提として、その中で犯してしまった人民殺戮の大悪業、そして何よりも、ダルマを推進する聖者に対する危害・殺害というk極悪業に対する懺悔・悔悟を一大動機として、自らの堕地獄を生天へと大逆転を図るために、徹底的にダルマ・ラージャに徹するという決意ではなかったかと推測できます。」

これはとても画期的な着眼だと思います。

深い考察です。

2015/2/8(日) 午前 11:50 [ avaro79 ] 返信する

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「そう、私のようにまずはヴィパッサナ瞑想の実践からテーラワーダに入った者にはなじみの薄い話なのですが、スリランカにしても、ミャンマーやタイにしても、民衆の実践としての仏教を捉えた時、輪廻転生と言う世界観は避けては通れない基盤なのです。」

私は反対の民衆的な仏教観から、実践的な仏教へと登ってきたのかなと思います。

2015/2/8(日) 午前 11:53 [ avaro79 ] 返信する

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> avaro77さん

この輪廻転生教としての仏教(テーラワーダ)という事実は、本当に私にとっては衝撃的な驚きでした。

彼らは基本的に、正に日本の受験生が大学合格を神社で祈願するように、自身の来世の善生をブッダ(サンガ)に願っています。現世利益の信仰ではなくて、来生利益の信仰です。

しかし、このような信仰形態がブッダ自身の信仰形態であったか、と考えると、疑問の余地が大いにあります。むしろ彼は、輪廻転生思想の中でこそ苦しみ、そこから解放される事によって安らぎを得たのではないか、という視点です。

私は基本的にブッダの修行道は、輪廻転生があろうがなかろうが、実践的に成り立ちうるものだと考えています。

2015/2/8(日) 午後 3:04 Satoru T. 返信する

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