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これまで本ブログでは、『瞑想実践の科学』シリーズを中心に、ブッダの瞑想法の“作用機序”について、外堀を埋める形で様々な考察を行ってきました。

そのブッダの瞑想法、と言うのは、端的にいえば前回記述した通り、2500年前のウルヴェーラ村の菩提樹下において『ある瞑想法』を用いてニッバーナに至り悟りを開いたゴータマ・ブッダが、その瞑想法の作用機序を明確に理解した上でそれを言語化し、サールナートの鹿の苑において、最初の弟子である五比丘達に口頭で伝授し、それを知的に理解して体得的に実践したコンダンニャが、まずは悟りを開いたという、そのブッダ直伝の瞑想法そのものを意味します。

そのブッダ直伝の瞑想法の核心とは、“六官の防護”にあった。それがここ最近の『瞑想実践の科学』シリーズの流れの果てに到達した、最終的な結論でした。それを概観すると、以下のようになります。



病に苦しむ給孤独長者(アナータピンディカ)に向かって、サーリプッタは五蘊・十二処・十八界に対する執着を手放すことを教えました。

その五蘊・十二処・十八界こそが、この苦海である『世界』を構成する『一切』であり、その『世界』に拘束されている限り、苦から逃れる事は出来ないのだと。

そして、それを聞いて歓喜したアナータピンディカに対して、アーナンダはこう言いました。

「資産家よ、白い衣を着る在家者たちには、このような法話は通常明らかにされないのです。資産家よ、このような法話は出家者たちにだけ、明らかにされるのです」
原始仏典第7巻 第143経 教給孤独経:Anathapindikovada Sutta P516〜525(勝本華蓮訳)より

つまりこの五蘊・十二処・十八界と言う“一切世界”に対する執着を手放す教えとは、通常では在家者には決して明らかにされる事のない、出家修行者だけに開示される秘伝であると。

その真意を簡単に図示化したのが以下になります。

《世界》
〈一切〉
十八界
十二処
(五蘊の色)
 (五蘊の受想行識)
六根
六境
六識
眼(げん)
色(しき)
眼識(げんしき)
耳(に)
声(しょう)
耳識(にしき)
鼻(び)
香(こう)
鼻識(びしき)
舌(ぜつ)
味(み)
舌識(ぜっしき)
身(しん)
触(そく)
身識(しんしき)
意(い)
法(ほう)
意識(いしき)
形成され認識される一切の現象=「世界」
ll
無常・苦・無我
世界(一切)をまるっと全て滅する
ll
涅槃》

そして、仏道修行という観点から見て、この一切世界であるところの五蘊・十二処・十八界の“焦点”となるのが、眼耳鼻舌身意の六根に色声香味触法の六境が“流入”する現場であり、それこそが、十二縁起の五番目にある六処(六入)に他ありません。


無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死

この十二縁起における六処とは、六官と六境とを合わせた十二処、すなわち“六内外処”を含意しており、六官に六境が(情報刺激として)流入するからこそ、そこで“触”れる事が生起する訳です。

上図の世界(一切)をまるっと全て滅する』とは、もちろん四聖諦における滅とその道を意味しますが、この『滅』の原語はnirodhaであり、その原意は“せき止める”であることは、ご存知の方も多いでしょう。

では何をどこでどうやって“せき止める”のか。最初の“何をどこで”の二つはもちろん、色声香味触法の六境が“流入”する事を、眼耳鼻舌身意の六根(官・処)において、せき止める訳です。

この六境の流入とは端的に六欲の原因であり、後世には六欲の煩悩の漏(Asava)、すなわち煩悩の“流出”へと転化していきました。

流入であれ流出であれ元をただせばひとつの事です。まずは六境が入らなければ、六欲の煩悩が出る事もないのですから。

この流入(出)を“せき止める”事こそが、パーリ経典において繰り返し語られている、“六官の防護”、に他ならない、そう私は考えています。

「何故ならば、感覚器官を防護せずに過ごしていると、欲や不快感といった悪く良くないもの(不善法)に侵されるからである。」
「感覚器官を守りなさい。感覚器官防ぎ止めなさい。」

