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Amazonの在庫が復活したので、早速購入して魚川祐司さんの「仏教思想のゼロポイント」を読んでみました。

まず同書から目次部分を掲載してその流れを概観しましょう。

はじめに

第一章 絶対にごまかしてはいけないこと ― 仏教の「方向」
 仏教は「正しく生きる道」?  田を耕すバーラドヴァージャ
 労働(Production)の否定  マーガンディヤの娘
 生殖(Reproduction)の否定  流れに逆らうもの
 在家者に対する教えの性質  絶対にごまかしてはならないこと
 本書の立場と目的  次章への移行

第二章 仏教の基本構造 ― 縁起と四諦
 「転迷開悟」の一つの意味  有漏と無漏
 盲目的な癖を止めるのが「悟り」  縁りて起こること
 基本的な筋道  苦と無常 無我 仮面の隷属
 惑業苦  四諦 仏説の魅力 次章への移行

第三章 「脱善悪」の倫理 ― 仏教における善と悪
 瞑想で人格はよくならない?  善も悪も捨て去ること
 瞑想は役には立たない  十善と十悪
 善因楽果、悪因苦果  素朴な功利主義
 有漏善と無漏善  社会と対立しないための「律」
 「脱善悪」の倫理  次章への移行

第四章 「ある」とも「ない」とも言わないままに ― 「無我」と輪廻
 「無我」とはいうけれど  「無我」の「我」は「常一主宰」
 断見でもなく常見でもなく  ブッダの「無記」
 「厳格な無我」でも「非我」でもない
 無常の経験我は否定されない  無我だからこそ輪廻する
 「何」が輪廻するのか  現象の継起が輪廻である
 文献的にも輪廻は説かれた  輪廻は仏教思想の癌ではない
 「無我」と「自由」  次章への移行

第五章 「世界」の終り ― 現法涅槃とそこへの道
 我執が形而上学的な認識に繋がる?  「世界」とは何か
 五蘊・十二処・十八界  「世界」の終りが苦の終り
 執着による苦と「世界」の形成  戯論寂滅
 我が「世界」像の焦点になる  なぜ「無記」だったのか
 厭離し離貪して解脱する  気づき(Sati)の実践
 現法涅槃  次章への移行

第六章 仏教思想のゼロポイント ― 解脱・涅槃とは何か
 涅槃とは決定的なもの  至道は無難ではない
 智慧は思考の結果ではない  直覚知
 不生が涅槃である  世間と涅槃とは違うもの
 寂滅為楽 仏教のリアル 「現に証せられるもの」
 仏教思想のゼロポイント  次章への移行
 
第七章 智慧と慈悲 ― なぜ死ななかったのか
 聖人は不仁  慈悲と優しさ  梵天勧請
 意味と無意味  「遊び」  利他行は選択するもの
 多様性を生み出したもの  仏教の本質  次章への移行

第八章 「本来性」と「現実性」の狭間で ― その後の話
 一つの参考意見  「大乗」の奇妙さ
 「本来性」と「現実性」  何が「本来性」か
 中国禅の場合  ミャンマー仏教とタイ仏教
 「仏教を生きる」ということ

おわりに

〜以上、新潮社刊「仏教思想のゼロポイント」魚川祐司著より

通読した第一印象は、文字通り先に読んでいる「だから仏教は面白い!」の拡大詳述版であり、第六章まではおおむね私自身のパーリ(テーラワーダ)仏教理解とほぼパラレルなので、大きな驚きはありませんでした。

以前にも“「だから仏教は面白い」を読んで”という記事で書きましたが、私にとっての一番の感慨は、下記エントリーにあるような、ここ最近個人的にコツコツと進めてきたパーリ経典読解の結果が、魚川さんの第五章の論述とほぼ重なる、という事の確認でした。




同書第五章第二節の
“五蘊・十二処・十八界 「世界」の終りが苦の終り”
において彼が論じている「世界」とは、そのまま、私が
で論じていた「一切」とイコールな訳で、今までいまいち自分の探求に「だいじょうぶかいな?」と一抹の不安があった私としては、間違っていなかったと魚川さんに証言してもらったようなもので、大変心強く思いました。

