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全く関係のない二つのソースから、ほぼ相次いで魚川祐司さんの名前が入ってきたので、興味を持って調べてみました。

ニート仏教という命名センスなど、第一印象はキワモノではないか?という感じだったのですが、なんとなく心惹かれるものがあって、Kindle版の「だから仏教は面白い!」を購入して一気に読了しました。

私が初めてヴィパッサナを経験し、その後スリランカで学んだ95〜96年当時を思えば、現在日本において流布しているテーラワーダ関連の情報量の多さは隔世の感があるのですが、常々思っていた事があって、それは、パーリ経典についての学と瞑想実践という行を兼ね備えともに深めた日本人というものがまだまだ少ない(いない)という点でした。

確かに中村元博士とその一門のパーリ経典翻訳作業は偉大な仕事であり、大いに恩恵を受けているのですが、いかんせん彼らはテーラワーダ仏教の修道の現場についてほとんど何も知らず、そして自身その経験がない。なので言語学的な緻密さが際立てば際立つほど、「あ〜、彼らのうち一人でもいい、実際にタイやミャンマーで瞑想修行の経験があったならば」と慨嘆していました。

そんな中、突然登場した魚川さんの存在は、私にとっては実に喜ばしい驚きになりました。

「だから仏教は面白い!」は本当に時間を忘れて一気に読みました。上巻を読み終わって下巻を途中まで読んだところで寝る時間になったのですが、そこはKindle本の便利さ、PCで読んでいたものをタブレットに持ち替えて、ベッドの中で3時過ぎまでかかって読み切ってしまいました。

概観としては、良道さんなどとは違って、正統派のテーラワーダ仏教について良く正確に学び、瞑想行道を実践併修した上でその本質的な部分を深く理解されている、と同時にそれを自分の言葉で他者に説明する事の巧みさ、という点では類を見ないと、大いに感動しました。ようやくこういう日本人が現れてくれたのか、と感慨もひとしおでした。

「女性と目も合わせないニート」とか「ブッダは生産と生殖を禁じた、という点で現代社会における常識的な価値観を真っ向から否定する「脱社会」志向である」とか、キャッチーな用語の過激さと若干の(時に大きな)ニュアンス上の違和感を除けば、実によくブッダの修行道を理解した良書である、と私は思います。

ブッダは「世界」を滅する方法を説いた、その世界とは、欲の衝動にまみれた世俗の人々が六官・六境の接触を通じて習慣的に「世界」だと認識している、習慣的に「実在する」と思い込んでいる「世界(Loka)」の滅であり、正に今、同時並行的に私が本ブログで論じている「一切」=「世界」であり、私自身はブログに書くことを躊躇ってしまうようなことまでズバリと断言してしまってくれていて、しかも、それを現代日本人が拒絶感少なくうなずいてしまう事が出来るような語りで巧みに説いているので、実に圧巻でした。

何やら、良道さんの発言をきっかけとして両者の間でバトル?というか対話がなされた様ですが、まぁ、ふたりの間に共通項はほとんどなく、というか、魚川さんは比較的大乗仏教にまで視野を広げて、全てを抱擁する度量とでも言うべきものがうかがえるのですが、良道さんの方は、何しろ『自分の一法庵イズムに賛同する人だけが来ればいい、と言うか、賛同できない人は来ないでくれ』、と宣言している人なので、話が食い違うのはある意味当然ともいえる帰結なのでしょう。

この対話(バトル)の経過については、山下良道先生の批判にこたえる と、

私の観たところでは、明らかに、魚川さんの言い分の方が筋が通っている、と感じました。あくまでも、典拠に基づいたゴータマ・ブッダの教えの原像、という視点からの評価ですが。

魚川さんの言うように、良道さんのアプローチの仕方は、現代日本社会という諸特性において、マーケッティング的に極めて有効なものだと私は考えています。けれどそれはあくまでも良道さん個人の逢着した「落とし所」に過ぎず、決してゴータマ・ブッダの教説そのものではない。