上記の「欲」とは六官の欲(六欲)であり、「悪く良くない不善法に侵される」とは、“侵入される”と読めば分かり易い。

しかし、侵入するのを防ぎ止める(堰き止める)といっても、一体どうしたらいいのか。“どうやって”それは成就・実現され得るのでしょうか。

その“どうやって?”という問いに対する答えこそが、『それは、ブッダの“瞑想メソッド”によって』、という事になります。

パーリ経典において記述されている『修行道』の中で、この『六官の防護』というものが持っている重要性については、日本の仏教学者の方も指摘している事なので、以下に引用しましょう。

下図、初期仏教における修行道の発展(PDF) (古川洋平著)P391よりキャプチャ引用。

イメージ 1
中部諸経典に記述された仏道修行の流れと、その中の「六官(感官)の防護」

パーリ経典を一通り読んだ経験のある方には良く分かると思いますが、中部経典だけではなく、長部、相応部を問わず、実に多くの経典において、この六官の防護というものは必須的に強調されているものです。

大乗仏教の中でも、例えば修禅の要諦について詳述した天台智擇砲茲辰峠颪れた天台小止観などでも、五官・六官の防護は中心的な位置づけをされている事から見て、それが仏道修行というものの根幹を指し示す重要な概念である事が分かるでしょう。

下図、『天台小止観』の研究(一) 大野栄人 よりキャプチャ引用。

イメージ 2
注記の34と36には仏道修行と五根(六根)との関連が説明される

上のキャプチャ画像を読むと34では、
「天台がいう止観は、眼・耳・鼻・舌・身・意の五根(六根)の対象となる対境(観境)を対治するための実践行をいう」
とあり、

36では、
「無漏=眼・耳・鼻・舌・身・意の五根(六根)から流れ出、漏れる煩悩を有漏というのに対する語。眼・耳・鼻・舌・身・意の五根(六根)から流れ出、漏れ出る不浄なもののない、汚れのない事を言う。要は煩悩のない境地を言う」
とあります。

34で言う止観とはサマタ・ヴィパッサナであり、つまりはブッダの瞑想法であり『禅』ですから、天台智擇学んだ『禅』とは“眼・耳・鼻・舌・身・意の五根(六根)の対象となる対境(観境)を対治するための実践行”であり、その焦点になるのは六根・六境である事は明らかでしょう。

36で言う無漏とは、“汚れのない事を言う。要は煩悩のない境地を言う”とあり、つまりは涅槃=ニッバーナの境地を意味します。

その無漏とは六根から流れ出る煩悩がすべて無くなることであり、六根から煩悩が流れ出る、と言う事の真意は、前述したとおりそこから六境の情報が流入する事に起源する訳で、これも、無漏=ニッバーナ(悟り)という最重要ワードの肝となるものが六官の防護(漏入出を防護する事)である、と言う事がよく分かると思います。

以前、この六根の防護、という概念について紹介した時(瞑想実践の科学 6 六官の防護と「理法」)に、日本の修験道に伝わる「六根清浄」という掛け声・誓願、について話しましたが、仏道修行の核心にあるのがこの六根の清浄であり、その為に必要な事こそが、“六根(六官)の防護”である、と言う流れが、分かって頂けるでしょうか。

しかし、パーリ経典を見ても天台小止観を見ても、その六根の清浄=六官の防護=ブッダの瞑想法(そのもの)、という論理は分かりにくく、残念ながら明示されきっているとは言えません。

“天台智擇学んだ『禅』とは“眼・耳・鼻・舌・身・意の五根(六根)の対象となる対境(観境)を対治するための実践行である”という説明がそれを示しているのですが、「六官の対象となる対境を対治する」、などと言われても、正直、良く分かりませんよね(笑)

おそらくは、こういう文章と言うものは、往々にして書いている本人にさえ、その真意は良く分かってはいないのかもしれません。

実際に、私が天台小止観を読んでみた限り、天台智擇陵解した「六官の対象となる対境を対治する」、という事の意味内容は、本来のブッダの真意からは大きくかけ離れた言葉の上の観念論に堕しており、おそらく彼は、瞑想実践の核心部分について、“原理的には”何一つ理解はできていなかった、のかも知れません。

