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(二十八)
○ 蛇逃げて我を見し眼の草に残る (大正六年)
この句には、「五月十三日、発行所例会。十六日、坂本四方太、中川四明、日を同じうして逝く」との留め書きがある。この留め書きからすると、何か坂本四方太らの逝去に関連してのものと思われがちであるが、どうもそれらとは全然関係なく、この句は当時の虚子にあっては、曰く付きの問題の孕んでいる一句のようなのである。というのは、この句が作られた後の、六月五日にホトトギス発行所で「月並研究」の座談会があり、その座談会に偶々新傾向俳句の中心人物の大須賀乙字が、この留め書きに出てくる坂本四方太の遺族のことで来訪していて、この座談会に加わり、この掲出句と同時作の虚子の次の句を月並み句として批判した記録が残っているのである(松井・前掲書)。
○ 草の雨蛇の光に晴れにけり (虚子)
○ 八重の桜ゆさぶる風や木の芽ふく (虚子)
その記録によると、この虚子の二句について、乙字は次のように批判して、その上、改作案すら提示しているとのことである。
「この二句は、概括的で且つ主観がはっきりしない。が之を鑑賞する即味ふ方から言へば、その主観を深く穿鑿して見なけりやならない心を起される。其点に先づ不審を打ったのである」。「先づ不審をただして作者に伺ふ事は、蛇の光に草の雨が晴れて来たといふ句の出来た時の作者の心持。・・・」。この乙字の傲慢とも取れる問に虚子は次のように答えている。
「草の雨が晴れかかつて来た時分に蛇の光が強く目に映つたのである」。「一旦雲が晴れかかつてくれば、そこに当る日はもう夏らしい光の強い感じがする。さういふ場合の、日を受けた蛇の光を詠じたのである」。この虚子の説明に対し、乙字は以下(要約)のようなことを主張し、改作案を示すのである。
○光が中心に出来ているなら、「蛇の光」と名詞形にして真中に据えたのでは活動がなくなる。句を作るとはき、最も活動した言葉に表れるのが普通であるのに、蛇の光と活動を消して表現している。一度趣向の篩にかけて作られており、最も感動したものを凝固させている。私が作るなら、蛇が光ったというような、あるいはいつまでも光っているというような、長い時間を持っているような光景は主眼としない。
そして、乙字はこの句を
草の雨蛇光り晴れにけり と改作をすすめている。(松井・前掲書)
さらに、虚子の自信作の一つの掲出の句に対しても、
○「草に」の「に」がやや曖昧なる語である。「蛇逃げて」も「て」というと、次の起こった事の間に多少の時間を思わせる。それで「蛇逃げつ」と「つ」とした方がよい。(松井・前掲書)
この座談会があった大正六年当時の俳壇状況というのは、虚子の本格的な俳壇復帰が緒について、「ホトトギス」の勢力は先に見てきたように有力な俳人達の台頭もあり、いわゆる、虚子らの「守旧派」と碧梧桐らの「新傾向俳句」との対立は、「守旧派」の一方的な優勢のうちに推移し、それらの推移を見極めるかのように、虚子は「進むべき俳句の道」を指し示すという最中のことであった。しかも、年齢的にも七歳年下で、実作上の経験もさほどでない乙字が、 堂々と虚子の面前でこれらの「反虚子」・「反守旧派」を主張するのだから、虚子も怒り心頭に発したらしく、この座談会のあった翌月に、再度、乙字を招いて座談会を開き、「乙字君の議論が雄大であればある程、聞くものの頭には一種の疑惑の雲が漲つて来て、乙字君はどれ程の点まで得たところがあつてこれだけの議論をされるのであるかを疑はねばならぬやうになつて来る」とし、「月並研究」そのものを中止してしまったという(松井・前掲書)。このような、掲出句等のこれらの句の背景というのを垣間見る時に、虚子の反「新傾向俳句」というのは、反「碧梧桐」というよりも、より多く、反「碧梧桐を取り巻く若きエリート俳人達」へのものだったということを如実に物語っているようにも思えるのである。
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