それは実は良道さんが一番良く自覚しているはずなのですが、やはり営業上は「これぞブッダの直説だ!」と言い切らなければ「同人の主宰」先生としては立ち行かない部分もあるのでしょう。

何やら一方的に魚川さんの賛美に傾きかけているようにも見えますが、もちろん私の視点はそのような単純なものではありません。

実は魚川さんご本人には「だから仏教は面白い!」読了直後にほぼ同じ内容のメールを差し上げているのですが、彼の論述には私の視点から見て、いくつかの問題点があります。

(以下は彼に送ったメールからのコピペに、若干の修正をほどこしたものです)

第一に、それは気づき(サティ)とニッバーナとの関係性です。気づきの瞑想を継続的に深めていくことによって、三相(無常・苦・非我)という真理を目の当たりに観る事だけではニッバーナに直接つながらない、そこには何か気付き(サティ)とは違った原理の「飛躍」が必要である、として、アーナンダや比丘尼の頓悟の例を出していましたが、これは少々問題があるのでは、と感じました。

私はまだもう一つの著書である「仏教思想のゼロポイント」を読んでいないので断言はできないのですが、おそらく彼のこの認識には、決定的に「脳神経生理学的な作用機序」という視点が欠落している。

とりあえずそれは置いておいたとしても、第一に、アーナンダという人は、魚川さんも書いている通り、ブッダの言葉については誰よりもよく聞き、よく記憶している比丘ではあったのですが、25年間もブッダに近侍していたにも関わらず、ブッダの在世中には悟りを開けなかった、という、ある意味瞑想行道においてはとんでもない劣等生(要は落ちこぼれ)である、という事です。

もう一人の比丘尼についてもそうですが、魚川さんが出したこの頓悟の二人は、いわば瞑想センスの極めて劣ったレア・ケースであって、たとえばサーリプッタなどの優等生、あるいは初転法輪の五比丘のうちのコンダンニャなどは、おそらく気づきと観のヴィパッサナーそのものによって、ある意味順当にニッバーナを得た、とも推測できます。

もうひとつ、これはテーラワーダの長老などには余り大きな声では言えないのですが、アーナンダが頓悟したというエピソード自体、実に取ってつけたような不自然な話の流れであって、本当に彼がニッバーナを経験したのか、についても私は若干以上の疑いを抱いています。

私は以前から思っていたのですが、サティという言葉には「気づき」という意味とともに、一般的には「記憶」という意味がある事はご存じだと思いますが、アーナンダは正にこの「記憶」の人であり、ブッダの死後、マハー・カッシャパが発起人となりアーナンダがその「記憶」を根拠にして第一結集において主導的な役割を果たしスッタを編纂した、という、このそもそもの初期仏教の草創期の構造自体の中に、その後のテーラワーダ仏教がたどった道筋の「問題点」の原点がある、ような気がしています。

つまり、「気づき」を中心としたブッダ自身の行道実践から、「記憶」を中心とした経典伝持のサンガ運営へとの変質です。ブッダの死後、サンガにとっての至上課題は偉大なるブッダの教理(ダンマ)、その言葉を、いかにして正確に伝承するかという事がまさに命綱となった。

気づきに秀でた瞑想センスの高い「行の比丘」よりも、コンピュータのように正確にスッタ・ヴィナヤを「記憶」し解説する事に長けた「学の比丘」の方が、サンガの内外において、盛名を得やすい環境に移行した訳です。

分かりやすく言えば、心の病気を治す病院としての「サンガ療院」から、スッタやヴィナヤを学ぶ「サンガ学院」への変質、になるでしょうか。そのような流れの中でこそ「少年サマネラ」というポジションが登場しえるのではと。

つまり、少年サマネラというのは、経典の伝持という視点からの必要性が生みだした「学生」であって、決して苦悩にまみれた心の「病人」ではない、という事です。

もうひとつ、これは現在入手可能な資料に典拠する、という立ち位置(これ自体は正しいと思います)を堅持する、という建前上仕方がないことなのかも知れませんが、輪廻転生思想とブッダの関係についてです。

