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 しばしば、「数学は(自然)科学か」という議論を見聞きする。

 科学哲学界においては数学が科学でないことは自明のこととして扱われていると思っていたのだが、こうした議論は後を絶たない。たぶん、数学が科学でないとしたら、では何なのかという議論が不足しているからだと思う。以下に、このことを巡って考えたことを、とりあえずの備忘録としたい。

1)数学における「証明」と科学における「実証」の違い
 数学の定理が科学の学説と違って反証されることがないのは何故かということから考えてみよう。このことは、下記ウェブページでも議論されている。
http://q.hatena.ne.jp/1210570897

 この問題は、数学の成果を「学説」や「理論」などと呼ばずに「定理」と呼ぶことと関係している。また、科学における「実証」を数学では「証明」と称するのも同質の差異を表現している。

 科学における実証や反証は、外的世界の観察を通してなされる。例えば、直角三角形の形をした多数の物体や描かれた図形の三辺の長さの実測から帰納して、三平方の定理が一定の精度で成り立っていることを主張するようなものである。実際には、直角三角形にはいろいろな形やサイズのものが無数にあるので、これらの全てについて検証するのは不可能である。一方、数学では、例えば各辺を共有する正方形の面積を考えることで形やサイズによらず任意の直角三角形についてこの命題が真であることが証明できる。こうしたことが可能になるのは、直角三角形という概念そのものは、前提とされる性質を持った空間内にただ一つしかなく、時間によらず不変であることによる。従って、ある問題が、実在の物体とは無関係に存立しうる数学的概念だけで置き換え可能である場合には、科学の方法を用いずに数学の問題として解くのが普通である。

 対象概念の性質に基づく一般解として証明することが不可能な場合には数学的帰納法が用いられる。例えば、全ての自然数についてある命題Pが成立するか否かを、「P(0)が真」 → 「任意の自然数mについてP(m)が真であるときP(m+1)が真」、という手続きによって証明する。数学的帰納法は、定理や論理を用いて、対象となる概念を構成する全ての要素において命題が真であることを論証するので、演繹法の一種とみなされていることに注意を要する。

 このように、数学では、ある命題に要請される全ての対象事例について真であることが論証されたときに証明が終る。言い替えれば、反証される可能性のないことが示されることによって証明が終り、定理が生まれる。もちろん数学でも、論理のミスなどから誤った論証がなされ、後に否定される可能性もあるが、「定理」の地位が確立されたものに反証された事例を知らない。自然科学の学説が、無数にある自然の対象要素の中に理論と矛盾する事象が隠れている可能性を前提としていることと決定的に異なっているのである。

2)数学と科学の研究対象の違い
 数学は、人が定義した概念だけを研究対象とし、個々の概念は不変である。この点で、人自身もその一部であるところの「外的世界」に実在する事象を研究対象とする科学とは根本的に異なっている。科学においても、多様な事象の中にある規則性の発見から、恒星、惑星、気体、液体などの「概念」が定義されるが、そのような定義自体が特定の科学理論に基づいており、曖昧さを伴い、しばしば訂正を余儀なくされる。また、科学が具体的に研究したり検証したりするのは、その概念自体ではなく、実在する個々の構成要素である。

 前述した例で言うと、実在する直角三角形の形をした物体や描かれた図形には様々のサイズ・形状のものが無数にあり得るし、そもそも、本当にそれが直角三角形の形をしているかどうかが問題となる。それらは直角三角形という属性以外にも、他の様々な属性を伴っているので、それらの相互作用によって明日は三角形ですらなくなる可能性もある。科学が研究対象とするのは、そういうものである。

3)科学の懐疑主義の源泉と数学の前提
 科学の学説は、全ての対象要素についての検証を断念しつつも、その正しさを、あの手この手で主張する。例えば、無作為に抽出された有限個の対象要素についての検証をもって、その統計的な確からしさを明らかにする。これでは、「証明」と言うにはほど遠いし、当然、反証可能性が残される。ラカトシュがポパーを批判して言ったように、それ自身が科学の営みである反証実験を絶対視することもできない。こうした科学の曖昧さというものは、科学で用いられる「概念」そのものの曖昧さに由来し、不可避である。科学の徹底した懐疑主義はそうしたことに根ざしているが、数学は、数学の定理を懐疑しない。それは、数学が、内部矛盾のない体系をアプリオリとし、それがどのように完結しているかを明らかにしようとしているからである。

4)科学の進歩とは確からしさの増大と適用範囲の拡大である
 科学は曖昧さの中にも「本質論的な法則性」を見出そうとする。法則とは、一定の前提条件の下での「一般解」であり、これを実現するために数学の力を借りることがある。しかし、例えば、具体的な物体が数式で示されるとおりの運動をするとは限らない。その数式が仮定しない他のなんらかの力や観測上の問題が介在している可能性があり、この場合、実測によって明らかにされるのは数式で示される理論が近似的に成り立つことだけである。そのことをもって、この理論が証明されたことにはならないが、科学では、具体的な問題にとって必要な精度とともに議論されるので、その精度の範囲内で検証されたことにする。

