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川あさり十右衛門

 
  三代将軍家光の頃、伊勢国東宮村(現在の三重県度会郡南伊勢町)から13歳の少年が江戸を志して赴いた。同じ郷里から江戸へ出た者の出世話に刺激を受けたからである。しかし徒手空拳で江戸へ下った少年に上手い話があろうはずがない。普請場での肉体労働に従事していたが、「江戸にいても、うだつがあがらない」と絶望して江戸を出た。帰郷するつもりか、上方へ行くつもりだったかそれはわからない。小田原の宿で見知らぬ老人と相部屋になった。老人は彼の身の上話を聞くと、
 「江戸へ帰りなされ」と十右衛門に言った。(十右衛門は成人してからの名前ですが、便宜上十右衛門としておく)
 「江戸は益々繁盛していく。才覚のある者だけがその宝をつかむことができる」
 「しかし、元手もない田舎者が広い江戸に出たところで、大海にただようゴミのようなものでございます。宝などはどこにも見えませぬ」
 「宝が見えぬのは、その宝を見ようとせぬからだ。もう一度江戸に戻り、眼を開いて町を見なおしなされ」
彼は江戸へ戻るために品川の宿を過ぎると、浜辺にただよっているおびただしい瓜や茄子を見た。江戸の町民が捨てたものが品川の浜に流れてついているのです。さっそく拾い集め、漬物に仕込んで主に普請場の人足を相手に売った。安かったので飛ぶように売れた。材料は川や浜の残菜で、買って食う者こそいい面の皮だが、仕入れはタダだから儲かった。普請場出入りのために上の者に袖の下も使った。
「その方ほどの才覚あるものが、物売りとは惜しい。日雇いの頭にならぬか」とスカウトされ、人夫頭として働き、土木や建築のことを覚え、やがて独立して土木請負と材木商をはじめた。
 
明暦3年「振袖火事」がおこり江戸は灰燼に帰した。彼は江戸の火が消えやらぬときに、今までに蓄えた金をかき集めるや、木曽へ急行した。建材になりそうな木をほとんど買占め手付けを払ってことごとく印を押して江戸に戻った。
 遅れて木曽に到着した江戸の材木商達は愕然とする。彼らは、材木を十右衛門の言い値のまま買わざるを得なかったのである。同時に諸方の大名屋敷、富商の家の建築を請けおい、
十右衛門は莫大な富を手にした。
 これがきっかけで幕府はじめ諸大名の御用商人になり、とくに時の老中・稲葉正則の気に入られ、
幕府の公共事業に関わっていく。
苗字帯刀を許され、姓を河村、剃髪して、号を瑞賢という。
のち54歳で直参となり、瑞賢が幕命を受けて行った事業のうち,東廻り・西廻り海運の刷新と淀川河川の改修が2大功績としてあげられるが、83歳で死ぬまで全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施。墓は鎌倉建長寺にある。
         『歴史の世界から』 司馬遼太郎著(中央公論社) 参考
 
 
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「軍艦マーチ」

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       校歌を歌う盛岡一高応援団・このスタイルは今も変わらないという。
 
  守るも攻めるも黒鉄(くろがね)の
  浮かべる城ぞ頼みなる
  浮かべるその城日の本の
  皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし
  真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
  仇(あだ)なす国を攻めよかし
 
 1897年(明治30年)鳥山啓作詞の「軍艦」という軍歌を、軍楽師だった瀬戸口藤吉が新たに作曲し、1900年(明治33年)に「軍艦行進曲」として誕生した。日露戦争の前ですね。
 今ではほとんど聴かれなくなりましたが、パチンコ屋といえば『軍艦マーチ』でした。人前で歌ったことは一度たりともないが、この曲が流れると上記の歌詞をよく口ずさんだものです。
 パチンコ屋の主題歌となったのには、ある伝説が伝わっている。1951年のこと、東京は有楽町に「メトロ」というパチンコ屋があった。GHQに近いということもあって店にはアメリカ兵も多く見られたという。店長はマレー沖海戦で軍功を立てたという元海軍兵士でした。帝国軍人の意地があって『軍艦マーチ』を大音響でかけた。アメリカ兵達は、はしゃいでも、かつての敵の軍歌と考えもしない。丸の内署の警官だけが血相を変えてやってきたのだが、連合軍総司令部からは何のお咎めもなかった。これはもうお墨付きをもらったようなものだと安心して、連日のように『軍艦マーチ』をかけ出したところ、客がどんどん入ってくる。ただちに他の店にも伝わり、日本中のパチンコ屋に、『軍艦マーチ』が流れることになった。
 
