還暦
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今日の稿は私事で恐縮です。もっともブログの多くは私事で占められているのですがね。
今朝、地元の神社で還暦の御祈祷がありました。神殿に上るのは寒くてかなわないので、祈祷中は一人外で焚き火にあたっておりました。こんな横着なことをしておれば、ご利益も授からないであろう。
さしずめ健康のための祈願ということであろうが、うやうやしく皆、頭を垂れている。古代から連綿と続く(広い意味での)シャーマニズムの世界ですね。
古代日本の原始宗教は呪術師が神と人間の間を司り、宗教的儀礼を行なった。本来の仏教も呪術的要素を排斥したものであったが、空海が祈祷による効験あらたかな真言密教を中国からもたらすと、日本人の思惟感性に合ったのであろう、急速に支配層から広まった。葬儀において訳のわからぬ経典を、いまだに呉音のまま長々読誦しているのは(葬儀の風景としては欠くことはできないのですが)霊を鎮めるといった呪術的な効験を見いだしていると思えてならない。
うろうろしているうちに五十、きょろきょろして徒に歳を重ね還暦を迎えてしまいました。還暦とは、60年で再び生まれた年の干支に還るからという数え年61歳の称ですが、満60歳の誕生日を迎えて還暦というのではなく、満60歳の誕生日を迎える年が、還暦の年ということになりますな。
我が身を鼓舞させる言葉があります。
「年を重ねただけで人は老いない 理想を失うとき初めて老いる」 サミエル・ウルマンの詩の中にあります。老いは肉体の疲労や劣化ではなく、学ぶ事をやめ、希望や理想を失った時に訪れる。「死して後已(や)む」(論語)この気概を持ち続けたいと思うものです。
「頭髪が白くなったからとて長老とは言い難し。ただの老いぼれと言われるのみである」(『法句経』) 年を重ねたというだけで、無条件に尊敬されるべきものではありません。 この句に続いて「誠あり、徳あり、慈しみあり、慎み深く、心を整え、煩悩を除き、気をつけている人こそ長老とよばれる」とある。
世の中には偏屈で、礼も知らぬ無教養な老人もみられます。この老人は長い人生で何を学んできたのか、という人もいれば、学ぶことをやめない敬すべき人がいます。倣うべきですね。人生にとって「この人のような生き方がしたい」と、師と仰ぐ人を持つことが必要です。
「もっとも長生きした人とは、もっとも多くの歳月を生きた人ではなく、もっとも多くの人生を体験した人です」 ルソーの「エミール」の中にあります。人は誰でも長生きしたいと願う。しかし、ただ物理的に長い年月を生きる事が真の長生きではありません。色々な事に挑戦し、ときには失敗や挫折を経験しつつ、生きてきた事に価値がある。人生はその密度ですね。そのためにもノホホンと暮らすわけにはまいりません。
我が人生を、まあサッカーでいうならロスタイム突入ということであろう。手が挙りゲームが突然終了するのは、20年後かもしれないし、3年後かもしれない。漢語で「晩年」と呼ぶにはいささか抵抗はある。
「晩年」「日既に暮れて 猶烟霞絢爛たり 日すでにくれて なおえんかけんらんたり 歳将に晩れんとして 更に橙橘芳聲たり としまさにくれんとして さらにとうきつほうけいたり 故に末路晩年は 君子更に宜しく精神百倍すべし」 ゆえにまつろばんねんは くんしさらによろしくせいしんひゃくばいすべし (意訳)日が暮れてしまっても、それでもなお夕映えは美しく輝いている。 年が暮れようとしているのに、橙やみかんは一段とよい香りを放っている。 ゆえに人生の晩年に際しても君子たる者、更に精神を百倍奮起せるようにすべきである。 (由来は『菜根譚』の一節です) |
