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石神信仰

先日のmsnニュースに、次のような記事がありました。
・・・『高さ10メートル級の巨石群が並び、地元民が「立石(たていわ)さん」と呼ぶ島根半島の石神信仰遺跡(島根県出雲市坂浦町)調査が7日、始まった。同市の荒神谷博物館が中心になって同県内の巨石遺構を調査する第1弾。巨石は神が宿る磐座(いわくら)につながるが、実態はよくわかっていないだけに解明が期待される。

 巨石信仰の対象であった遺構は多くあるが、分布調査などはほとんど手つかず。同博物館が中心になって「出雲の石神信仰を伝承する会」(実行委員長、藤岡大拙館長)を立ち上げ、本格調査することにした。

 この日は、平野芳英副館長(61)が「自然崇拝の原点が残っている」と注目する「立石さん」を訪れ、地元民らと巨石群の前でおはらい式を営み、調査の安全を祈った。調査は約1週間かけ、巨石3個にレーザー光線を当てるなどし、大きさや立・平面図と正確な位置図を作成する。』・・・

前回紹介した、荒神谷博物館の副館長の平野先生が主導されるとのことです。わたしは、このblogの『古代出雲『神社と磐座と出雲』の謎(その1)』で、そのことについて少し空想してみました。

今回の調査・研究には大いに期待するところがあると思います。原初から今日に続く真正で、神聖なパワースポットこそ、出雲の石神様が鎮座するところではないでしょうか。

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興味深い新説

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荒神谷博物館副館長・主席学芸員 平野芳英さんが、先日興味深い新説を出されました。荒神谷遺跡になぜ多量の銅剣が埋められたのかということについてです。私も講演に出席したり、全体の内容をくまなく見たりはしていないのですが、山陰中央新報における平野副館長の論説や朝日新聞の記事によれば次のような内容のようです。

1.各地の谷には谷神(谷や谷川の神様)と呼ばれる神がいた。
2.各地の谷川河川は、利水の便から稲作に適した場所だった。
3.しかし、初期には谷神と稲作農耕民とにはきちんとした棲み分けや、共存が成立していなかった。
4.このことは、『常陸国風土記』における「夜刀神」(蛇神)の物語からも推し量る事が出来る。
5.この棲み分けと共存を成立させる為に、谷神に捧げたのが銅剣あるいは青銅器である。稲作と共にもたらされた青銅器を捧げ、谷神を祭る事によって、稲作農耕への理不尽な妨害などを防ぎ、安定した農耕生活を求めたのである。
6.このことは出雲で発見された青銅器が、荒神谷遺跡のみならず、志谷奥遺跡、加茂岩倉遺跡といった谷あいであることからも推測できる。
7.また全国的にもそのような傾向が見てとれる。
8.出雲のヤマタノオロチ神話も、谷にかかわる事から、そのような流れの中の伝承だと考えうる。
9.中国でも「谷神」を敬うとされている。

・・・というのが大まかな趣旨です。

さて、どのように考えたらよいのでしょうか。

私は、出雲の谷々に、それぞれに祭られていた水の神、谷の神がいたという事はもっともな事として肯定できると思います。出雲の神奈備山の一つである、大船山からは青銅器は発見されていませんが、確かに、水・谷の神と思われるタキツヒコが祭られています。そしてその伝承も、アジスキタカヒコネ、アメノミカジキといった父母神とともに残されています。また、青銅器が発見された出雲大社境内遺跡も谷に挟まれた場所だといってよいでしょう。

とすれば、荒神谷遺跡も神奈備山である仏経山と関連する谷の神と関わると推論してもよいのかもしれません。また、谷の神はミクマリ(分水・水源)の神ともいえます。こうした神は全国のいたるところの聖地に祭られているのです。そして、それらの神は、副館長の指摘されるように蛇とも関係する神なのです。そして、これらの神は、邪悪(害を及ぼす)な面と、恵みを与える面を持っています。

さらに言えば、出雲の稲作農業は宍道湖・中海、あるいは海岸線に近い低湿地から広がっていったというよりも、指摘されるように、中山間地の谷川河川の扇状地から始まったのではないかと思われるのです。なぜなら、宍道湖・中海、あるいは海岸線に近い低湿地の水は、当時は塩分濃度が相当高く、塩害が発生しやすかったと考えられるからです。そして、出雲ではその谷川河川は毛細血管のように張り巡らされているのです。

このように考えると、副館長の説は相当に説得力のあるものとなります。しかし、いくつかの疑問があります。

なぜ、356本という大量の銅鐸を捧げる必要があったのか。象徴的に、数本の銅剣でよかったのではないでしょうか。

では、その大量な銅剣は、他の地域の谷神の祭祀のために配布されるためだったのでしょうか。

また、なぜ四列の銅剣の並びについて、それぞれに本数が異なるのか、そこには何か意味があるのかも問題となります。

さらに、常陸の夜刀神は、天皇が派遣した武人に、ヤマタノオロチは外地から来たスサノヲにいったん滅ぼされています。制圧・奉祭というプロセスには、地元の有力者ではなく、外から来た第三者の武力や知恵が必要だったのはなぜなのでしょうか。

