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古代出雲が宗像系海人族の交易の仲介や、寄港地などの手当てをしたり、交易品の情報をもたらしたなどということは、何を根拠にいえる事でしょうか。越前国、能登国、越中国の「一の宮」や有名な神社を見てみると、そのような気配が分かるのです。
「越前国総社大神宮」が、越前市にあります。ここの主祭神は「大己貴命(オオクニヌシ)」です。そして、配祀として「タギリヒメ」となっています。福井県穴水市に「穴水大宮」があります。ここの主祭神は「宗像三女神」です。能登国一の宮は、羽咋市の「気多大社」です。ここの主祭神は「大己貴命(オオクニヌシ)」となっています。
越中国一の宮は、高岡市の「気多神社」です。ここの主祭神は「大己貴命(オオクニヌシ)と奴奈加波比賣(ヌナカワヒメ)」となっています。さらに、富山県南砺市の「比賣神社」はオオクニヌシの娘神の「下照姫」が主祭神であり、砺波市の「比賣神社」は、宗像三女神の「市杵嶋比賣命(イツキシマヒメ)」となっています。
出雲の神と宗像系海人族の神様が、協力するように、しかも、主祭神として祀られているではありませんか。このような広範な地域に、しかも沿岸を沿うように、出雲と筑紫の神様が祀られていることは、海を使った交易がもたらした富や、技術供与に対する崇拝の念を除いては考えられないのです。
では、なぜ古代出雲が宗像系の海人族と越の人たちに、そのような協力をしたのでしょうか。理由は三つほど考えられます。
一つ目は、出雲は平野と良港を抱え、筑紫からの遠距離の交易の中継地・逗留地として最適であったことです。この意味で、古代出雲はターミナル的な役割をしていました。出雲にとって、それも筑紫からの財源の一つだったのでしょう。したがって、交易の範囲が広がれば広がるほど、古代出雲の役割と交易による収益が増すことになるからです。
二つ目は、これだけの遠距離となると筑紫の言葉と、越の言葉とではかなり隔たりがあり、交易の交渉に不便が生じるのに対し、出雲の言葉は通じやすかったことです。能登半島の港町の漁師さんの言葉は、今でも出雲弁ととてもよく似ているのです。
三つ目は、越の地域に対し交易品の加工技術などについて、出雲が技術供与をする必要があったことです。越の小滝川流域からは「ヒスイ」が採れました。ヒスイは出雲の碧玉よりもはるかに硬い硬玉です。そしてその緑の色は、出雲の青メノウよりもずっと神秘的でした。
もちろん、越のヒスイをはじめとする玉製品は、縄文時代から作られており、各地から見つかっています。しかしこれは、商いとしての交易というより贈答(贈与交換)という意味での配布でした。オオクニヌシ達が目論んだのは、その特産品をきちんとした見返り品との引き換えにし、定期的に交易をする管理交易だったのです。
そのためには、きちんとした勾玉などに加工しなければ、商品価値は薄いのです。また、出雲に原石などを持ち帰って加工するより、現地加工のほうが効率が良いのです。そこで、どのようなものに加工すれば交易の対象商品となるのか、古代出雲の人たちが教え、管理交易のネットワークの中に組み込んだのです。
出雲大社の隣りの命主神社の磐座からは、青銅の戈と一緒に、大玉のヒスイの勾玉が出土し、国の重要文化財となっています。このヒスイは、越が原産とされています。越の人たちが、ヒスイが富をもたらしてくれる交易品となったことに感謝して奉じたのではないのでしょうか。そして、銅戈は交易の利を得る、宗像系海人族が奉じたと思われるのです。
このようにして、古代出雲の文化と技術をもたらしてくれる出雲の人々、その成果を交易品として持ち帰ってくれる宗像系海人族たち、この組み合わせに北の人たちは大いに感謝したことでしょう。そしてまた、古代出雲と宗像系海人族は交易の富を得る。まさに「三方丸得」だったのではないでしょうか。次回にしたいと思います。
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