昭和43年(1968)の第50回全国高校野球選手権大会で岩手県代表の盛岡一高が徳島県代表の鴨島商高に4対2で勝ち、甲子園球場に勝利を称える校歌が鳴り響いた。
 するとスタンドからどよめきが起こった。軍艦マーチではないか。もちろん歌詞は「守るも攻めるも・・」ではなく「世にうたわれし浩然の・・」と難しい言葉が続く。同校の校歌は、歌詞は違うが旋律は軍艦マーチなのです。もっとも校歌の方はもっとテンポが遅いらしいが、軽快な軍艦マーチのスタイルで収録されて、それが流れた。宿舎に戻るとチームメイトは「あれはないよな、パチンコ屋じゃないか」と言い合った。
 盛岡一高は前身の盛岡中学時代から岩手きっての伝統校で、宮沢賢治、石川啄木等の文化人の他、米内光政や及川古志郎といった海軍軍人、板垣征四郎陸軍大将らを輩出している。
 校歌は戦後、軍国主義一掃の風潮のもとで存続の危機を迎えた。旋律だけでなく歌詞にある「文武の海」が問題視された。武の伝統があった。52年に生徒会で校歌改正論が起き、一時は改正派が優勢だったが、生徒全員投票の結果、辛うじて存続派が勝った。
                            参考・朝日新聞(421日)
 
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列車から飼い主救った犬

 
米国で今、1匹の犬が身を挺して飼い主の命を救った事故が報道され、大きな話題を呼んでいます。
飼い主と犬は、出先から徒歩で自宅へ向かっていた。すると、侵入した線路上で突如飼い主が意識を失う事態が発生。直後に貨物列車が接近し、危険を察知した犬は飼い主を線路外へ引っ張るように懸命の救助活動を行った結果、飼い主はけがもなく無事助かったものの、犬は右前脚を切断する大けがを負ったという。
米放送局ABCや米放送局ABC系列WCVB-TVなどによると、この事故は今月53日の夜遅くにマサチューセッツ州シャーリーを走る線路上で起きた。事故に遭遇した貨物列車の運転士によると、列車が現場に接近したとき、線路上に倒れている女性と、彼女を必死に線路外へ引っ張ろうとしている犬の存在を確認したという。運転士はすぐに急ブレーキをかけたが間に合わず、接触音を聞いたため女性のもとへと急行。すると女性は無傷で無事だったそうだが、助けようとしていた犬は右前脚を轢かれ、大けがを負ってしまった。

現場で倒れていたのは、犬の飼い主で54歳の女性クリスティーン・スペインさん。彼女はこの日、友人宅へ出かけた帰りに、メスのピットブル犬リリー(8歳)と一緒に家に向かっていた。ところが酒を飲んで酔っ払っていた彼女は、線路上で突然意識を失い卒倒。それに気付いたリリーが、列車から彼女を救おうと、必死の行動に出た。

リリーがスペインさんと出会ったのは、いまから3年前のこと。ボストンの警察官をしている彼女の息子、デイビッド・ランテインさんが「アルコール中毒の母にとって良い治療になる」と、飼い主がいなかったリリーを引き取ったことがきっかけだった。彼女も、彼が「溺愛する」と表現するほどリリーを可愛がっていたそうで、飼い出してからは息子の目論見通りに飲酒量も減少。リリーにとってもスペインさんにとっても、お互いに素晴らしい関係を築ける最高のパートナーとなった。

