今日もまた平穏な一日

一日練習しないと自分に分かる。二日練習しないと聴衆にばれる。三日練習しないと世界中に知れわたる。

昔語り

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昔語り14-完結篇

1997年のPNR。

以前からそのお名前だけは耳にしていた金澤攝氏がプロデュースするコンサートシリーズへの出演オファーがきた。
このシリーズとは芸術村の?落し公演として始まり、回を重ねてきた《20世紀の響き》のこと。演奏依頼はAlbright/Sonata

本来は氏の研究対象である19世紀の作曲家たちの100回目の誕生日に、その作曲家の代表作で構成する演奏会なのだが、20世紀の状況を取り上げることも必要、ということでオルブライトを取り上げたとのこと。

楽譜を取り寄せてみて驚愕。どうやって演奏したらいいのか、当時の自分には皆目見当のつかない音の並び。しかし、楽譜の扉にこれこれのCDに収録されていると案内があったので、演奏不可能ではないらしい。誰かが吹けるのに自分は吹けない、というのはかなり癪に障る。間に合うかどうかはわからないが、とにかく引き受けてしまう。

それからはひたすらさらいまくり。あっちゃこっちゃにも電話やFAXをして(当時はまだPCももってなかった)運指や特殊奏法のアドヴァイスをいただく。
一度、電話した有名プレーヤーからは『俺だったらこの仕事、請けないね』といわれ、途方にくれたりもする。

それでも何とか形にして、吹ききったのがこれ。
(おそらくは本邦初演 於金沢市芸術村Pit4)





その後、攝氏との親交も深まり、このシリーズにたびたび呼んでいただけたということは、それほどまずい演奏ではなかったのだろうとわずかながら自信を持てた。
これを波というのか、翌年のサクソフォンフェスティバルは世代交代し、実行委員長にO城氏。まーしーにも奏法のアドヴァイスなど受けていた関係で、『A会員枠で演奏を』とのサジェッションを受ける。こんな田舎ものが何の力になろうか、との反面、せっかくまーシーが仕切る大会を少しでも盛り上げたい、との思いから参加を決意。以後、10年間、数年おきにではあるがフェスティバルに出演する。
当時はA会員枠といえどもチケットノルマがあり、地方からの参加はかなり厳しかった。15分の演奏に、10万以上払うというのはなかなかに厳しい。しばらくして、ノルマがなくなったのは、もしかして『俺みたいなやつ』がもっと出やすいように、という配慮からだったとしたら、無茶した甲斐があったというものだ。

そして決定的なPNR。

1995年から行われてきたオーケストラアンサンブル金沢の新人登竜門オーディションがついにこの年、管楽器部門を開催することになった。2管編成のOEKの編成で演奏可能な協奏曲、ということなので当然のごとくイベール/ダカメラを選曲。
管打コンクールはいつも受かる気、かなり強気で玉砕を重ねたのだが、どういうわけだか、登竜門は通る気がしない。今までOEKがアルルなんかをやるときには中央からプレーヤーを呼んでいたのだが、『金沢にもサックス吹きはいますよ、よかったら使ってやってくださいね』という自己紹介的な気持ちでエントリーしたのがよかったのかもしれない。まったく緊張することなく2次の実演を終えることができた。
結果、歌の3人と自分が選ばれマエストロ岩城の指揮で1998年4月旧観光会館にてイベール/室内小協奏曲を演奏させていただくこととなった。

これを契機に前年一度きりのつもりでやったリサイタルを毎年開催することにした。

以後、OEKや財団から演奏、講習の仕事をいただくようになり、何とか現在までプロパーの演奏家と言えるかもしれない生活を送っている。

その後、学生時代からの夢は次々と実現する。列挙すると
デニゾフ/ソナタの演奏
アルルのオケ中
メイコン(故吉村ピアノ教室の発表会)への出演
金大フィルのオケ中
CD録音(OEKの中ではあるがジョリベ/打楽器協奏曲のレコーディングに参加)
ミヨー/世界の創造 演奏

一方、いまだ果たせていないのは、どこでもいいから学校の吹奏楽部との共演、ラフマニノフ/シンフォニックダンス、ラヴェル/ボレロ、ショスタコーヴィッチ/黄金時代のオケ中、ソロCD録音、バリトンサックス、ソプラノサックスのリサイタル、定期的な学校公演、ボルコム/リリスの演奏、などなど

生きてるうちにいくつこなせるかな?