《世界》
〈一切〉
十八界
十二処
 
六根
六境
六識
眼(げん)
色(しき)
眼識(げんしき)
耳(に)
声(しょう)
耳識(にしき)
鼻(び)
香(こう)
鼻識(びしき)
舌(ぜつ)
味(み)
舌識(ぜっしき)
身(しん)
触(そく)
身識(しんしき)
意(い)
法(ほう)
意識(いしき)
形成され認識される一切の現象=「世界」
ll
無常・苦・無我
世界(一切)をまるっと全て滅する
ll
涅槃


その他にも問題意識の立て方がかなり共通する部分もあって、そうだそうだ、という共感の高まりをしばしば覚えました。

ただ、問題意識の焦点のポイントは共通するものが多々あるものの、その問題に対するアプローチの仕方と、その結果出された解の在り方については、かなり魚川さんと私とは相違があるのもまた事実です。

今回魚川さんは十二縁起に関しては詳述していませんが、この十二縁起における「六処」こそが「一切」における六根・六境のインタラクションであり、だからこそ、六根(六官or六入)は防護されなければならず、その防護こそが瞑想実践“そのもの”である、という私の視点については、是非彼に、検討して欲しいところです。

総じて六章までの論述の切れ味に比べ、七・八章の論述は私から見て少なからず杜撰であり、その結論は拙速に過ぎる点が多々見受けられました。

本ブログの趣旨は、私自身の探求のプロセスをシェアする事にあるので、余り他者の見解を評論する事に深入りする気はないのですが、例えば、同書第七章P173「遊び」において示された、

では、意味の判断も無意味の判断も失効したところから、衆生への利他のはたらきかけを行おうとする人々の心象はいかなるものであるのか。敢えて言語によって簡潔に表現するならば、それは「遊び」と言うのが適切である。

という一節と、そこから展開される論旨。これは問題意識の所在としては、私もこの「慈悲」の根拠については、だいぶ以前に本ブログに書いた記憶があり、大いに同感なのですが、その結論には?でした。

分かりやすく端的にいえば、ブッダについての「人間観」が非常に浅い、という感想です。

さらに、この「遊び」論から派生する、第八章の大乗仏教論については、率直に言って、何だかな〜、という印象を強く受けました。

「遊び」ならば何をどうやってもいい、ということならば、極論すれば「なんでもあり」に道を開いてしまうからです。

どちらにしても、日本人によって書かれた「仏教の原像論」としては白眉の出来であり、仏教と言うものの真実に興味がある人全てにお勧めできる内容であるのは間違いありません。

しかし総じて、パーリ経典とそのテーラワーダ的な理解について、文字通りマニュアル通りに正確に理解はしているものの、余りにも理屈通りでありすぎて、そう、分かりやすく言えば、いかにも「センター試験」で高得点を得られるような頭脳が書いたな、という印象が強く、そのような頭脳だからこそ、第七・八章は書かれうるのだな、という感懐でしょうか。

まぁ、どのような本もそうではありますが、彼の言説を鵜呑みにすることなく、常に冷静に批判的検証とともに学んでいくべきでしょう。

その、私の「批判的」視点から見て、もっとも象徴的な事実は、そもそもの書名からして、「仏教思想”のゼロポイント」であり、仏道修行のゼロポイント」ではない、という点は指摘しておきましょう。

私が興味があるのは、正にこの“仏道修行のゼロポイント”に他ならないからです。

実際のところ、ブッダが悟りを開き、その後45年間にわたって行ったことは、決して「仏教思想」を説き続けた、などと言う事ではなく、仏道、つまり悟りもしくは涅槃へ道としての修行道(目覚め=ニッバーナに至る為に修めるべき行道)、について、説き、導いたのですから。

仏教思想なるものが始まったのは、実際にはブッダの死後スッタやビナヤがまとまられて、それに関する「学」が成立して以降の話です。

魚川さんは盛んに「行学の両立」を説いていますが、実はブッダ在世の当時には、肩肘張った「学」など存在してはいなかった。

彼の真意は「考えるな、行じろ!」という事にあったからです。

勿論、ブッダの修道ガイダンスを正確に理解する、という意味での「学び」はあって当たり前なのですが、それが後世の“比丘サンガにおいてステータスを上げて出世する為の「学」”になり下がった果てにあるのが現在のテーラワーダにおける「論・学」なのですから、両者の乖離ぶりは著しいものがあると私は思います。

