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(哲学掲示板から)
2011/11/15(火) 22:39:21.21
ニーチェの第二の主著『権力への意志』第三部の項目である「芸術としての権力への意志」と「認識としての権力への意志」は、M.ハイデガーが『ニーチェ』の中で詳しく解説している。
白水社の『ニーチェ』では、「芸術としての権力への意志」に約250ページ、「認識としての権力への意志」に約200ページを割いている。「芸術としての権力への意志」が、ニーチェ哲学で極めて重要であることをハイデガーが説明していて納得できる。
ニーチェの「芸術としての権力への意志」について、ハイデガーは「芸術」という語を19世紀以前に使われていた語法・意味で「あらゆるものの生産能力」という意味で使っている。政治家が行政や外交をするのも「芸術」と捉え、将軍が戦争をするのも「芸術」と捉え、工場で製品を作るのも「芸術」と捉えた。
本来芸術は感性にもとづくものであり、この感性にもとづく生産能力から旧来の価値体系を転倒しようとする。感性とは時に激情であり、「力への意志」の「力」も「意志」も本質的に激情であるとハイデッガーは説明している。この芸術のもつ感性は超感性的なプラトニズムと正反対なものであり、超感性的なプラトニズムを転倒する基本原理であると言っている。
ハイデガーの説明は分かりやすいが、『権力への意志』第三部の「芸術としての権力への意志」の章のテキストと比べ、検討すべき部分もあるだろう。
2011/11/23(水) 20:40:47.43
ハイデガーが使った「あらゆるものの生産能力」。
「権力への意志」は人間の本能的意志であり、力への欲求と不可分であるのだから、「芸術としての権力への意志」も本能的欲求である。
いささか古いと言われるかもしれないが、フロイト学説の文明解釈論に私は留意している。
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精神分析学ではリビドーを、様々の欲求に変換可能な心的エネルギーであると定義している。リビドーはイド(簡単にいえば無意識)を源泉とする。性にまつわるものだけでなく、より正確には人間の性を非常にバラエティに富んだものへと向ける本質的な力と考えられている。
(中略)リビドーは非常に性的な性質を持つとして見られる一方で、全ての人間活動はこれの変形としてフロイトは理解している。特に文化的活動や人間の道徳的防衛はリビドーの変形したもの、もしくはそのリビドーから身を守るために自我が無意識的に防衛したものとして理解されている。(◆)芸術や科学の活動も、リビドーが自我によって防衛され変形したものである。
「リピドー」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%BC
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ハイデガーの解釈では、政治家が行政や外交をするのも「芸術」と捉え、将軍が戦争をするのも「芸術」と捉える。
荒廃した社会、崩壊しつつある社会を眼前に、「あらゆるものの生産能力」としての激情、即ち「芸術としての権力への意志」の発動。
『ツァラトゥストラ』では、性欲と権力欲を同時に扱った章があるが、「権力への意志」が性欲と不可分であることは同書などから理解できる。フロイトと決別したA.アドラーは性欲ではなく権力欲を人間の根本衝動としたが、ニーチェの「権力への意志」とは性欲と権力欲からなる合成物であろう。
ニーチェの「権力への意志」とは性欲と不可分なリビドーであり、人間を常に駆り立てる激情、「あらゆるものを産み出す生産能力」としての激情、即ち「芸術としての権力への意志」として自己表現される。
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