そしてなぜ青銅器が捧げ物として選ばれたのかについて、単に稲作と共にもたらされた先端金属器といった理由だけでは物足りなく、少なくとも当時から金属器には辟邪、災いを避けるといった効能があると信じられていたのではないかといった面から、青銅器が捧げ物として選ばれたとも考えられないでしょうか。金属器を海の怪物は嫌がるとか、暴風波浪を静めるために海に刀剣を投げ入れるといった迷信も参考になるのではないでしょうか。

以上、思いつくままに急ぎのコメントとして述べさせて頂きました。

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ひょっとして

次のような記事が掲載されました。

・・・『島根県教委は8日、松江市東津田町の石屋古墳(国史跡、方墳)で出土した土器片から、5世紀中頃の力士や武人など5体の人物埴輪(はにわ)を確認した、と発表した。
人物をかたどった埴輪群としては最古という。日本書紀には、出雲から技術者を呼んで人や馬の埴輪を作らせたと書かれており、専門家は「記述は史実を基にした可能性もある」としている。
県教委が1978年に出土した約1万点の埴輪片について、2年前から調査。一緒に出土した土器から、5世紀中頃のものと特定した。
復元した埴輪は5体分の手や足など。下半身を復元した力士(高さ約80センチ)は、腰にふんどし、足首に武器のとげが装飾されていた。
人物のほかに馬形、椅子形の埴輪もあった。
人物埴輪群が古墳に並べられるようになったのは、大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)など、5世紀中頃の近畿が始まりとされるが、県教委は「出雲がルーツで、近畿に技術者を派遣したのではないか」とみている。
日本書紀には、垂仁天皇に仕えた出雲出身の野見宿禰(のみのすくね)が、出雲の「土部(はじべ)」(技術者)100人を呼んだ、とあり、高橋克寿・花園大教授(考古学)は「畿内と出雲の政治連合があったと考えられる」と話す。
埴輪は10〜20日に県立八雲立つ風土記の丘(松江市)で公開するほか、7月28日〜9月9日には京都国立博物館(京都市)で開かれる「大出雲展」(読売新聞社など主催)で展示される。
(2012年3月9日 読売新聞)』・・・
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120309-OYO1T00175.htm?from=main4

私はこのblogで何度か試論を書きました。

http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/61702737.html
古代出雲『巡回(遍歴)する工人』の謎(その12)

http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/59992236.html
古代出雲『物部氏と出雲』の謎(その30最終回)

http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/52821813.html
古代出雲『不思議な王国』の謎(その17)

などです。私の考えは空想でしたが、さすがに考古学は力強いですね。

しかし、ここでも・・・『高橋克寿・花園大教授(考古学)は「畿内と出雲の政治連合があったと考えられる」と話す。』・・・といったコメントがあります。私はそうした考えにはあまり賛成できないのです。むしろ、出雲における先進的な技術の存在と、そうした技術を大和がどのように受け入れて行ったのかというプロセスが大事だと考えるのです。いかがでしょうか。

ちなみに、次のHPをご参考ください。

http://www.izm.ed.jp/cms/news.php?mode=yoyakuadd&id=890

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新規連載について

明日は雛祭です。春も近づき、相当の間連載を休止していましたが、再び連載を始めようかという意欲が少し出てきました。

テーマとしては、弥生以降の日本列島の状況について、あるいは文化・技術の伝播・発展について、あらためて地域のブロックごとに考えていった方がよいのではないかということについて空想したいということです。

私が考えるブロックとは、朝鮮海峡を挟んだ南朝鮮沿岸部と北部九州ブロック、有明海を中心とする中部九州と南部九州ブロック、そして、出雲を中心とした越に至るまでの日本海海域ブロック、最後に瀬戸内海から大和・濃尾に至るブロックです。

私はそれぞれのブロックには特有の文化流入があり、それぞれにある意味でのバリアーがあり、通常指摘されているような形で、あるところ例えば北部九州に到達したある文化流入が、そこからスルスルと日本列島の各地に流れていった(伝播した)、そしてデフォルメし、モディファイされたと単純に考えることはできないのではないかと空想したいのです。

まずこうしたところから始めたいと思いますので、よろしくお願いします。

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出雲大社の大遷宮

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出雲大社の大遷宮もいよいよ佳境の工事に入ってきました。
大屋根の葺き替えや千木、鰹木の修復、新調も整ったようです。
ここで思うのは、神社にまつわるそうしたオプションについて、思いをはせたり知識を深めたりして見るのも面白いのではないかということです。
千木、鰹木、注連縄、ひもろぎ、榊、幣帛などなどです。その起源は、その由来は、その意義は、などなどです。

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