私は先にも少し触れましたが、ブッダ本人の経験に基づいた直説と、彼の死後、アーナンダを中心にしてまとめられた初期仏教の言葉が、100%イコールで結ばれるとは考えていません。何しろ現存するパーリ経典は全て「如是我聞」であり、ブッダの死後、アーナンダを中心とした直弟子たちが「私はこのように聞いた」という主観的な事実を集成したものだからです。

当然、彼らはブッダ本人ではないし、ましてやアーナンダは25年間ブッダに近侍していても悟れなかった「瞑想センス」の低い人物なのですから、彼らが理解した仏説が、ブッダの真意を100%完全に満たしている、と考える方がおかしいのです。

(アーナンダ派とマハー・カッシャパの確執を推定させるような論考を並川孝儀さんが「ゴータマ・ブッダ考」の中で展開していますし、パーリ経典の随所にその痕跡が認められます)

もうひとつ問題になるのが、ブッダの死後仏教サンガが直面しただろうマーケッティングの問題です。ゴータマ・ブッダという稀代の聖覚者を失ったサンガが、当時62見とも言われた諸思想・諸団体に囲まれた中で、いかに市場のシェアを維持し、販路を拡大し教団としての基盤を固めなければならなかったか、という点です。

当然ながら、仏教サンガの外部に広がる世間というものは、インド固有の輪廻思想一色に染められている訳ですから、その中でシェアを広げ固めていくためには、彼らに「好まれる」必要があります。実際問題として、サンガに供養するのも在家信者なら、比丘を供給するのもまた、一般在家の家庭なのですから。このような視点は、「だから仏教は面白い!」を書いた魚川さんならば説明の要はないと思います。

そして実はそのような「マーケッティング」問題は、ブッダ自身にも言える事です。私の観たところでは、ブッダは、その教説において、明確に在家向けと出家向けを説き分けていて、言わば「二枚舌」を使っている。なのでスッタニパータの最古層の韻文などに輪廻転生を前提としなければ筋が通らない文言が確認できるからといって、それをもってブッダもまた輪廻転生世界観にズッポリはまっていた、と断言するのは早計だと考えます。

ゴータマ・ブッダという一人の人間をプロファイリングする場合は、二つのフェーズに分ける必要がある。ひとつは悟りを開く以前の、誕生から苦悩し出家し菩提樹下に禅定するまでの俗人シッダールタのフェーズです。そしてもうひとつは、悟りを開いて後の、つまりブッダとしてのフェーズです。

このばあい俗人シッダールタとしてのフェーズにおいては、もちろん彼もまた当時インド世界を支配していた輪廻転生思想のさなかに生き、それを前提として感じ、思考していた、と考えるのが自然です。

けれど悟りを開いて後のブッダもまた、そのような輪廻転生思想にズッポリとハマっていたのか、と考えると、私は一抹以上の疑問を禁じえないところです。魚川さんの言うように、迷える俗人とブッダの間には、「全人格的変容」とも言うべき巨大でかつ決定的なギャップがある。そのギャップを超えてしまったブッダが、なお輪廻転生という「ファンタジー」をうのみに信じていたかは大いに疑わしいものがあると、個人的には思います。

逆にそのような輪廻転生思想の中でこそ、その論理的必然的帰結によって、シッダールタ個人は苦悩に喘いだのではないか。そしてそのようなファンタジーがニッバーナにおいて砂漠の蜃気楼のように崩壊したからこそ、全人格的な変容が起こり、苦から解き放たれたのでは、という視点です。

その視点とも絡めてもう一つの疑問点があって、魚川さんはこの古代インドに特徴的な輪廻転生思想と、それゆえに襲い来る再生と再死の恐怖、というものがあって初めて、解脱への飽くなき希求というものが理解されうる、と理路整然と述べていますが、これは一般論としては正論なのでしょう。