事故を受けて、ランテインさんが運ばれた動物病院へと駆けつけると、大けがを負ったリリーは「美しい目で」大丈夫と知らせるように心配する彼を見つめ、尻尾を振ったという。しかしこのときのリリーは右前脚を切断しただけでなく、骨盤骨折や内臓を損傷する重傷を負っていた状態で、それでも気丈に振る舞う愛犬に、彼は「私たちはリリーを救ったけど、彼女は母の命を救ってくれた」と感謝の気持ちでいっぱいになったそうだ。

ただし、倒れた直接の原因は不明ながらも、現場に駆け付けた際には酒に酔った状態だったというスペインさんの不注意が、事故を招く大きな一因になったことは否めない。実際、彼女は「アルコールに関係する罪には問われなかった」ものの、線路侵入や動物虐待の容疑で事故翌日に起訴された。そんな反省も込めた感謝の気持ちもあってか、助けられた彼女は事故後、ランテインさんと共に家を掃除して、「大好きなおもちゃ」も用意してリリーの帰りを待ち侘びているという。

リリーの勇気ある救出行動を伝える事故報道は、米メディアでも広く取り上げられ、多くの人々に感動をもたらしている。リリーが運び込まれた動物保護センターのサイトでは、事故の話と共に手術費用の寄付を求めるページを開設したところ、すでに世界中から「76,000ドル(約600万円)」ものお金が集まったという。
                                      
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デブ

 
Double Chin(二重あご)」の「デブちん」から「でぶ」になったとか、「Death and Burst(死と爆発)」からといった説もありますが、江戸時代から「でっぷり」という言葉が存在するから、名詞化されて「デブ」になったというのが有力のようです。また「出不精(でぶしょう)」からの説もあります。たしかに動かない人はデブのイメージですが、ただの俗説のようです。
 
私もデブなんですが、自分で我が身体を「デブ」と言うのはいいが、人から言われると、いい気持ちはしませんですな。まして女性の場合は言うまでもありません。からかったほうは、すぐ忘れますが、傷付いた方は10年記憶されますから、ご注意を願います。
 
肥満体の代名詞のように言われるのが「メタボ」という言葉。正式には「メタボリックシンドローム」という病名になる。本来は、高血圧症、高脂血症、糖尿病など複数の症状を合併している状態をいうんだそうです。
ある人が「メタボリックシンドローム」と告げられ、「目障りだから死ね」と聞こえたとか。
 
「60〜70代の高齢男性は少し太めが最も長生きできる」と茨城県が約9万人を対象にした調査でこんな結果が出た。日本肥満学会が決めたメタボ基準は、BMI(体重を身長で2回割った体格指数)で25以上が肥満とされる。それなのに今回の茨城の調査では、25.3の人が最も死亡率が低かったのです。すでにアメリカでは85年に、高齢者はBMIが高めの方が長生きだという調査結果が出ています。05年に、福岡大が40〜69歳の男女1万3000人を追跡調査した結果を発表していますが、死亡率が最も低かったのはBMI 24〜26と、肥満とされる25を超える人たちも含まれていたという。

見方を変えれば、やせ形は精神医学から見ればウツ病になりやすいとか、癌の抵抗力でもやせ形は太っている人に比べて弱いという重要なことがあるのに、全部かやの外なのです。雪山の遭難もタイタニック号の漂流も、脂肪の少ない者から死んでいくという。今やデブは自己管理がなっていないと非難され、そこに健康、スポーツ、食品とメタボで儲けられる業界が脱メタボの大合唱。メタボ市場は7兆円を超えるマーケットに膨れてしまった。
まあ、デブもそんなに深刻に心配することはないと思います。もっとも周りの目を気にせず、自分の身体のこともあまり心配していないから肥えているのですからね。以下お笑いです。

