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かなり、更新に間が空いてしまいました。

現在、実家に同居してひとり残された老母の介護生活をしているのですが、父の死後、一番大変だったのが、煩雑かつ多岐にわたる書類手続きでした。

住民登録のある役所での諸手続き。ありとあらゆる名義人を、父から母へと変える事。そしてもうひとつ、母の年金関係の諸手続きです。

中でも大変だったのが、年金関係の書類でした。うちは父が公務員だったので、共済組合と厚生年金の遺族年金を母は受け取る事が出来るのですが、その必要書類を整えるのが、正に『カフカの城』状態で、結局最終的に完了したのがこの22日の事でした。

これは、その苦労話を書くだけで優にブログ記事が10本は書けるのではないか、というくらい、思う事の多い作業経験だったのですが、まぁ、本ブログのテーマからは外れるので、割愛します。

ただ、もし読者の方で自身が高齢の父であるという立場の方、あるいは逆に私と同じようにこれから高齢の父を見送る、という立場の方がいたら、是非生前に、様々な事柄について、情報を整理して伝達しておく事をお勧めします。

私の場合はそのような問題はなかったのですが、特に動産・不動産を問わずある程度まとまった遺産の見込まれる方は、相続の問題についても生前にクリアにしておく事を強くお勧めします。

そんなこんなでここしばらくは父の死にまつわる事後諸手続きの実務モードに私の脳みそは完全にシフトしてしまっていたので、ブログを書く気にもなれずその暇もなかったのですが、ようやく一段落できたので、ぼちぼち投稿を再開していきたいと思っています。

そこで今回は、投稿再開に合わせて、改めて私がこのブログを書くにあたって考えている基本的な立場、と言うものについて、再確認の意味合いも込めて、以下にまとめてみたいと思います。

私が『仏教』というものに向き合う時に、その関心の焦点になるのは、今回タイトルにも書いたように、『仏道修行のゼロポイント』という一点に他ありません。

この場合『仏道修行』というのは、苦悩する沙門シッダールタが、ブッダガヤの菩提樹下に結跏趺坐して、それまではどうしようもないかに見えた『苦悩』から解脱して涅槃(ニッバーナ)に至ったという、正にその悟りへと彼を運んでいくことを可能とした瞑想行法そのものになります。

そこには、もうひとつ重要な事があって、それは、その自らの悟りの経験とそこに至るための『方法論』が、彼個人の中で完結して終わってしまったのではなかった、という歴史的な事実です。

彼はその悟りの経験とそこに至る為の方法論を見事に言語化して他者へと伝達し、初転法輪の地サールナートにおいて、五比丘のうちのコンダンニャが、その最初の『悟りの継承者』としてブッダ自身によって承認されたのです。

この沙門シッダールタ自身による悟りの経験とその他者への伝授、この二つを持って、私は仏道修行のゼロポイント、としたいと考えています。

言葉の真の意味でゼロポイントと言うのならば、ブッダ個人が悟りを開いたその瞬間を、単独でゼロポイントとするべきではないか、という見方があるのは分かります。私自身も決してそのような考え方を否定する訳でもないのです。

しかし、本ブログの趣旨、並びに私自身のスタンスを考えると、ブッダひとりの悟りの経験のみを取り出してゼロポイントとなすのは、やはり片手落ちになります。

それは、私たちが日常何の気なしに使っている『仏教』という言葉の中に、全て凝縮して表されています。

そう、仏教とはブッダの教えであり、ブッダ、つまり涅槃に至った悟りを開いたゴータマ・シッダールタが、その同じ悟りに至れるように、自らの経験を言語化して、他者に教え伝えた、その伝授された情報の体系をこそ、『仏教』と私たちは呼ぶのですから。

私たちが仏教を学ぶ、と言う事は、究極的にはコンダンニャの立場に自らを置く、と言う事です。

少なくとも私自身がこのブログを書いている『意味』とは、正にコンダンニャが2500年前のサールナートの鹿の森の樹下において、ゴータマ・ブッダによって言語化され伝授された智慧とそこに至る為の方法論そのものを、現代日本語において、限りなく100%に近い形で『復元』する事にあります。

ブッダはその時、「コンダンニャは悟った!」と歓喜の声を上げたと経典には記されています。

ではどうやって、コンダンニャは悟ったのか?

教典には、形式上“あたかもブッダの説法を聞き続けそれを「知的に」理解しただけでコンダンニャは悟った”、かのような内容がまま見られますが、もちろんこれは形骸化した記述に過ぎません。

コンダンニャは当然の事ながら、ブッダによって言語化された瞑想修行の方法論を知的に理解し、その瞑想行法を体得的に実践した結果、悟りを開いたのです。

これは誤解を恐れずに単純化して譬えると以下のようになります。

ある人が人類史上初めて、膝蓋腱反射、という一見摩訶不思議な生理現象を発見したとします。膝のお皿の下のくぼみを木槌などでコンっと叩くとつま先がぴょんっと跳ね上がる、あの神経生理現象です。

あの膝蓋腱反射が生起するためには、いくつかの重要な要件があり方法論があります。智慧ある彼はその全てを直感して、膝の下の特定ポイントを必要十分な強さと角度で持って叩き、自身の身体において見事につま先を跳ね上げる事に成功したわけです。

そして彼は自ら膝蓋腱反射を体得しただけではなく、その為の要件と方法論を見事に言語化して他者に伝え、その他者自身の身体において、その本人自身の手で、同じ膝蓋腱反射を惹起させる事に成功しました。