私も便宜的にパーリ経典を読み解くという「学」に携わってはいますが、その本心は、「学」が成立する以前のブッダの瞑想行道の原像に限りなく迫る、という事にあります。

その焦点とは、正に沙門シッダールタがブッダガヤの菩提樹下に結跏趺坐し悟りを開いたその「プロセス」であり、そのプロセスを「方法論」として明確に言語化し、最初に説いてコンダンニャが悟ったという、その“メソッド”の原像であり、その“作用機序”に他ありません。

魚川さんと突っ込んだ対話をした訳ではないので分かりかねますが、もし彼が私と同じような問題意識を持っているのならば、「仏教思想」というタイトル付けではなく是非「仏道修行のゼロポイント」という観点から、更なる探求を深めてほしいと思いました。

(そこにおいて、私が現代人にとって欠かすことのできないものと考えるのが、「脳・神経生理学的な作用機序」に他ありません)

彼の最終ゴールが、トレンディな仏教評論家になる、事などではなく、ブッダの到達した境地に自らも立つ、という事にあるのならば、せっかくミャンマーと言う恵まれた土地に住んでいるのですから、ますます瞑想実践に励んでいただきたい、と期待する次第です。

降って湧いたような魚川さんの登場で一時停止状態になっていた「瞑想実践の科学」シリーズですが、次回以降、上記「仏道修行のゼロポイント」という視点も絡めて、考察を深めていきたいと思います。

そこにおいて、適宜魚川さんの論考をプラクティカルに引用参照する機会もあるかと思います。


この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。 
また、チャクラの国のエクササイズにおける探求から接続しています。

このブログ内容は広く知られる価値がある、と思った方は、下記をクリックください


 

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閉じる コメント(12)

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6月16日の東京新聞11面(こちら編集委員室)に、「仏教フロンティア」という題で、魚川祐司さんの「仏教思想のゼロポイント」の紹介記事がありました。

書いたのは、姫野忠さんという方です。

私の方に転載させて頂いておきます。

なお、「仏教思想」と言う表現ですが、sangamさんのおっしゃるとおりなんでしょうが、現代の上座部仏教や大乗仏教までを仏教とすれば、「思想」と言う他ないような気もします。
「梵網経」でいう「見解」=「思想」という見方。

2015/6/20(土) 午前 0:12 [ avaro79 ] 返信する

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avaさん。僕もそう思います。わざわざ仏教に思想を付けなくてもいいのでは?付けるとしたら、祖師においてとかになるでしょうね。 削除

2015/6/20(土) 午前 9:26 [ ざじん ] 返信する

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魚川さんは多分、日本において乱立する仏教思想群の中で混乱して見失われてしまっている、「思想的原像」をひとまず明らかにする、という視点に立っていたのだと思います。
その意味では「ゼロポイント」は正に名著です。が、しかし彼の認識しているゼロポイントが100%イコール、ブッダの直説かと言うと、本人もわきまえているようですが、答えはNOでしょう。その点は次回作でもっと探求を深めてもらう事を期待しています。
彼は確か東大の印哲か何かから仏教に入った人なので、おそらくはそもそも「思想」として頭から入った、という事なのでしょうが、もう少し「自分自身の実践」という視点からも言及が欲しかったです。何と言うか、「他人事の“思想”」としていくら饒舌を奮っても、リアリティに欠けてしまって、もったいないと思うのです。

2015/6/20(土) 午前 11:36 Satoru T. 返信する

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まず、あらためて、ご尊父のご逝去にお悔やみを申し上げます。

私は、母を亡くした時トテモ耐えられない思いをしました。

父に対してはsangamさんと似たような気持ちを持っていましたが、父が亡くなる頃にはそういう気持ちは無くなっていました。

父にも、勿論、母にも、もっと長生きして欲しかったと今も思っています。

ただここに辿り着くまではやはり時間が掛かりました。

今は私自身が見られている立場にいます。

どう見られ、どう見捨てられようと、それは人間なんだから仕方ないものだと思います。

究極では、人間は一人なんだという釈尊の言葉通りだと思います。

2015/6/20(土) 午後 0:08 [ avaro79 ] 返信する

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sangamさんが、魚川さんが涅槃を体験していないと思っていられるとしたら、それを明確にした方がいいと思います。

