ケロロ小隊湘南支部

15万ヒットありがとうございます〜さや母

さや母の昔話

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相鉄線に乗ってみたい

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私は、小学3-4年くらいのときまで「放浪癖」があったのです・・・。

なんの目的もなく、ただ遠くへ行きたい一心で、歩きであったり自転車であったり、一人のときもあれば複数でブラブラしていたものです。

遠くまでといったら、電車の駅2駅分くらい平気で歩いていました。
疲れを知らないって・・・子どもって良いよね(笑)

当時は・・・娯楽はナイターとプロレス中継、土曜日の「ドリフの8時だよ全員集合!」くらいしかなかったので、ひたすら日が落ちるまで遊びほうけていたものです。

キャッチボールやサッカーのドリブルに飽きると、思い立っては放浪の小旅行へ・・・。

特に小学校1.2年のころの放浪癖はひどくて、時にはお母さんの財布からごっそり小銭を持ち出して、バスに乗ったり、電車に乗ったりしていた。(あとで、オヤジにばれて、竹のものさしでひっぱたかれたものです)

お気に入りは、相鉄線の「海老名駅」までの「汽車旅」だったのであります。

小学校3年くらいのときまで「海老名」の地名が読めず、
「カイロウメイ」ってどこまで行くんだろうとか、何があるんだろうと思いながら、電車の中でご機嫌で運転席を眺め、窓越しに見える自分の通う小学校や自宅のある辺りを見ては、歓声を上げて、つり革につかまってはぶら下がり、大いにヒンシュクを買っていた、とんでもないはねっかえりでした・・・。

当時の電車は、日中は今ほど混雑はなく、いつも空いていて、いくらでも空席があったものです。

海老名駅についても、駅の構内から出てその先を探検するのでもなく、ただ、駅のホームで入ってきた電車を眺めては、最寄り駅へ帰るという、ただそれだけ。
さすがに当時は、切符拝見で改札には駅員がいたので帰りの切符も買って乗っていましたがね。

相鉄線というのは、横浜駅から海老名駅までを結ぶ私鉄で正式名は「さがみてつどう」(略)でJRの相模線と区別するために「そうてつ」と言う略称で呼ばれています。

今も海老名の若干田舎から都会の横浜駅までを、多くの乗降客を運ぶ主要路線です。延伸して湘南台まで開通して慶応大学の湘南藤沢キャンパスへ通う学生も多き見られます。

電車の終着駅(始発駅でもあるが)には、なんだか物悲しさがあり、それが妙に私の心をひきつけたものです。

たまに駅の自販機で缶入りファンタを飲むのが贅沢で(笑)一人で電車に乗って小旅行気分を味わう。最高でした。

ただ「乗る」のが好きだった、乗り鉄みたいなものですよ。相鉄線限定の。

昔だからできたことですよね。

今、同じことを、もしさやがやったら私に頭がジャガイモみたいになるまで殴られるでしょうなぁ・・・。「人さらいにあったらどうすんのっ!!!!」って。

相鉄線、最近乗っていないなぁ。

実家は相鉄線の沿線なので、母はなにかあるとすぐ電車に飛び乗って「高島屋」へ一直線ですよ。

私が乗っていた車両はもう引退していて、写真の車両なんですが、このカラーリングがまた当時はものすごく「斬新な色」に見えたものです。

早く足を治して、小学校の校庭に生えていた大きな大きな銀杏の黄葉でも見にいきたいなぁ。

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友達のお母さんに感謝

中学を泪・ナミダ・涙・・・の一滴も流すことなく、あわあわと卒業してしまった私、さや母。
卒業式の後、友達のお母さんが手料理でお祝いしてくれるというので、のこのこ出かけて行きました。

一人目はうちの学区のトップ高校を見事に突破した才媛で、ピアノが得意な、それでいて目立つことが大嫌いな友達の家で、ここのお母さんは、何から何まで全部手作りするツワモノ主婦でした。
サンドウイッチや揚げ物、フルーツポンチ、でもてなされ、
手作り感漂うお宅の「お母さんが家にいるっていいな」みたいな感じがびんびんと伝わってきました。