またこれは、現代に伝わるテーラワーダ仏教の基礎を創ったというブッダゴーサにしても、同じ事が言えるのではないかと思われます。

彼の著書、清浄道論(ヴィシュディ・マッガ)を瞥見すると、この仏道瞑想修行の根幹に位置するはずの“六官の防護”というものが、戒のまとまりのひとつとして位置づけられている。

この点について説明する前に、簡単にヴィシュディ・マッガの構成について知っておいていただく必要があります。

私の手元には英語の“The Path of Purification” 1991、5th Edition BPS版と、ネット上に公開されている正田大観さんの日本語訳がありますが、英語版では明らかですが、大きく戒の部、定の部、智慧の部の三部構成になっています。

その中で戒の部はさらに「戒についての釈示」と「払拭〔行〕の支分についての釈示 」の2章に分かれ、“六官の防護”は「戒についての釈示」の中の一節で簡単に触れられているのです。

英語版の三部構成を前提に、正田版の目次をツリー表示すると以下のようになります。

第Ⅰ部「戒」→第一章「戒についての釈示」→五「また、この戒は、どれだけの種類があるか」→(四)「四種類のものとしての戒」→2〔感官の〕機能における統御としての戒

最後の2〔感官の〕機能における統御としての戒の中で、六官の防護について集中的に論じられているので、ブッダゴーサという人が、感官の防護と言うものを、徹頭徹尾「戒(シーラ)」という“意味”で捉えていたという事がよく分かると思います。

仏道修行とは、それすなわち戒・定・慧の三学の体系である、とはよく言われます。その意味では、この清浄道論は見事に王道を行っている。

しかし、いったいこの“六官の防護”とは客観的に見て、本質的に戒と定、どちらのまとまりに属するのでしょうか。

あるいはより分かりやすく、“ゴータマ・ブッダ本人は”、この六官の防護という概念、もしくは“営為”を、戒と定、どちらに位置付けていたのでしょうか?

面白い事に、私が読んだ春秋社刊 原始仏典第六巻 中部経典79:「箭毛経Ⅱ」では、訳者の方はこの六官の防護というものを〔精神統一に向けての準備〕という章建ての中に収めている。

下図、春秋社刊 原始仏典第六巻 P70〜 中部経典79:「箭毛経Ⅱ」からのキャプチャ引用

イメージ 3
前段「道徳」の章で戒が語られ、次章冒頭で六官の制御(防護)が説かれる

ネット上でこのMN79のパーリ原典をあたっても、このような章建ては明らかではありません。つまり、訳者の方の判断で、この六官の防護というものを定のまとまりに入れ、定、つまり精神統一(サマーディ)の準備段階として位置づけたのでしょう。

その理由は、「精神統一にむけての準備」と言う章建ての後に置かれる、「四段階の精神統一」という章建てを見ればよく分かります。

これは私の判断ですが、「精神統一の準備」において瞑想の“行法”が説かれ、「四段階の精神統一」で、その“行法の結果”として没入する“境地”が説かれていると考えると分かりやすいのです。

つまり、「精神統一にむけての準備」の章と「四段階の精神統一」の章ふたつがセットになって、戒定慧の「定」を構成している。

あるいは、ここで八正道を振り返ってみれば、正定の前段階である「正念」こそが、「精神統一にむけての準備」であり、“六官の防護”である、とも言い変えられるでしょう。

もちろん、戒定慧と言うくらいですから、戒そのものも精神統一(定)のための準備だと言えばそうなのですが、しかし、一般的な戒と、この六官の防護というものは、明らかに、“機能的な側面”から見て、完全に次元が異なるのです。

その事は、天台小止観において十段階に分けられた修行道の中で、第一段階である「具縁」の中に戒が位置づけられ、第二段階の「呵欲」において、五根・六根の欲を徹底的に否定し、離れること、という形で、独立して六官の防護が説かれている点にも現れています。

(この六欲の否定・厭離を前提としてはじめて、第六段階の“正修行”の中の「境に対して止観を修する」という瞑想行法が成り立ちます)

つまり「戒を具え守ること」と「六欲からの厭離(六官の防護)」とは、内容的にも“意義的”にも全く異なった段階に位置付けられていた。

この事は、上述した“天台智擇学んだ『禅』とは眼・耳・鼻・舌・身・意の五根(六根)の対象となる対境(観境)を対治するための実践行である”という言葉の中にも(たとえ智擇その真意を理解できていなかったとしても)全て集約されています。