もしも、体験したのではないかと感じるのであれば、その理由も明確にした方がいいと思います。

何故かといいますと、仏教書を書いて売る人のほとんどは「涅槃を体験した」という確信無しに売文をやっているからです。

たとえその体験が釈尊とは違っていても、釈尊の説法を深く理解した上で「私は涅槃を得た」と確信したなら、他人を救える可能性があるからです。

魚川さんの本、買うつもりはないのですが、借りて読めるなら読もうかとも思いましたが、やはり、今回の本は読みません。

2015/6/20(土) 午後 0:14 [ avaro79 ] 返信する

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というよりも、釈尊を語るなら、無料ブログで「仏教思想のゼロポイント」を公開すべきだったと思うのです。

例え100円であっても、釈尊の教えを金で売ってはならないと思っています。

あ、学者の本は別です。

これは辞書みたいなものでしょうから。

学者はある意味売文で生きているのでしょうから。

愚考です。

2015/6/20(土) 午後 0:18 [ avaro79 ] 返信する

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自称「ニー仏」として屁理屈やの開き直りが混じっているような感じもしますし、どこまで真剣かが問われるところでもあるでしょう。
そうなんですよね。どこかリアリティに欠けてるところがあるんですよね。発想自体は面白く勉強もされてるようだから、勿体ないといえば勿体ないようなあり方をされてるような気もするんですよね。 削除

2015/6/20(土) 午後 0:35 [ ざじん ] 返信する

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あるお坊さんの引用をしてみます。
≪仏教は、実存を全体として自覚しようとするとき、まずその「言語内存在」という存在様式それ自体を問題にします。そして、この実存を、何らかの原理や理念を持ち出して根拠づけることをせず、それ自体を禅定などの方法で解体して、その「外」に視点を設定する方法をとります。その視点から露わになるのが、「無常」「無我」と呼ばれる事態です。つまり、仏教は形而「上」学ではなく、形而「外」学です。

このとき問題なのは、形而「上」学は、実存に根拠を言語によって明白に提示するのに対し、形而「外」学はそれを与えないことです(「悟った」からと言って、実存する限り苦悩はやまず、「ニルヴァーナ」は何のことか説明がない)≫
説得力があるなと思いました。 削除

2015/6/20(土) 午後 1:08 [ ざじん ] 返信する

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Avaroさん、ありがとうございます。
父子の葛藤。これは、もの凄くありふれた話なのかもしれませんが、このような卑近な視点からブッダを見る、という事は今までの仏教学ではあまりなかったのでは、と思います。シッダールタだってただの凡夫、我々と同じ人間に過ぎません。
だからこそ、我々もまた彼の通った道を歩む意味があるのでは、そう私はいつも思っています。ブッダの瞑想法とは、凡夫の凡夫ゆえの苦しみを快癒させる療法なのですから。

2015/6/20(土) 午後 10:51 Satoru T. 返信する

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仏教を飯のタネにしない。以前、人気のある仏教系のライターが自宅に隠し持っていた?2億だかの現金を盗まれたっていう話がありましたっけ。
スピリチュアル・ビジネス、というものを第一に批判したのがブッダなのですから(バラモン批判ね)何をかいわんや、ですかね。
でも私は、魚川さんの学・行の精進は、十分に報われるだけの価値はあると思っていますよ。多分、将来的には研究室に戻るのではないでしょうか。

2015/6/20(土) 午後 10:52 Satoru T. 返信する

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ざじんさん、形而「外」学、ですか。言いえて妙ですね。
ちょっと調べたら、形而下学は五官で把握できる対象について、形而上学とは五官ではなく意官、つまり心だけで把握できる事柄についての学、という事です。
要するに「形而上・下」で五官六官の十二処・十八界になるわけですから、ニッバーナとは正しく「形而“外”」の“それ”になりますね。

2015/6/20(土) 午後 11:01 Satoru T. 返信する

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魚川さんも、「不立文字」を言語化する、という事の虚しさというものは十二分に自覚したうえで、それでも、ニッバーナというものがそもそも何なのかという、その感触すら知ることができなければ、そもそもそれに向かって志を向ける、という事も難しいので、敢えて非言語的なそれを、可能な限り言語化して肉薄して、最低限度のアウトラインを知り、そして伝えようと考えているのではないでしょうか。
私は基本的に、魚川さんには期待しているのですよ。少々オタクっぽい怜悧な官僚臭が漂ってますが、私は頭の切れる人は嫌いではないですから。機会があれば、是非「対局」してみたいものです。

2015/6/20(土) 午後 11:08 Satoru T. 返信する

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