二人目のうちにおよばれしたときも、専業主婦のお母さんが手作りクッキーや巻き寿司でご馳走してくれて、ココの家でも「お母さんが家に・・・」って思いましたが、家の母はキャリア志向の高い人なので
そういう家庭的なことはやれば出来るのだろうけど「やって」とは言えないような我が家でした。
なにせ、オヤジが先に帰宅してると洗濯機回したり、お米といだりしていましたからね。

でも、なんか寂しかったんだろうな。
卒業した後、あまりにあっけらかんと卒業式を終えてしまい、ああなんで皆と一緒にあのときに
泣かなかったんだろう・・・って。
一体感から自分だけ、勝手に飛びぬけてしまったような感じで、
「やっちゃったな〜。やっちゃったよ。オイ」
って、当時の自分は思っていたはず。

で、仕方なくもう一度クラスメイトとの別れを惜しむべく
母に沢山お菓子と飲み物を用意してもらって、7・8人のクラスの友達を誘ったわけです。
しかし、女子はほとんど用事があってこられず、集まったのは、私に「嫌がらせのニックネーム」を付けてくれた野郎ばっかりで、お菓子をガーッと食べてトランプして花札して、解散!だった。
こういうお別れの会は・・・むなしいね。
集まった野郎どもは、昨年の同窓会で
「お前のうちで卒業式の後、なんか集まってお菓子たべてさわいだけど、アレって何の集まり?だったけ」・・・こんなもんですよ。
心のこもっていない集まりなんてね。

でも、私をお招きしてくれた友達とは今も付き合っているし、自分の中では主婦・母親としては
こうありたいな、という目標みたいなものにもなっているのは間違いないわけで、
でもまだまだ、そこまで到達できていないところが、さや母の駄目なところだと思います。ハハハ・・・

さやに「仲良しの友達5・6人呼びな。うちでご馳走作ってお祝いしてあげるから。」
と言ったら
「5・6人じゃ、収まらないよ〜。呼ばれなかった人にばれたら可哀想じゃん」
と、いうことでお流れになりました・・・(涙)

そういうことで、各自自宅でお祝いしてもらってくれたまえ。   さや母

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ホンダのスーパーカブ

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私の母方の祖父は、もう30年前に他界しているのだが、
初孫で唯一の女の子の孫と言うだけで、随分可愛がってもらいました。
そのおじいちゃんとの思いで話です。

おじいちゃんは戦争で従軍しており、私の母は叔父とおばあちゃんと留守を
守って、ひたすらおじいちゃんの帰りを待つ家族でした。
本来なら南方で戦死していたかもしれませんが、途中病気にかかり、
戦地を離脱して、家族の元へ戻ってこられた幸運なひとでした。

その苦労のせいか、おばあちゃんは私が産まれることも知らずに、
亡くなってしまい、母は私を「お母さんの生まれ変わり」のように思っていたようです。
多分違うけどね(笑)

この、おじいちゃんの足は、ホンダのスーパーカブで、何処へ行くにも
このオートバイで出かけていました。
30数年前と言えば、まだ二人乗り禁止とか、ヘルメット着用とか
そういうルールはなくて、8つ年下のおじいちゃんと同居していた従兄弟と
三人でおじいちゃんにせがんで、よくバイクに乗せてもらいました。
そう、恐怖の三人乗り。しかもノーヘル!!!

そして、そのスーパーカブで「笛吹川」へ川遊びに行ったり、
神社やお寺の木陰でアイスを食べたり、休んだり、夏休みを満喫した物でした。

ところが、そのおじいちゃんの身に大変なことが起き、真夏に手術する事になりました。
私の両親と叔父夫婦が交替で看病しましたが、術語数日で帰らぬ人になりました。

夏の高校野球の開会式が始まった後、すぐに母が泣きながら
「おじいちゃん、がんばったけど死んじゃったよ。これからお葬式の準備があるから邪魔にならないようにね」
と、言われましたが、あまりにもあっけなく亡くなってしまったので
おじいちゃんの死をなかなか受け入れることが出来ませんでした。
火葬場で煙突からあがる煙を見ても、ただ涙が流れてくるだけ。

