マイケルのココロ--FOREVERLAND

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マイケルのチャリティへの情熱は並々ならぬものでしたよね。

その源は、色々な要素が考えられると思いますが、そのうち一つをご紹介したいと思います。

マイケルの元には、若い頃から、不治の病の子供達が、「死ぬ前に一目会わせて」と言って何人も訪れてきたということです。その度に彼は、その子をはげましますが、子供達は皆、亡くなってしまう運命、、、。マイケルの心の中には、マイケルに会えてよろこぶ、やつれた病気の子供の面影がうずまいていたのではないでしょうか。

あなたなら、多感な青年期に、「会えてよかった」と言いながら死んでいく幼い子供を何人も目にして、何もしないでいられるでしょうか?頼ってくる幼い命を救いたい、という願い。救えなかったという罪悪感。自分は何ができるだろう、という心のうずき。それらが、マイケルのチャリティの、切実な原動力の一つになったのではないでしょうか。

ここに2つの実例を挙げます。
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★マイケルが救えなかった子供1(1987年 カンザスの10歳の少年)マイケル29歳の時
(オックスフォード大学におけるマイケルのスピーチより抜粋を和訳)

「...皆さん、人間の認識の土台、意識の始まりは、自分が愛の対象であると感じることでなくてはなりません。自分の髪が赤いとか茶色いとか以前に、肌が黒いか白いか分かる以前に、どんな宗教に属するのか知る前に、愛されているということを実感できなくてはならないのです。

★★★12年前、バッドツアーの開始直前のこと、カリフォルニアの自宅に、ある少年とその両親が訪ねてきました。ガンで死期の近い少年でした。彼は私の音楽や私のことが大好きだと打ち明けてくれました。少年がすぐにでも天に召されるかもしれない、ということをご両親から聞き、私は彼に言いました。「ねえ、3ヶ月後に、君の住んでいるカンザスの町でコンサートをするんだ。見に来てほしいんだ。さあ、ビデオで着たこのジャケットをあげる。」

少年は目を輝かせて言いました。「僕にくれるの?」私は答えました。「そうだよ。でもこれをコンサートに着てくるって約束して!」私は少年を何とか持ちこたえさせようとしていたのです。「コンサートには、このジャケットを着て、この手袋をはめてくるんだよ、いいね?」と言って、普通は決してあげないことにしている、ラインストーンの手袋を渡したのです。彼は喜んで天にも昇るようなそぶりでした。

でも、少し天に近すぎたのでしょう。私がカンザスを訪れたとき、彼はすでに息を引き取っていました。彼は手袋とジャケットを身につけて葬られたそうです。わずか10歳の命でした。★★★

彼が精一杯生き伸びようとしたことは疑いもありません。でも、少なくとも、息を引き取る時、ご両親だけでなく、ほとんど他人の私からさえ愛されたということを知っていた、とはいえるでしょう。私も彼を愛していたのです。こうした愛のもと、彼は自分がこの世にひとりぼっちで生まれ、一人ぼっちで死んでいくわけではない、と思えたでしょう。

愛されている実感をもってこの世に生を受け、愛されている実感をもってこの世を去るなら、その間の人生における出来事は何であれ、乗り越えて行けるものです。...」

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★マイケルが救えなかった子供2(1984年 デイヴィッド少年 14歳)マイケル25歳の時
(雑誌People Extra84年p34より考察のための参照的引用として和訳)

デイヴィッド・Smithee14歳の最大の望みは、マイケル・ジャクソンに会うことだった。彼に残された時間は長くなかった。嚢胞性線維症であとわずかの命だったのである。

昨4月、少年の願いはついにかなえられた。死を間近にした子供達の願いをかなえる活動を行っているグループをとおして、話を聞いたマイケルは、デイヴィッドをエンシノにあるジャクソン家へ招待したのである。