膝蓋腱反射というものは、脊髄反射とも言われます。何やら難しい漢字の羅列で「なんじゃそりゃ?」と思う方もいるかもしれませんが、目のまえで見せられて、ちょっとコツを口で説明してもらえれば、すぐに納得し誰でも再現する事が出来る、基本的な身体の生理特性に過ぎません。

ブッダの瞑想法とその実践の結果として体験されるニッバーナとは、究極的にはこの膝蓋腱反射と変わらない、人間の身体システムに内在する普遍的な「作用機序」、つまり脳神経を中心としたシステムに内在する“メカニズム”の起動に他ありません。

沙門シッダールタの身体はコンダンニャの身体であり、私の、そしてあなた自身の身体でもあります。この極めて平明な事実、もしくは真理を、まずは深く理解してください。

私の身体において、一定の要件を満たした方法によって膝のお皿の下のくぼみを木槌で叩いてつま先がぴょんと跳ねあがるのならば、同じ人間の同じ身体を持っているあなたが、同じ要件を満たした方法によって同じように膝の下のくぼみを叩けば、同じようにつま先はぴょんと跳ねあがる。

その事に疑いを持つ人はおそらくいないでしょうし、“事実”としてそれは誰にでも起こるのです。

沙門シッダールタは、正にあのブッダガヤの菩提樹下の禅定において、その要件と方法論を模索しつつ発見・確立し、ついにニッバーナへと到達した。

そしてその経験したプロセスの作用機序を明晰に理解し、その要件と方法論を分析的に言語化して、かのサールナートで五比丘に口頭で伝えたのです。

そして最初に“つま先をぴょんっと跳ねあげる”事に成功したのが、正にコンダンニャだった。

同じ人間であるコンダンニャに起こった事ならば、さらには沙門シッダールタに起こった事ならば、たとえ2500年と言う時の流れで隔てられていようと、同じ人間である私たちにおいても、それは起こらないはずはないのです。

その事に疑いを持たない人だけが、これから先このブログを読み続ける意味があります。

ただし、もちろんこれは極めて単純化した喩え話であって、単なる身体的な神経生理現象である膝蓋腱反射と、ブッダの経験したニッバーナとでは、問題の“次元”が少なからず違う、というか完全に違う、のもまた事実です。

沙門シッダールタにおいて、そしてその「一番弟子」であるコンダンニャにおいて惹起されたプロセスが、同様に私たちの心身において起動する為には、様々な要件と精密な方法論が膝蓋腱反射以上に求められるでしょう。

けれどゴータマ・ブッダはそのプロセスを論理的に把握して言語化に成功し、五比丘達に口頭で伝え、見事にコンダンニャはそれを知的に理解し、体得的に瞑想行法を実践し、悟り得た。

私見ではありますが、現代世界に流布するいわゆるブッダの瞑想法、あるいはヴィパッサナ・メディテーションのシステムは、このコンダンニャが体得したブッダ直伝の瞑想行法の、感覚的には65%くらいしか復元できてはいない。

いい線いってるけれど、完全ではない。とっても残念な部分があり画竜点睛を欠いている。それが偽らざる私の実感です。

こう言うと、「な〜にを偉そうにド素人がほざいているのか!」という声も聞こえてきましょう。しかしながら、それに対しては、「分かる人には分かるでしょう」としか、私は言いようがありません。

ただひとつ、これだけは言える事があって、それは、瞑想という心身総体を用いた営為は、優れて感性、もしくは感受性に根ざしているものであって、そのような感受性を根本的に欠いている人間には、永遠に理解しようがない事もある、という冷徹な事実です。

さらに加えるならば、たとえその感受性に恵まれた者ではあっても、「精進」もしくは「決意」を欠いた人間には、周辺をうろうろする事は出来ても、ニッバーナという核心部分に到達する事は極めて困難だろう、と言う、これもまた冷徹な事実です。

テーラワーダ仏教という名の“黒船”がニッポンの大乗仏教界に襲来して以降今日に至るまで、『ブッダ本来の瞑想法』の名において様々な教説が乱れ飛んでいる昨今ではありますが、基本的に私は、ニッバーナ、あるいは“悟り”というものを“安請け合い”する指導者(解説者)を信用はしません。

そういう安直な指導者に限って世俗的な人気は高かったりもするのですが、それはいわゆる政治家と市民・有権者との関係性と同じで、推して知るべき、ではないでしょうか。

「越すに越されぬ大井川」 じゃ〜ありませんが、此岸と彼岸の間には超すに超されぬ“輪廻の大海”の激流が渦を巻いているのです。その事はブッダ自身の言葉として、繰り返し繰り返し、経典の中に記されているという明確な事実を、真摯な求道者は決して忘れるべきではないでしょう。

何やら抽象的な事柄に終始してしまいましたが、魚川さんの突然の登場や父の死に直面して、しばらくの間足踏み状態にあった本ブログですが、今回の投稿を持って、再出発に向けたある種の“仕切り直し”とさせて頂きます。

コメントなどのフィードバックが少ないので、正直言って、本ブログの読者の方々の実像と言うものは私にはまったくつかみ様がないのですが、こんなにもマニアックなブログを訪問するという事は、すべてではないにしても、少なくとも仏教とその修行道というものに真摯な関心と志を向けている方がほとんどではないか、と推察します。

現在本格的な母の介護生活に向けて、いわゆる「実家の片づけ」と言うものにボチボチ取りかかっており、更新頻度も間遠になりがちかとは思いますが、今後とも本ブログ『脳と心とブッダの悟り』を、よろしくお願いします。


この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。 
また、チャクラの国のエクササイズにおける探求から接続しています。

このブログ内容は広く知られる価値がある、と思った方は、下記をクリックください




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