骨上げになって、頑丈そうなおじいちゃんの遺骨を見て、
まだ何かもどってきてやりたいことがあったのではないか?と思うような
丈夫な太い骨でした。

葬儀のあとも、後始末で大人達は毎日忙しそうに、弔問客の接待やら
初七日のしたくやら大騒ぎでしたが、私は車庫にのこされた、このスーパーカブが、主をなくして寂しげに放置されているのが、とても寂しかった。
寂しいついでに、おじいちゃんの愛飲?していた「わかば」というたばこに
火を付けて吸ってみた・・・!!!!
煙を吸い込む事は出来ないので、ふかすだけでしたが、そのたばこの香りは
まさしくおじいちゃんの臭いでした。
今こんな事やったら、児童相談所に連れて行かれそうですが、当時は
ほんとにゆるかったんですよ・・・。

今も活躍するスーパーカブ。
あれから一度も乗ったことはありませんが、今も愛されているロングセラー
と知り、懐かしくなりました。
そういえば、そばやさんも、クリーニングやさんも、豆腐屋さんもみんなカブだよね。
今年おじいちゃんの33回忌だそうです。
もうあれから33年って、つい昨日のことのような気がします。

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虫歯の痛さ

さや母です。
小学校低学年の頃、私はひどい虫歯だらけだった。
特に奥歯が全滅に近くて、下の奥歯は歯医者さんの使う用語で言うと
C3とかC4という非常に「歯がとろけている」状態のコドモでした。
てきとー主義な私は、てきとーに磨いたような気になっていたので
どんどん虫歯が増える増える。
叔父がエンゼルマークの菓子メーカーに勤めていて、お菓子はいつも箱で
どーんと我が家にはあった。
板チョコ40枚、60枚とか、コーンフレークがゴミ袋みたいなデカイ袋に
半分くらい(20L分くらいか)置いてあったりするので、虫歯にならないはずがない。
しかも母が美容のために買っていたのだろう「ビタミンC」のタブレット
(名前は忘れたがタケダの・・・ハイシーだったか?)とかもがりがりむさぼり食べていた。

昔のことなので、詰めても詰めても、詰め物がすぐに外れてしまい
神経ぬかずに詰め物をするのか、それが取れたとたんものすごい激痛に襲われる。
頬は腫れるわ、痛みで夜も眠れないわ、ご飯は食べられないわで、半泣きで大変な思いをしたものです。

歯が痛いときには、応急処置として「今治水」という液体の薬を小さく丸めた脱脂綿をしめらせて、穴の空いた患部に突っ込む。
すると、すこしは痛みが薄らいでいくような気がしたものだが、実際のところ
本当に効くのか?
それでも当時は、この薬が救急箱にないと妙に不安になったものでした。
最近は売っているのかよくわからないが、さやが歯科検診が5月にあるというので春休み中にかかりつけの歯科医にみてもらい、虫歯なしのはずが、
「なんか虫歯っぽい気がする」
と、夕方言われてふと思い出した次第。
さやは虫歯は1回で治る程度の小さなものしかないので、麻酔の注射を受けたことがない。これをやったら、一度で歯医者嫌いになるのは間違いなし。

さて、さや母、小学校も高学年になると、少しはとろけた歯よりは、まだとろけていない脳味噌がおりこうになって、
「被害が小さなうちに歯医者へ行く」ことを、やっと我慢して出来るようになった。
虫歯は全部治療したのだが、中学三年の時に奥歯の詰め物が取れてしまい、母の薦めもあり「ぬかずに歯を矯正しながら、元に修復する」歯医者へ通うこと半年・・・。
電車とバスを乗り継ぎ、治療はいつも1時間とか1時間半とかかかった。

健康保険がきかず、自由診療で1ヶ月1度か2度しか通えない、
人気の歯医者だったが、さすがに私の奥歯は内側に引っ込んでいたのを正常な位置に戻して、今でも忘れもしない5万円の金歯が、そこへ収まった。
母が「将来、金歯が抜けたら歯医者へ持っていっても、ちゃんともらって帰ってくるのよ。本物の金だからね」
と、言われてからもうなんと30年!!!
今だ金色は色あせることなく私の奥歯で光っている。
おそるべき金歯の強さ。