4月9日午後2時、カレン・Smithee(母)は、一人息子を連れて、ファンが群がるエンシノの家の門をくぐった。...マイケルは彼らをリビングで出迎えた。「彼はとてもシャイでこちらをまともに見られないぐらいだったわ」カレンは回想する。...マイケルは少年にキッチンでランチをごちそうすると、裏庭に連れ出して羊のミスター・ティブスとラマのルイに会わせた。スタッフに、デイヴィッドをビデオインタビューさせたりもした。「マイケルは、デイヴィッドをまるでスターになったみたいな気分にさせてくれたのよ。」とカレンは語る。マイケルとデイヴィッドはビデオゲームに興じたり(デイヴィッドが2回勝ち)、シアターで映画を見たりして過ごす。「うちの子はそこに座って、マイケルのジャケットを着せてもらって、生涯で一番幸せそうにしていたんですよ」とカレン。

マイケルはデイヴィッドに、ビート・イットのビデオ撮影に使った赤い革ジャケットと、アメリカン・ミュージック・アウォードでつけた黒いキラキラ手袋をプレゼントする。デイヴィッドは得意そうに「マイケルはね、この手袋には魔法の力があるから、他の人にはつけさせちゃだめだって言ったんだよ!」と母に語ったという。

それから7週間後、デイヴィッドはこの世を去る。7月にカレンは、ジャクソンズの出したCDヴィクトリー・アルバムの献辞に「このアルバムを、母キャサリン、故マーヴィン・ゲイ、そしてデイヴィッドに捧げる」と書かれているのを知った。
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もちろん、こうした悲しい思い出が、チャリティの動機の全てではないかもしれません。

オックスフォード大のスピーチの他の部分や、各種インタビューを聞くと、マイケルは自分自身が子供時代を子供らしく過ごせなかったため、「他の子供達には、愛を感じながら無心に遊べる、幸せな一時期としての子供時代を与えよう」と決意していたことが分かります。その動機は、彼自身の存在と表裏一体の、切実で繊細で純粋な物でした。バッドツアーで日本に滞在中、ヨシアキ君の悲劇を聞いたマイケルが、彼の遺族に歌をささげ、寄付をしたのも、「そうでもしなければいられない」繊細なマイケルの心のしわざだったのではないかと思います。

まだ20代前半、マイケルのお抱え写真家としてツアーに同行し、移動バスの話し相手になっていたトッド・グレイは、道中、マイケルからこんな話をされたのを回想しています。

「子供っていうのは誰もみな、美しさを持っているよね。どこの地域の子供、ということ関係なしに、どの子でも美しい。僕は、世界中のあちこちの子供達について、本を書けたらいいのにと思うよ。色んな国に行って、この地球上の誰もがどれだけ美しいか、皆に見せてあげたいんだ。例えばインドに行って、貧困や苦しみにあえぐ子供達の現状を示したら、状況を改善する手伝いができるかもしれない。アフリカにしてもそうだよ。あちこちで飢餓や病気がはびこっているんだ。Todd、僕と一緒にこの仕事をしてくれないかい?」

彼は驚きながらも「やってみたいな」と返事し、マイケルにLewis Hineというフォト・ジャーナリストの本を読むように勧めます。Lewis Hineは、児童労働制限法令の導入に影響を与えた写真家。マイケルはHineの写真を見ると、トッドに「君はこういう写真こそ撮るべきだよ」と勧め、さらに「本当に悲しくて、心がかき乱されるよ。こういうのを見ると僕は泣きたくなってしまうんだ、、」と漏らしたとということです。

マイケルのあまりの多忙さに、子供の窮状を啓蒙する写真集の企画は実現しませんでした。けれども、彼の「世界の子供を助けたい」という夢は、後にWe Are The World共同作詞作曲という形で実を結びます。その後も、Heal The World基金を設立してデンジャラスツアーの収益を全額基金に投じたり、恵まれない子供達を常にコンサートに招いたり、休日があるとツアー地のどこでも病院や孤児院で子供達を楽しませ、病気の子供の治療費を肩代わりしたりしてきました。

彼のすることは何でもケタはずれなので、世間では、「なぜ彼はそんなに子供を救いたがるの?」という疑問がわきおこり、それが後年のお金目当ての訴訟の背景になってしまったわけですが、その背景に、このような、切実な体験があることは、意外に報道されていないように思います。

(参照文献)
トッドの回想:「Michael Jackson, Before He Was King」トッド・グレイ著より考察のための参照的引用として和訳

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