おしまい

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昔語り13

金沢へ戻った最初の月、月収はだから1万円ちょっと。
郊外に10年ほど前に新設された高校に音楽コースがあり、そこのサクソフォン専攻生を週一度、教えに行くだけ。

後はひたすら、さらいまくりの日々。思えば贅沢な日々であった。

翌月からこれではそのうち貯金も底をつき(半年で雲散霧消した)生きていけなくなると、運送業のバイトを始める。

朝5:30に家を出てTBTにある会社の倉庫へ。配達する順番を確認しながら、トラックに乗せる。それから助手席に乗り込み、北陸3県をまたにかけ、新築、増築、改築の家々にシステムキッチンを配送する。上がりは16:00〜18:00。帰って22:00まで練習。時給¥1,000は割がよかったが、昼休み1時間分は出さない(実際は昼休みなどない)とかいわれ、時々支払いで揉めたりもした。

積み下ろし以外はナビするだけで、楽な仕事ではあったが、運ちゃんの流す演歌やB'zやBOΦWYやらがだんだん厳しくなってくる。また、中には運転のヤバイ人もいて、これは命がいくらあっても足りんなぁ、という目にあい半年ほどでやめてしまった。そういやー、最後のバイト代、結局もらわなかった気がする。

また5月からは近郊の全寮制男子校で音楽を受け持つことになった。音楽の授業といっても、音楽室はなく、ピアノもクラビノーバが一台きり。あとギターが数本。なんだかわけのわからない学校だった。生徒も一クラス数人から十数人、これでやってけるのかね?と思ったら、案の定すぐに給料の遅配が始まり、2年ほどでつぶれてしまった。最後半年は全く給料をもらえず、ひどい目にあった(結局労働基準局が立て替えてくれた)。

その間に本拠地TSMの生徒は少しずつふえ、初めての受験生を音楽大学に送り出し、徐々に生活の基盤ができてきたかも、と思っいはじめていた。
が、一度真っ正直に確定申告したら翌年、保険や税金やトンでもない額が請求され、本当、どういう計算だ?ってくらいで以後3年間、その支払いに追われることになる。

話を少し戻し、金沢に戻った1993年は再び管打楽器コンクールのサクソフォン部門開催年だったので、練習にも熱が入っていた。
課題曲は
1次:ゴトコフスキー/ブリヤンス3,4楽章
2次:ヴェローヌ/ラプソディー
2次選択曲はデサンクロ/PCFを選択
本選イベール/ダカメラ

結局このときも1次で終了。馬鹿なことに前回と同じくブリヤンスの4楽章、フィナーレ前の4小節間奏を食って飛び出してしまう。その瞬間にすべてが終わっていた。終演後血反吐を吐くのも前回と同じ。つまりは3年間、何の成長もなしということ。年齢制限で自分にとってこれが最後の管打楽器コンクールとなった。
ちなみにこのときの第一位はO城まーしー。なんだか自分のことのようにうれしかった。


やがていくつかの目標ができる。
その最初に果たしたのが、リサイタル。
ずっと以前から、やれ、やれ、と焚きつけてくれた友人がいたことと、やりたい曲やれそうな曲が出揃ったので、とにかく一回やってみることにした。
何しろはじめての経験、スポンサーもなくマネージメントも全て自分一人でやらなければならない。幸い、ピアノをお願いした先生が前年ご自分のリサイタルを行ったばかりなので、いろいろ教わる。
やはり一番面倒で金がかかるのが印刷物。何のツテもなく飛び込みでお願いした印刷屋さんでたまたま応対してくれた方が偉い人だったみたいで、かなり値引きしてくださった。

1996年4月、いろいろあったがやっと開催にこぎつける。

そのときのプログラムは
ヘンデル:Vnソナタ4番Op.1-13
モーリス:プロヴァンスの風景
デュボワ:ディベルティスマン
シューマン:幻想小曲集Op.73
クレストン:ソナタ

反省点もあるものの、今後も何とかサックス吹いて生きていけるかも、という実感を得る。

そしてその翌年、人生のPoin of No Returen となる2つの出来事が僕を待っていた。

続く。。。。

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昔語り12

金沢に戻り教員になることを目指し、夏の採用試験に向け勉強を始める。まずはピアノを何とかしなくちゃいけない。しかし昼間はバイトなので、夜しかさらえない。展示品のKAWAI電子ピアノを半額で購入。木製鍵盤でなかなかいいタッチ。お買い得であった。

