世界日本化計画

ブログタイトルを「silkroad_desert9291」から「世界日本化計画」に改名した。(2008.12.16)

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「物語 フィリピンの歴史」

鈴木静夫「物語 フィリピンの歴史」(中公新書 1367)中央公論社、1997.6.15

●1521 マゼランがセブ島到着。それ以前の事は、従来は分かっていなかったが、1990年に発見されたラグナ銅版碑文(LCI)が、900年にサンスクリット系の文字で書かれた、ある高官の負債を不問にする証明書だと分かり、法秩序が存在していた事が分かった。中国の史書にはフィリピンが登場し、交易を行っていたらしい。

●1565 レガスピがセブ島に上陸。1568 ブルネイ王国支配下のマニラをスペインが攻撃。1571 マニラに市制を敷く。エンコミエンダ制(功労のあったスペイン人に一定区域の管理・徴税・布教を任せる)。全土の人口は50〜70万人。マニラをスペインの全アジアへの拠点とする。秀吉もフィリピン侵攻を考えていた。ガレオン船によりメキシコと貿易。商品は中国商人が動かしており、マニラは通過点に過ぎず、原住民は労力として使われただけだった。

●原住民は言われた事や押し付けられた事を簡単に信じる柔和な性格。教会の土地をインキリノ(原住民の有力者)に貸し、インキリノは更にカサマ(第2小作)に耕作させた。原住民は、貢税、奴隷化、強制労働により痛めつけられた。

●1744〜1829 ダゴホイ事件…ボホール島イナバンガ町長ダゴホイの反乱軍は最大2万人に。
●1762〜1763 ディエゴ・シランの反乱
●反乱は4〜5年に1度の割合で起きたが、スペインの強力な火器と原住民傭兵により失敗。

●1882 デル・ピラールがタガログ語新聞を発刊。1887 ホセ・リサールが「ノリ・メ・タンヘレ」(私に触るな)をベルリンで出版。
●1892 ボニファシオが「カティプナン」を組織。1896.8.27 蜂起、12.30 リサール処刑。1897.5.10 ボニファシオ処刑、5.31 アギナルドが「ビアクナバト共和国」大統領に就任、12.14 和平案合意、革命指導部は「物取り主義」となり補償金を受け取って香港へ出国。

●1898.2.15 メイン号事件。米国でセオドア・ローズベルトが海洋次官となりマニラ占領を進言。米国戦艦ペトレルのウッド艦長がアギナルドと会見。1898.5.1 米がマニラ湾のスペイン艦船を攻撃。米はアギナルドに協力を持ちかけるが、独立を文書で約束する事には応ぜず。米はスペイン側総督と秘密交渉し。見せ掛けの戦闘の後、スペインが降伏することで合意。6.12 アギナルドがフィリピン独立宣言。8.13 スペイン軍降伏。8.14 米が軍政を敷く。9.15 アギナルドが最初の議会を開く。12.10 米西講和条約調印、フィリピンを2000万ドルで米国に売る。1899.2.4 米比武力衝突。フィリピン軍は山岳地帯へ撤退。

●1998.12.21「友愛的同化」(Benevolent Assimilation)宣言。米は自国民に対しても情報管制。1900.12.23「連邦党」結成、各地で親米大会を開く。1901.3.23 アギナルドが捕虜となる。
●英語教育によりアメリカ化を促進。スペインが教会を通じて行った事をアメリカは学校を通じて行う。1901.9.28 ゲリラの奇襲による報復として「捕虜は要らない。殺し尽くし、焼き尽くせ。10歳以上の男は全て殺せ」という軍命令が出る。地方での抵抗が続く。

●1907.7.30 初の下院選挙。有権者は高額納税者で人口の2%以下。独立を掲げる国民党が80議席中59議席を占める。フィリピンからの輸入で米国内の砂糖・タバコ産業が圧迫され、低賃金労働者の流入のおそれなどから、米国側にもフィリピン分離論が出る。1934.5.1 タイディングズ・マクダフィー法案成立。フィリピン独立が1946.7.4に決まる。
●1920年代になると英語がスペイン語に代わり演説・裁判・官公庁で使われる。

●地主がマニラに定住し、農園を管理人に任せ、換金作物(砂糖・タバコ)に変わってきたため、昔の地主と小作人の「暖かい」相互扶助がなくなり、紛争が頻発するようになる。1929 社会党創設。1930 共産党創設。1933 ベニグノ・ラモスがサクダル党創設、来日し頭山満らに会う。1935.5 サクダル蜂起。
●1935 コミンテルン第7回大会にフィリピン代表も参加、米共産党と関係強化(植民地の共産党は宗主国共産党の指導下になることになっていた)。反共から容共へ反ファシズム統一戦線。米共産党のアレンは、独立のためにフィリピンが米国に付き、米国が日本に対抗する強国であることを認めるべきだと主張。革新勢力を対日戦に利用しようとするケソンと米国の目論見が成功。