ここで言う『実践行』とは、ブッダの瞑想法、すなわち禅の行法“そのもの”である、と理解されねばなりません。

そしてこの、ブッダの瞑想法そのもの、とは、ブッダの瞑想法を大きく止と観に分けた時の止の部分(サマーディ)を指します。

この原始仏典第六巻の訳者の方は、賢明な判断をもって“六官の防護”というものを戒とは違った次元における“精神統一のための準備”と位置づけた。その判断は全く正しく、ブッダゴーサの判断が間違っている事は、私の眼には明らかです。

(中部経典79:「箭毛経Ⅱ」もまた、とても興味深い経典なので、あとで改めて詳述する機会があれば、と思います。)

しかし、この訳者の方も、この“六官の防護”というものが、精神統一(サマーディ)、つまりブッダの瞑想法“そのもの”である、という事の“真意”にまでは考えが及んだかどうか(この点については対話して確認したいですが)。

たとえ考え及ばなかったとしても、これはたんなる学者・研究者として経典の文言に向き合うだけで瞑想実践については何一つ知らないのならば、ある意味仕方のない事かも知れません。

この訳者の方は、彼のあたう限りの学問的な理解力をもって、六官の防護について語る記述を「戒」の章建てではなく「精神統一にむけての準備」という章建ての中に収めた。それだけでもある意味十分立派な貢献と言えるでしょう。

逆に言うと、“六官の防護”を戒のまとまりに入れてしまったブッダゴーサが、一体、自らはどのような瞑想実践をしていたのか、という点が深く深く問われるべきかとも思われます。

(清浄道論については、未だ「定の部」の途中までしか眼を通しておらず、以上は現時点での暫定的な感想です。またいずれ、全巻読了したのちに、稿を改めて論じたいと思います。)

ここまでの流れを分かりやすくまとめれば、六官の防護とは、ブッダの瞑想法を止と観に分けた時の止、すなわちサマーディの深みに至る為の方法論(メソッド)そのものであり、“四禅へ導くもの”である、と言う事になるでしょうか。

そしてその六官の防護とは、天台智擇おそらくは理解していただろう様な、五欲・六欲の観念的・思考的な「“自律”的な言い聞かせ」による否定と厭離などではない、のです。

例えば色っぽいお姉さんが眼に入ってしまって、思わずそそられてしまった比丘が、「いかん、いかん!」と首を振ってその欲望を否定し、その不浄性や無常性や無我性や苦を“理知的に”思い起こして「厭離おんり」などと呪文のように唱えてその欲動から離れようとする、そのような次元の話では全くない、のです。

(天台智擇了彖曚砲弔い討詫召蠖柴匹澆任ていませんが、天台小止観の「修止観法門 第二:「呵欲=欲を呵責(かしゃく)する」 や、天台小止観の研究五−1:修止観法門 第六 「正修行」を読むと、そのニュアンスは概観できます。またいずれ改めて、本ブログ上にて考察してみます)

それでは、その六官を防護する“メソッド”とは具体的に何だったのか。それは私がこの「瞑想実践の科学」シリーズで、これまで延々と説明してきた全てが、正に“それ”を指し示すための“布石”であったという事になります。

以上を踏まえた上で、過去記事を順を追ってもう一度読み直してみて頂ければ、と思います。

中でも最も重要なのが、もうすでにお分かりの方もありましょうが、以下に論じた動物の調御法と比丘の瞑想修行道との“重ね合わせ”になります。

興味のある方は下から順に読んでみてください。

これらの“前提布石”を踏まえた上で、もう一歩このテーマに踏み込むための入り口として格好の題材があるので、次回はそれについて取り上げましょう。

それは、かのゴエンカジーが、そもそも何故ブッダの瞑想法に出会い、のめりこむ事になったのか、という、あの有名なエピソードです。


本ブログの記事は、連載シリーズになっています。
単独の記事を読んだだけでは何一つ理解できないので、
シリーズの第一回から遡って読む事をお勧めします。

この記事は、ブロガー版脳と心とブッダの悟りと連動しています。 
また、チャクラの国のエクササイズにおける探求から接続しています。

このブログ内容は広く知られる価値がある、と思った方は、下記をクリックください


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