練習を始めて一月ほどたった5月ごろ、金沢から一本の電話が入る。金沢でサックスを教えてる人が、金沢を離れることになり、ついては後を任せたいという。聞けばTSM、KMS、FKIの各高校で音楽科のサックス専攻生を抱えていて、そこそこの収入になる。3校とも確約はできないが多分大丈夫という話だった。
しかしながら、この仕事は非常勤講師でないと採用されないので、教員採用試験は受けないことにする。
当時は今ほど教員試験も狭い門ではなく、受ければ受かる、という状態だった。正採用になれば当然どこかの学校に赴任するわけで、サックス講師として県立、市立、県外の私立3校掛け持ちなんてことはできなくなるからだ。

喜んで承諾する。サックスを教えられるならそれに越したことはない。

11月に入って金沢に別件で行った折に移転先を物色。不動産屋に『これこれの家賃で風呂付二間、音が出せる物件』とお願いして、いくつか案内してもらったもののうち、現在の住居を気に入ってしまった。ただし、12月には空いてしまうので、4月まで待っていたら、なくなるかもしれない物件だという。少し迷ったが、バイトも好調だったことから数か月くらいの家賃は、ま、いっか、というのりで契約してしまう。この先走った行動が結局自分の首を絞めることになる。

数日して東京に戻った後、第二の運命の電話が。。。。

続く。。。。

というと引っ張りすぎなので、、、、

電話の内容は、依頼しようと思っていた仕事のうち、生徒が多い、FKIとKMSの2校は推薦したものの、だめだったという。女子生徒が多いので(一つは当時女子高だったし)独身男性は困る、といわれたが詳しく聞くと、どうやらお偉いさんに俺が嫌われていたらしい。
じゃ、TSMは生徒何人?と聞くと『一人』。確実に食えない。これはかなり困った。不動産は既に契約済み、敷金礼金は払い込んでしまった。バイト方面にも3月には金沢へ移転する旨、申し出ている。

そんなんだったら採用試験受ければよかったかな?と思うも既に11月、とっくの昔に試験は終わっている。
まあ、何とかなるさ、と何の計画もないまま、金沢へ引っ越すことにする。


最後の一仕事は某音大の吹奏楽授業で使う楽譜のパート譜作成。1ヶ月くらい、家からほとんど出ることなく70パートを超える大量の楽譜を書いて書いて書きまくり、引越し資金と当てのない金沢生活の軍資金とする。

さあ、いざ金沢へ。。。。

当然続く。。。。

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昔語りSpin off 3 サンシャイン

ここのバイトを始めたのは、既に書いたように同級のまーしーの紹介。当初の仕事は、サンシャイン=アルパ全館の装飾とそのメンテナンス。10:00から17:00の間、地下の秘密の部屋にこもって、インフォメーションや統括本部、警備から装飾品の破損などの連絡があれば出て行って直す、という基本待機の仕事、設営がある日は、待機中も仕込みをし、その後閉店後21:00から設営開始。終業は設営の規模にもよるが、24:00近く。

そんな生活を学生時代は週2-3回。もちろん、バイトや設営のない日は学校へ行き、さらう。

待機中は写譜の副業もやっていた。デザイン会社が僕らの直接の雇い主で、写譜をするにも気持ちいい椅子やデスクが置いてあったので、はかどるはかどる。

ここで身に付けたテクニックは数々あるが、当時カッティングシートはマサラなどコンピュータ制御のマシンもあるにはあったが高価、手切りが本流。手切りできないものやその時間がないときだけ、専門の業者に外注していた。
カッティングシート(大きな粘着シート)にデザインをスプレー糊で貼り付け、台紙を切らないようにシートだけをデザインナイフで切る。不必要な部分を台紙から剥がし、出来上がったカッティングシートにリタックシート(台紙から剥がしてもデザインが崩れないようにシートの上から貼る粘着力の弱いシール)を貼って出来上がり。
この仕事は結構好きだった。

年末になるとクリアランスバーゲン、クリスマスバーゲン、年末売り尽くし、大晦日、正月新春大売出しと、数日おきに装飾を変えていくので、ほぼ一月、泊り込み作業が続く。そんな中でもたまに夕方時間ができればその場で練習したり、もう少し時間があれば学校まで30分でも練習しに行った。