そして今は、虫歯はないが、もう歯周病にかかって歯がながーくなってしまい
いつ「ぽっきん」と、折れてしまうのか、こっちの方が心配な毎日。
髪は長い友達?いやー、歯の方が長い友達でしょ。
ライオンだって歯がなくなってしまうと、死んじゃうよ。(笑)
毎日朝、昼そして夜は特に念入りに10分の手磨きをしているが、
歯茎のぐらつきや出血はないので、歯茎が減らないように、マッサージしているようなものだ。

虫歯の痛さは出来ることなら一生経験したくない痛さだと、今でも思いました。作文?

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豆腐屋さん

さや母です。
雨ですね。
またもや、雨。風も強いです。
『春に三日の晴れなし』と、言うそうです。
せっかくクリーニングから戻ってきたばかりの、制服のスカートの襞が、二日目にして、ぐちゃぐちゃでアイロンかけても直りませんでした・・・。(涙)

こんな強い風や雨が降る日の思い出をひとつ。
私が小学校低学年頃は、夕方5時頃になるとバイクに乗った豆腐屋さんが
地区のあちこちを廻っていました。
おなじみのあの「チャルメラ」のような、独特な笛を吹き、この音に
近所の人が皆、それぞれボウルやどんぶり持参で豆腐を買い求めに出てきました。
当時我が家では、お調子者の私が豆腐を買う「係り」になっておりました。
というか、パンやら野菜などの買い足し品、は私が自転車で買いに歩いていました。

いつも、チャルメラ(ラッパ)が聞こえると、
「お母さん、今日はお豆腐要らないの?」ときいては、
急いで100円玉を握りしめ、ボウル持参で他の近所のおばちゃんに混ざって
豆腐やあぶらあげを買ったものでした。
まさに、磯野カツオ状態。

さて、ある台風後の夕方のこと。
風はまだかなり強かったものの、夕焼けが本当にきれいでした。
「やっと台風が去っていった」と、いう安堵感で、子供心に嬉しかったです。
当時は台風が来ると、よく停電し雷が落ちまくっていました。
正直、停電と雷がダブルで来るのは怖かったです。特に夜のろうそくトイレは・・・。

そして、まさしくおとといの「爆弾低気圧」の様な天気の時に、いつもの調子でボウルに豆腐を入れてもらい、もって帰ろうとしたそのとき、無惨にも手がすべって豆腐が地面に砕け散りました。
「あーあ、お母さんに叱られる!!!」
と、思って一瞬で気持ちがブルーになった事を覚えています。

そのときに「○○ちゃん、こっちの豆腐あげるから、もっていきな。」
と豆腐屋さんが、新しい豆腐をボウルに入れてくれました。
「おじちゃん、ありがとう。でも、お金足らないよ」
「いいよ。持っていきな。」
「ほんと。ありがとね。」
今度こそ、落とさないようにそろそろと歩いて家に戻り、母に
「豆腐落としたら、おじちゃんが新しい豆腐を入れてくれたよ。お金もいらないって」
・・・母は「あー、よかったね」
と普通に豆腐を受け取って、すぐに晩のおかずになりましたが、
母には「気を付けて次から持ってきなさいよ」といわれただけで済みました。
内心(ラッキー)と思いましたが、後日、母が私の落とした豆腐の代金を
豆腐屋さんが要らないというのに、渡していた事を知り、なんか複雑な思いをしたものです。
近所のおばちゃん達の井戸端会議に何故か、コドモの私が混ざっていて
「自分は他のコドモと違って、少し大人なの。大人と話が出きるの」みたいな慢心があったからだと思います。(爆笑)
実は何もできない中途半端なコドモが背伸びしていただけなんだと。
思い出すだけで、赤面します。
だから、台風みたいな天気が来ると、いつも嫌なんだよ。

今は豆腐もパック入りで、長期保存可能な豆腐も売られてますが、
やっぱりボウル持参の豆腐は、格別な味だったように感じます。最近の豆腐は、豆の味がしないもんね。

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