●1942.1.2 日本軍がマニラ占領。日本軍の先頭に少数のフィリピン人集団(ラモスのガナップ党?)がいた。
●5.7 コレヒドール島陥落。バタアン半島「死の行進」。捕虜は米軍だけで1万人、フィリピン兵を合わせ8万人、一般人数万人。食糧がなく全員マラリアにかかっていた。60kmを徒歩で移動する間に多くの死者が出る。
●自治領政府要人のペニャフランシア・グループ、対日協力の理由…1.独立を認める。2.親日派のラモスやリカルテ将軍が権力の座に着くのを阻止し、日本の軍政からフィリピンを護る盾になる。
●1943.10.14 フィリピン独立、ラウレル大統領。米国に宣戦布告することは拒否。11.5 大東亜会議に参加。1944.9.23 ラウレルは米国と「戦争状態の存在」を認める。ガナップ隊、マカピリ隊が日本軍の米比軍ゲリラ掃討作戦に協力。

●42.3.29 共産党が抗日人民軍(フクバラハップ団)発足。村落統一防衛隊(BUDC)。住民投票で評議員選出。地主は暗殺されたり逃亡。フク団への食糧や新兵徴募。
●米軍もフィリピン人ゲリラを組織するため特殊工作員を地方に送り込む。しかし、ゲリラは夜盗集団化したり、他ゲリラと共同せずに自分の支配地拡大のため国民の団結を破壊。米軍はゲリラが強くなり過ぎるのを望まず、ゲリラに待機命令を出し、フィリピン自ら解放する機会を見逃した。

●米軍や米軍と協力したゲリラがフク団と対立し、武装解除させられたり虐殺事件が起こる。米軍到着前にフク団が知事に選ばれている地方もあった。1946.4 大統領選でロハス(日本占領下の食糧営団総裁)が当選。1946.7.4 独立。1949.11 大統領選、フク団はキリノに対抗するためにラウレルを支持するがキリノが当選。

●ニノイ・アキノ…1932年生まれ。父は日本占領下の国民議会議長。新聞記者として朝鮮戦争取材(17歳)。1954.10 コラソン・コファンコ(13歳から米国留学)と結婚。地方の町長、農場経営。
●ガルシア大統領は、米国一辺倒の反動で民族主義を強調するが、腐敗・汚職が広がる。1965 マルコスが大統領に当選。反対するものには誰でも共産主義者のレッテルを貼り弾圧。ベトナム戦争を利用して米国から金を引き出す。強権と腐敗。1972.9 戒厳令。
●1983.8.21 マニラ空港でアキノ暗殺→反マルコスの動き強まる。1986.2.7 繰上げ大統領選→2.22 軍改革派が決起→2.25 コラソン・アキノが大統領就任、マルコス夫妻はヘリコプターで脱出。

●現在、フィリピンの小学校では、国語・社会・図工・体育はフィリピン語、英語・算数・理科は英語で教えている。官公庁でも英語が使われている。フィリピンの政治・社会の混乱の原因は、国際理解・国際的に高い地位を占めたいと思う余り、英語使用の公式路線を捨てられない事と関係がある。学校で英語による教育についていけない生徒が続出し混乱している。
●民族主義者は、フィリピン史が米国史観に偏っている事に警告してきた。1995 マニラ解放50周年で定番の「日本軍によるマニラ住民10万人大虐殺」が登場したが、ラバ共産党元総書記は「マニラ解放は米軍によるマニラ再占領だった」と歴史観を180度転換。「10万人大虐殺も大半は米軍の艦砲射撃による」とした新聞もあった。

●フィリピン史は世界史的な視野で論じるべきだ。日本人がフィリピンについて発言する時は、戦争中の事で抑制が働く。研究者もフィリピン批判は全くしないか、しても活字化される事がない。もっとも問題なのは、スペイン、米国などの旧植民地勢力の史観。フィリピンでは、ボニファシオ、カティプナン、フク団などは十分評価されていない。リサールは米国の後押しで国民的尊敬を受けている。ラウレルは大統領としての尊厳が与えられず。少しでも反米や親日なら愛国主義者と認められない。「親フィリピン」を民族主義の基準にせず、「より安全」な西欧史観に逃げている。「フィリピン史観」の欠如はカトリックにもあり、司祭達はフィリピン語に弱く、フィリピン語で宗教を語れない。英語が国民の日常用語になった訳ではなく、お仕着せ言語に留まっている。英語教育はフィリピン人に劣等意識を植え付け、アメリカに憧れさせる「エサ」として提供されてきた。フィリピンが「抵抗の歴史」として捉え直される時、新しい民族の夜明けが訪れるだろう。

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フィリピンの歴史は、日本ではほとんど知られていないので、ほとんど知らない話ばかりだった。

他の東南アジア諸国とは違い、植民地になる前の歴史がほとんど分かっていないという事も、初めて知った。古代の遺跡や、仏像・神像・工芸品などの遺物もほとんどないようだ。

本書は、独立運動を中心に書かれていて、文化や社会などについてはあまり述べられていない。フィリピンの南はイスラム教だし、言語も地方によって様々なはずで、地方による歴史の違いもあるように思うが、分からない。

ウィキペディアでも、フィリピン関係の記事は、あまり充実しているとはいえないようだ。
ウィキペディア関連記事:ttp://ja.wikipedia.org/wiki/フィリピンの歴史、ttp://ja.wikipedia.org/wiki/フィリピン独立革命

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