しかし、シッダールタ王子個人の、極めて私的な「苦悩」というものが、そのような「際限なきRPGステージの繰り返し」からの離脱、などというある意味「目の前にない抽象的な」苦に由来すると本当に言えるのでしょうか。

この点は、一法庵の人たちが魚川さん個人について、「自分自身」という問題はどうなっているのか、という点を疑問視している事とも通じる話なのですが、私自身の経験も踏まえて言えば、人間という生き物は、輪廻における「際限なきRPGの繰り返し」などという目の前にはない抽象的なイメージだけによって絶望的な苦悩に苛まれ、恵まれた王宮生活という全てを捨ててまで出家し、あそこまでの苦行に突き進む事は、実際上考えにくい、リアリティに乏しい想定です。

シッダールタ王子は、極めて個人的な極私的な「現世において目のまえにある」苦悩によって絶望し、その背景として輪廻転生世界観があった。そしてニッバーナという「境地」への道程で、それらをひっくるめた全ての「私」というファンタジーが崩壊するプロセスをまざまざと観た。私自身はそのように推測しています。

概略、以上の内容をメールで送ったのですが、個人的には、彼とは是非対話をしてみたいな、と思いました。私が対話したいなどと考える人は極めて少ないので、そういう意味でも、彼の存在は貴重です。

(実はスマナサーラ長老とも「対話」してみたいのですが、肩書きが偉すぎて、まぁ、高嶺の花ですかね)

今回、「だから仏教は面白い!」からの引用はほとんど載せておらず、読んでいない方にとっては何を言っているのかよくわからない部分もあるかと思いますが、興味のある方は是非、Amazonにて購入して読んでみてください。

とても面白いですよ!本ブログを読んでいるような方なら、絶対に損はしませんから。特に「おっぱい」の喩えなど、大爆笑もので切実に理解できます(笑)

実は最近、春秋社版の原始仏典Ⅰシリーズ(長部・中部)全巻を読み直し、マハーヴァストゥという天下の希書?を読破し、さらに原始仏典Ⅱのサンユッタニカーヤも再読しているので、とても忙しない日々を過ごしていました。

同時に、身内の者が体調を崩して入院したりして、ブログの更新頻度も低下せざるを得ない状況にあったのですが、魚川さんという「知性」との出会いによって、再び活が入れられたような気がしています。

しかし、若いという事は素晴らしい事ですね。彼には是非このブログを読んでもらって、その優れた理知性に基づいて感想なりをいただければ、と思っているのですが、どうなりますか。 

最後になりますが、今回魚川さんの存在を教えてくれたavaroさん、(彼は同じYahooブログ仲間でとても真摯に仏教について考察しています)、そして一法庵の良道さんに謹んで御礼申し上げます。


この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。 
また、チャクラの国のエクササイズにおける探求から接続しています。

このブログ内容は広く知られる価値がある、と思った方は、下記をクリックください

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実は、紹介しておきながら私はほとんど読んでいなかったのですが、ニー仏さんについて知る必要がありそうですね。

それにしても、すごい読書量です。

もともと読むのが遅い(頭が悪い)のが、年をとってますます遅くなっています。

良道さん、ニー仏さんとsangamさんの到達点の違いも気になります。

2015/6/1(月) 午前 11:40 [ avaro79 ] 返信する

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avaro77さんはこれまでの勉強量が半端ないですから。私もあの分厚いサンユッタニカーヤが二、三冊積んであるのを見るだけで脳味噌が昇天してしまいそうですが、挫けずに頑張ります。

良道さんは基本的にダライラマ目指してますので、私とはゴールの設定が全く違いますよ(笑)

今日、ウ・ジョーティカ師の「自由への旅」を読み始めたのですが、39頁にあるパラマッタとパンニャッティの違い、これがラベリング至上主義に対する私の違和感を見事に言語化している気がしました。
やはり、テーラワーダの伝統自体の中に、炯眼の師というのはいる訳ですね。ウ・ジョーティカ師からはカンマッタナーチャリヤの気配が濃厚に感じられます。

2015/6/2(火) 午前 0:13 Satoru T. 返信する

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