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「北京の55日」

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      「北京の55日」のポスターと当時の柴五郎中佐(1860〜1945)
  
「北京の55日」
 「北京の55日」という1963年に公開された古い映画がある。ブラザーズ・フォアによる主題曲は、今も耳にこびり付いています。
 
 この映画は、明治33年(1900)6月に中国で実際に起こった義和団の乱(北清事変ともいう)を題材にしたものです。巨費をかけて撮られたようで、ストーリィは欧米人向きにデフォルメされているが、これは米国映画でチャールトン・ヘストンが主人公なので仕方ないであろう。しかし、史実の主役は、柴五郎中佐である。(映画では伊丹十三氏演じるが、脇役もいいとこ)
 義和団とは「扶清滅洋」(清を扶(たす)け洋を滅すべし)というスローガンを掲げ、清国人クリスチャンを攻撃していたが、急速に膨張し(数グループあり)外国人に危害を及ぼすようになり、清朝は弾圧するどころか、彼らに同調するようになる。北京在住の列強外交団は孤立して、繰り返し襲ってくる義和団と清国軍相手に、籠城して戦った。西徳二郎公使(硫黄島で戦死した西竹一中佐・バロン西の父)の元で、駐清公使館付武官をつとめていたのが柴五郎中佐であった。(彼の家系は会津藩士の父を持つ)
 日本兵は義勇兵(民間人)を入れても50数名しか居なかった。(他に清国人クリスチャンの義勇兵30名)日本兵が守備についた王府への攻撃が最も激しかった。
 「日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである」   『北京籠城』ピーター・フレミング

 イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。
 「王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。‥‥日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれにつづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う」
 イギリス人青年ウィールの手記を引用する。
 「日本人の勇敢さは、このころになると伝説以上のものとなっていた。しかも彼らは深傷(ふかで)を負っても、呻き声ひとつ立てない。あるイギリスの義勇兵は、隣りの銃眼に立っている日本兵の頭部を、銃弾が掠めたのを見た。真っ赤な血が飛び散った。しかし彼は、後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもなかった。「くそっ!」と叫んだ彼は、手拭いを腰から取り出すとやおら鉢巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように、あいかわらず敵の監視を続けていた。ヨーロッパ人の眼には、それは異様な出来事に映った。人間業とは、とうてい思えなかった。
 また、戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本の兵士は、ヨーロッパの兵士のように泣き叫んだり、大きなうめき声を出したりはしなかった。彼は、口の中に帽子を突っ込んで、それを噛みしめ、少々唸りはしたが、そうして手術のメスの痛みに耐えた。病院に運ばれた日本兵士たちも、物静かな点ではまったく変わらなかった。しかも、彼らは沈鬱な表情ひとつ見せず、むしろ陽気におどけて他人を笑わせようとした。
 イギリス公使館の、すっかり汚れた野戦病院に運び込まれた負傷兵たちは、おおむね同国人たちが近くのベッドに並んで横たわっている。日本兵の負傷者たちのところには、日本の婦人たちがついて、この上なくまめまめしく看護にあたっていた。その一角は、いつも和やかで、ときに笑い声さえ聞こえた。ながい籠城の危険と辛苦は、文明に馴れた欧米人、とくに婦人たちの心を狭窄衣のように締めつけ、雰囲気はとかく陰惨になりがちだった。なかには明らかに発狂の症状を示す者もいた。だから彼女たちは、日本の負傷兵たちのまるで日常と変わることのない明るい所作に接すると、心からほっとした。看護にあたる欧米の婦人たちは、男らしい日本将兵のファンになった‥‥」


 8月、ようやく駆けつけてきた8ヶカ国連合軍の救援(日・英・米・露・仏・独・墺・伊)により北京は占領され、秩序は戻るかに見えたが、列国の兵達はロシア軍を筆頭に略奪者と化した。ただ日本軍のみを例外として。
 日本軍に非行がなく、日本軍が占領した区域の治安のよさは、北京市民だけでなく連合軍の間でも評判となった。北京入城後最初の列国指揮官会議がロシア公使館において開催され、マクドナルド英国公使が篭城の経過について報告した。そしてその報告の最後に、彼はこう付け加えたのである。
 「北京籠城の功績の半ばは、特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」

 1902(明治35)年1月30日、日英同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使になったマグドナルドであった。マグドナルドは北京籠城の際の駐清公使で、英国に帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからであるが、当時の超大国イギリスが、その長年の伝統である「光栄ある孤立」政策を一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景はいうまでもなく、マグドナルド公使自身が北京で見た柴中佐と日本将兵の見せた勇敢さからであろう。日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したのであろう。
 ちなみに、彼は、1945年大東亜戦争の敗戦後、身辺の整理を始め9月15日に自決を図る。老齢のため果たせず、同年12月その怪我で亡くなる。享年86歳。

                       参考・HP「国際派日本人養成講座」主催の伊勢雅臣教授の論文より

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こんにちわ、僕は柴五郎を主人公とした小説
「守城の人」を読みました。実に感動しました
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E4%BA%94%E9%83%8E

2009/8/19(水) 午前 9:39 ure*ruh**oshi

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ヒロシさんは多くの本を読んでいらっしゃいますね。
村上兵衛 『守城の人』ですね。浅田次郎も書いていますね。『蒼穹の昴』
もっとも、どちらも読んではいません。是非、読んでみたいですね。
柴五郎は幼少時から試練の経験をしています。会津攻防戦で、祖母、母、妹が自決していますね。
日露戦争ぐらいまでの軍人は、誰でも「武士」の体臭がプンプンするのですが、昭和になるといけません。エリート意識というのでしょうか、官僚、選民意識といった体質に感じられます

2009/8/19(水) 午後 9:21 勢蔵

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