米国27代大統領に、ウィリアム・タフトという人がいた。体重が160キロあった。前任者は国民に人気があったセオドア・ルーズベルトであり、後任者は国際連盟をつくったウッドロー・ウィルソンである。ポトマック川河畔の桜は、タフトの大統領在職中に東京市長・尾崎行雄から贈られたものです。
フィリピン民政長官時代にタフトはワシントンD.C.に「今日は乗馬を楽しみました。とても元気です」との電報を送った。陸軍長官のエリフ・ルートはこれに対して「馬はどうした?」との返信を打っている。
入浴中に巨体が浴槽にはまって出られなくなることが二度あったため、ホワイトハウスに新たな浴槽が持ち込まれた。長さが2メートル以上もあり、重さは1トン。普通の成人男子が4人入れる広さだったという。
 
昭和20年代終わりから30年代初めに存在した人気ある横綱に鏡里という人がいた。見事な太鼓腹の横綱ゆえに、(尾篭な話で申し訳ない)、自分でお尻を拭くことができない。横綱がかがみ、付け人がさ〜と拭いたとか
 
最新型の体重計は声でアドバイスをしてくれるのだという。例えば
「体重が除々に増えています。お気をつけください」というように。
ある婦人がさっそく買い求め、ドキドキしながら体重計に乗った。体重計が告げた。
「一人ずつ乗ってください」
 
パソコンにかなを入力して漢字に変換したとき、予想もしない文章が画面に現れてびっくりすることがある。日本漢字能力検定協会は面白い変換ミスの事例を公募し、コンテストを催している。優秀作品から
(正しい変換) うまくいかない画像サイズになった
(変換のミス) 馬食い家内が象サイズになった
                 
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ゲルニカ

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 スペイン内戦の最中の19374月26スペイン北部・バスク州の小都市ゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって空爆を受けた。パリ滞在中でこの報を聞いたピカソは、かねて人民戦線政府より依頼されていた同年のパリ万国博覧会スペイン館の壁画として急遽ゲルニカを題にこの作品に取り組み、6月4には完成させる。
 スペイン内戦はフランコ将軍の勝利により終結。この絵はロンドンなどを巡回したのちにヨーロッパの戦火を避け、1939米国に渡りニューヨーク近代美術館に預けられる。第二次世界大戦後もフランコ将軍の政権下にあったスペイン政府はこの絵の返還を求めるが、「スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはない」とピカソは拒否した。ピカソは1973にこの世を去る。フランコ将軍も1975に没し、政体の代わったスペインとニューヨーク近代美術館との間にこの絵の返還交渉が再び始まった。1981になってようやくスペインに返還され、現在はマドリードソフィア王妃芸術センターに展示されている。   (以上『ウィキペディア』参考)
 
 1937年の作品は縦3.5m、横7.8mの大作である。大作にしては短時間(1ヶ月弱)で工業用絵具ぺンキによって描かれた。(油彩よりも乾きが速く、作業効率も高い)
 死んだ子を抱き泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったようにいななく馬などが戦争の悲惨さを訴えています。上部中央に、電灯らしい光が見えます。この光は、爆撃による爆弾の閃光でしょうか。電球とは、まさしく科学文明の象徴。その科学進歩がもたらした結果が、悲惨な殺戮を生んだ・・。
 当時の絵画としては珍しくモノトーンで描かれています。「戦争は、自由や個人の欲望など、全てが失われてしまう」という強いメッセージでしょうか。
 町の大半が破壊され、何の罪もないおよそ1500人もの住民が犠牲になったといわれる無差別爆撃は、人道上の問題として国際的に非難されました。第2次世界大戦が終わりヨーロッパに再び平和が戻りましたが、スペインは戦後もずっとフランコ将軍の軍事独裁体制が続きます。自由にものが言えない抑圧された国で暮らす人々の心を代弁したのは、やはり『ゲルニカ』でした。とりわけ、バスク地方の、あのゲルニカの町では、自由を求めるシンボルとして、すべての家庭がピカソの『ゲルニカ』の複製画をコピーしたものや写真を隠し持ち、心の支えにしていたといいます。
                         
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