 やがて、検証実験の増加や観測精度の向上により否定的事例の発見がもたらされると理論の修正が目指される。そして、新たな素過程の介在が明らかになったり、別の理論で置き換えての検証によって、予測の精度が上がったり、理論の適用範囲が広がったりする。これが科学の進歩の一形態である。したがって、一度否定された理論も、限定的な前提条件と一定の誤差の範囲内では有効に使えるものである場合が多い。

5)数学とは何だろう
 言葉の定義次第では、数学も「科学」の一種とみなして良い。例えば、文科省や学術振興会が主催する「科学研究費補助金」の公募対象に数学も含まれるが、この場合の「科学」は、「厳密な学問」というほどの意味にすぎず、哲学、文学、言語学なども同じく公募対象となっている。数学が大学などで自然科学研究の組織に組み入れられているのは、それが自然科学研究のための強力なツールとみなされているからであり、また、他に適当な所属先がないことにもよる。しかし、科学哲学上の議論の中で、数学の営みやその成果を科学との対比で実態に即して論じようとするなら、両者の本質的な違いに注意を払うべきであり、この点で数学はむしろ哲学や言語学の方に近い。

 数学が、ある種の概念のつくる完結した体系の存在をアプリオリとし、記号を用いてその構造を研究するという実態は、それが言語学の基礎論の一種として存在していることを示す。数学は、広い意味での「言語学」の中で、主として数や図形の概念がつくる構造を、純粋論理の文法を用いて記述するための言語についての学問ということで良いのではないかと思う。
 
6)数学と(自然)科学の関係
 数学は、人が「外的世界」と接して、1+1=2、と記述したら便利だというような素朴実在論的な経験にその起原を求めることができるかもしれない。しかし、そうした経験によらずに、例えば、1+1=3と(文法を)定義し、そこから出発して壮大な別の体系を構築することも可能である。そのような、<理念>に基づいて構築される内部矛盾のない一つの論理体系を「体(てい:body)」と呼ぶ。論理的には無数に存立可能な「体」の中から、人は、まるで「自然」の<写像>であるかのようなただ一つの「体」だけを、なかば無自覚に選択して発展させてきた。このことは、たぶん、認識論にとって決定的に重要な意味を持っている。

 そのように、人が理念の幾何学としての数学の体系の中に「自然」を写しとって見るのは、フッサールによれば、<理念>を構成しうる与件としての純粋意識のもつ指向性と対象性に依っている。そこでは、人が「自然」を観察して帰納的に新しい発見をするに際してと同じ構造の<理念>が介在している。「外的世界」についての人の認識過程に介在する<理念>の態様そのものが、数学の構成要件となっており、数学が自然科学に貢献できるのはそのためである。例えば、あくまで数学の論理的帰結として生みだされた虚数という概念は素朴実在論的には理解し難いものがあるが、それが、電磁気学などの分野で自然の現象の純粋な記述として強力な機能を発揮するという事実は、フッサールの唱えた認識論の正しさを傍証しているだろう。そのことが、数学と自然科学の境界領域の成立要件ともなっている。

 このように、数学は自然科学の営みの一部としてなされることがあるが、自然科学そのものではない。例えば、反証される可能性のない数学の定理を用いて構築されている相対性理論にも反証される可能性が残されているというようなことである。ウィトゲンシュタインが、「数学的な証拠や論理的推論は単なる同語反復(トートロジー)にすぎない」と述べたのも、逆説的ではあるが、本質的には同じことをさしている。そのことは、ゲーデルによって、「内部矛盾のない論理体系は、それ自身が無矛盾であることを、それ自身の論理体系では論証できない」という不完全性定理をもって厳密に示された。

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http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090113/1231823737
↑へのコメント、ありがとうございましたにゃー

自然言語は定性的な性質をもつので、定量的な議論が必須である自然科学を記述するには不向きなんですよにゃー。
数式は定量的かつ多数のパラメータを同時に扱う記述を得意とするので、自然科学において数学を記述言語として採用するのは必然であったといえるでしょうにゃ。 削除

2009/1/16(金) 午前 9:40 [ 地下に眠るM ] 返信する

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地下に眠るMさん、コメントありがとうございます。

>自然言語は定性的な性質をもつので、定量的な議論が必須である自然科学を記述するには不向きなんですよにゃー。

毎度のことながら、簡潔で的を射ぬいた言葉に感激します。
自然科学は、それでも自然言語も用いなければならないという困難をも同時に抱えているんですよね。

リンクされた記事は、私のエントリーとほぼ同時にアップされたもので、これを御覧の皆様にもお勧めです。

2009/1/17(土) 午前 0:20 [ さつき ] 返信する

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