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古代出雲『出雲はどのように見られていたか』の謎(その32)

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前回、・・・『大和政権などが受け容れにくいとした信仰や文化の一部は、出雲を入り口として大和政権の思惑とは別に日本海海域に広がっていたということです。』・・・としました。しかし、高句麗が滅んだ後、渤海という国が出現し、それは非常に日本の政権にとって友好的な国だったとされています。

次のような指摘があります。・・・『渤海というのは高句麗がなくなったあと、今日でいう北朝鮮から満州(歴史用語として使います)、シベリアにかけて、日本としげく交流がありました。多くの中国文化は、渤海の使節を通じて日本にやってきたという事実があります。渤海の使節が日本にくるときのルートは、朝鮮の北の端から朝鮮半島沿いに下り、38度線を越えて、慶州、釜山、対馬を通って来る。そして山陰の日本海側を上がり、能登半島、新潟、秋田を越えて、青森の土佐が終着であったと思います。』・・・。
http://www.systemken.org/geturei/29.html

そして、・・・『新羅との関係が特に緊張していた期間(758年−763年)には、ほぼ毎年使者が往来し、759年(天平宝字3年)には恵美押勝が渤海の要請によるとも言われるが軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な新羅遠征計画を立てた。この遠征は後の孝謙上皇と押勝との不和や渤海側の事情の変化等により中止されたが、文王が唐との融和を図る時代になると軍事的な意味合いは薄れ、専ら文化交流と経済活動を中心とした使節へとその性格を変化させていった。』(ウィキペディア)・・・。

渤海から日本にもたらされた物は、・・・『毛皮、蜂蜜、薬用人参、三彩陶器、シルクロードを通じた品々など』であり、・・・『毛皮は朝廷の儀式に使われた。虎とヒョウの毛皮は武官の用品として使用された。水銀は青銅仏の製作に使われたほか、不老長寿の薬として珍重された。』・・・とされています。また、日本から渤海にもたらされたものは、・・・『絹、綿、黄金、水銀、扇など』・・・だったとされています。こうした政府間の公式な交易(厳密に管理されたとされています)があったということは、その裏での私的なあるいは政府には届け出ていない非公式な地域間の接触もあったと考えられます。

ところで、これらの交流は700年代というのですから、出雲が隆盛していた時代とは背景や造船技術などが異なります。しかし、渤海と日本がそのような交流をしたということは、はるかそれ以前にも規模は違うとはいえ、少なくとも同じ地形、海流、風向、寄港地を利用した環日本海の交流があったことを裏付けることなのです。私は、古代出雲を中心とした環日本海交流についての様々なことについて、もっと深く調査が進められれば、現代にも通じる多くの課題について、従来とは異なった視点が提供できると思うのです。

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