ほかのバイトは長澤義塾の長沢さん、優作マニアのS井、ドラマウォッチャー=オリス、役者=K倉などが常連。そこにムサビやタマビの学生が加わったりして、ワイワイとやっていた。

普段は混んでて行くことのない水族館や展望台にも装飾や展示会を設営してる間はチェックと称して、入り放題。夜中の設営時も東京中を見渡せてよかった。

しかしやがてバブルにもかげりが見え始め、直接の雇い主アモンがメンテナンス業から撤退。引き続き、デザイン、設営は行うということで、バイトも希望があれば護国寺の事務所のほうで雇ってくれることになる。ほかのバイトは臨時でくることはあっても基本的にはサンシャインに残り、メンテナンス業を引き継いだ別会社でバイトしていたようだ。


ここの会社はサンシャインだけでなく、関東一円の西武系列のデザイン、設営を引き受けていた。
事務所での自分の職種はなんでもや。基本的には社員のF沢さんのアシスタントとして、自由にいろいろやらせてもらった。

デザイナーが上げた図面から模型を作ったり、『この模型のここ、光るようにして』といわれ、ハンズを歩き回り小型蛍光管仕入れてきて何とかしちゃったり、日本GTレースのCMで使う首振り人形100体作ったり。

時々は設営にも出かけ、夜中のデパート再体験。

出社は基本フレックスで、タイムカード押せばその分、時給と交通費がいただけちゃうというありがたい契約。さらにそれとは別に予算があるときは、『これこれの仕事を10万で何とかして』といわれ、デザイン、材料、製作、設営をこなすようなこともあった。

金は安定して入ってくるのだが、学生時代から足掛け4年もやってると、だんだん『なにやってんだ?おれ』的な気持ちになってくる。4年目に入った春先に金沢に戻り教員採用試験を受けることにする。そのために電子ピアノを買い、真夜中自宅に帰った後に練習する日々。


そこへ運命の電話が。。。。

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昔語り11

赤坂から等々力に移転したセルマージャパンへ、月1,2度のペースで宗貞先生のレッスンに通うようになった。

初めての時、フェルリングを見直そうとC,-Durの1,2番を持っていく。しかし2,3小節吹いた後、すぐに止められ
『悪いんだけど、次回からラクール、やり直し』といわれる。

楽器をやっていない方のために大雑把に説明すると、フェルリング48のエチュードは大学入試の課題になるレベルの練習曲。ラクール50のエチュードは楽器を始めて最初にやるピアノで言えばバイエルみたいなレベルの練習曲。

さすがにショックを受けるが、師匠を信じて本気でやってみる。もちろんそれだけではなく、テルシャックの日課練習やメシアンモードによる28、いろんな曲も同時にやる。

しかし、もっとも勉強になったのはやはりラクールだった。

今までだって、レガート、とか、裏拍の飛び出し禁忌とかアウフタクトの吹き方、なんてことは頭では知っていたし、自分では理解したつもりにもなっていた。でも師匠によって、本当に何をレガートというのか、どれを飛び出しというのか、アウフタクトの処理とはこういうことだ、ということを
理解を超えて、表現として身に付けることができたように思う。

学生の時、多くの人が先生の指導に『やってるんだけどなぁ』『そんなことはわかってるんだけど』『そんなこと、やってるつもりはないのに』と、思ったことがあると思う。それはまだ、自分の演奏に客観性がかけている証拠だと思っていい。自分の『つもり』と実際の表現の間の乖離に気がつくところから成長が始まるのだ。

ラクールの1番で ミ−ソ−ファーミー という冒頭の2小節だけで『レガート』『音量』『音色』『ヴィブラート』『アタック』『イントネーション』と、注意を受け何度も吹きなおし。そんなことは当然、自分でももう意識する前の段階で処理できてるはずだ、と思い込んでいた問題に、どんどんシビアさを追及されるレッスンが続く。最後は『まぁ、いいや、次』と先生を完全に納得させることなく先へ進む。
日増しに、7年も俺は何をやってきたんだろう?という思いにうちひしがれるが、とにかく今はやるしかないんだ、先生の耳と同じように音が、音楽が、 聴こえてくるようになりたい。と本気で願っていた。

それでも、だんだんと『そうそう』とか『俺のやり方とは違うけど、それもあり』なんて言葉もやっといっていただけるようになったころ、運命の電話が。。。。

続く。。。

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