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出雲の祭政の中心は、意宇地方となりました。大和の勢力の影響下におかれたとはいえ、出雲臣たちは、出雲のオリジナリティを堅持しました。その際たるものが、大型の方形墳です。
大和の古墳が、ほとんど前方後円墳であるのに対し、意宇地方では、方墳、前方後方墳という形の古墳が造り続けられました。大庭の山代二子塚古墳、岡田山1号墳などです。
やがて、出雲国造に任命され、その国造として祀ったのは、出雲固有の熊野大神と大国主命でした。国造館や社家、総社も造られ、意宇の地方は出雲国造が支配する祭政の一大地となったのです。
大化改新後、国司が中央から派遣されてきますが、出雲国造は「意宇郡大領」を兼帯(兼務)し、実質的な統率者でした。国造と大領の兼帯を許されたのは、出雲国造と宗像国造だけだったのですからその実力を知ることができます。各国の風土記の作成にあたって、国司の干渉を排し、国造が先頭に立って監修したのも『出雲国風土記』だけだったのです。
さらに、天皇家や天孫の繁栄を寿ぐ「神賀詞(かむよごと)」の奏上も、全国で唯一、意宇にいる出雲国造だけに「出雲国造神賀詞」奏上として許されたものです。大和政権からさまざまな特権や、特別な計らいを受け続けたのはなぜなのでしょうか。
しかし、前回の第82代出雲国造の「千家尊統(せんげたかむね)」氏も、指摘されるように、・・・『意宇郡大領兼帯という政治的権威を失った平安初期に、意宇郡には大庭の熊野の神の遥拝祠ならびに国造館をのこして、大国主神鎮座の杵築の地にあげて移転し、宗教的権威にひたすら生きることになったのではあるまいか。』・・・ということで、平安初期には、政治的権威を失い、今の出雲大社の地に移ることになります。
とはいえ、国司の駐在する「出雲国庁」は、意宇に依然置かれていて、出雲国の政治はここを発信地としていたのです。
一方、安来と乃白地方は、平々凡々たる出雲の一地方としてその歴史を刻みます。安来地方が、再び世の中に登場するのは、中世の戦国大名尼子氏が、広瀬に月山富田城を拠点とするまで待たねばなりませんでした。乃白地方は、平成9年12月に、田和山の丘陵斜面に弥生時代の三重環壕が巡ることが確認され、特異な遺跡であることが話題になるまで、静かな田園地帯として、その歴史を刻んでいたのです。
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安来は最初発展したのは、弥生時代後期と古墳時代前期の間あたりで、そのとき大庭のあたりは四隅突出型墳丘墓も大方墳も築かれていませんでした。
各識者の話では時代あたりが古代出雲王朝が絶頂期をむかえたのがこの時代あたりだと指摘されそこには鉄器の流通をめぐる攻防が見え隠れしているようです。
出雲国庁は律令の定める所で決まったものなので出雲王朝の話とは無論違うと思いますが。
2007/9/8(土) 午前 0:11 [ クナト ]
クナトさん>私は、今の地理観で安来や意宇を見るのは少し疑問だと思います。私たちの頭には、小さな頃から刷り込まれた行政区分の線引き地図が詰まっています。安来あたりだ意宇あたりだといっても、とても流動的な含みが当時はあったのではないでしょうか。昔の境界は、もっと別の所に別の理由で引かれていた、存在していたのではないかと思っています。私も注意していますが、安来にこれがあるから安来はすごいとか、大社にこれがあるから大社はすごい、といった見方ではない見方もあるように思います。
2007/9/8(土) 午前 9:17 [ いずものしげちゃん ]
でも安来平野は偉大だと思う。
あれだけ弥生古墳期に発展したのに埋もれるのは惜しい。戦国期にも尼子氏が居城をかまえ、日本海一の都市であったのは何時の時代でも地政学的に発展しやすかった地域であったと思います。
2007/10/29(月) 午後 11:40 [ 白鳥 ]
白鳥さん>確かに、偉大なことは間違いありません。
2007/10/30(火) 午前 9:07 [ shigechanizumo ]
黄泉=黄金の都いう古き言い伝えは誠であったか。
2008/6/15(日) 午前 0:07 [ ナウシカ ]
私はこの地は教昊寺 という出雲風土記中の存在感や山陰の田舎には不釣合いな古くて大規模な清水寺を考えると、仏教輸入の先端基地だったのではないかとおもいます。清水寺の根本堂は気になりますね。
2008/6/29(日) 午前 2:20 [ ラピュタファン ]
それよりも、意多伎神社から出た旧石器の刃物はその後どうなったんでしょうね。安来あたりは旧石器時代から人が住んでいた痕跡があるので、当然人がすみやすかった地域なんでしょう。
2008/12/21(日) 午後 7:27 [ 大国魂 ]
やはりここは蘇我氏の本貫のようですね。大和朝廷が仏教を受け入れる前から本格的な寺院があったんですね。
2009/9/5(土) 午後 5:31 [ 西谷 ]
司馬遼太郎著「生きている出雲王朝」の謎解き
式内社 出雲國意宇郡 都辨志呂神社
旧村社
素盞嗚尊,岐戸大神
「祭神來名度神といふ。是は信じがたし。都辨を杖とおもひての非事なり。
杖は都惠なり。音異なり。強て杖なりとせば。來名度神にはあらで、
大穴持神の御杖なる國造家の祖神ともいはるべし」
『出雲國式社考』
2009/12/29(火) 午後 7:26 [ クナト ]
これに加藤義成の「古事記参究」があれば、関裕二の書いた「神話のカラクリ不比等の野望」の完全な意味が分かる。
2011/1/30(日) 午前 10:51 [ 俵 ]
とにかくユダヤに出雲は洗脳されてほしくないですね。
2011/2/8(火) 午後 10:40 [ ロック ]
とにかく神道や日本の歴史学は海外の勢力に振り回されて、何もしていない。日本の原動力はそれらにあるのに歴史的複雑骨折をただ傍観しているのはアンチ日本文明主義者のレッテルが待っているかも。
2011/10/10(月) 午後 6:28 [ イカレタ社会 ]
イカレタ社会さん>海外の勢力はともかく、井上先生も若干そのようにも書いていらっしゃいます。
2011/10/11(火) 午前 9:52 [ いずものしげちゃん ]
藤原摂関家子孫がそう仕向けてトヨタが図に乗っているという構図も描けなくはない。
2011/12/3(土) 午後 8:23 [ 大同 ]
鳥取県の白兎海岸での白ウサギの話のあと、オオクニヌシの神は、八十神にいじめられたあたりが鳥取県日野郡あたりで、その後根之堅洲国のスサノオ神からも試練を受ける。このあたりは島根県安来市あたりになろうかと思います。そうやって島根県松江市にある黄泉平坂を通って、出雲大社のある島根県出雲市へと向かいます。こうやって、オオクニヌシの神の移動に合わせて観光するのも一興だと思います。
2011/12/11(日) 午後 8:53 [ 古代ロマン人 ]
古代ロマン人さん>そうですね。オオクニヌシが焼けた石をいのししだと偽られて、大やけどを負って死に、そして再生したというのも、安来と隣接する鳥取県南部町あたりとされていますね。そこから今度それにちなんで「再活(再びよみがえる)」というキーワードで町おこしが始まるそうです。
2011/12/12(月) 午後 4:17 [ いずものしげちゃん ]
まるで古代豪族、蘇我氏みたいですね。
2012/1/29(日) 午後 6:49 [ 愛知鋼人 ]
私も50ちかくなりおっしゃる様な、その米子と松江が本当は安来を中心としていたという意味が解ってきました。遠くのものを見ると二重に見え始めていrます。初めは気にしていなかったのですがどんどん二重に見える幅がひどくなってきました。ようは歴史が古すぎる地域も、元の原型を忘れなんらかの拍子に分裂した状態は容易に治せないのかもしれません。
2012/2/12(日) 午後 10:55 [ 本多 ]
本多さん>おっしゃるように、飯梨川・伯太川そして安来・能義平野、そこから奥出雲に続くルートは、とても魅力的な範囲ですね。今日のように斐伊川水系を中心に取り上げて出雲を語るのは片手落ちだと私も思います。
2012/2/13(月) 午後 1:54 [ shigechanizumo ]
それにしても、安来の須賀神社の近くで出た、1400年間錆びずに発掘された大刀が島根県の博物館に飾ってあるそうで、古事記などの関係から実に興味深いと思って、今年は一度山陰への観光と思いあれこれ考えております。
2012/4/3(火) 午前 6:47 [ 大東人 ]