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Someday Never Comes

郷愁のアブサン

 今回は簡潔なる短文にて失礼。

 本日酒屋でアブサンなる酒を買った。これはニガヨモギが原料のリキュールで、中毒性があるだの幻覚症状を引き起こすだの、要するにアル中量産型の酒であることから、原作国のフランスではもちろん、世界中で発売禁止となった酒である。
 それがいつの間にやら解禁されてたんである。で、呑んでみた。
 琥珀色に微量の緑を混ぜたようなその液体は(酒屋のオッサンのおすすめで、天然素材のみを使ったアブサンを買った)ハーブ系の香りが強く、口に含むなり全体的に…ヨモギ餅である。
 いや、まてよ、この感じは以前…そう、それもだいぶ昔に味わったことがあるぞ。どこか懐かしいあの場所は…。
 
――その場所は昔住んでた街の銭湯、その薬湯のニオイであった。なんだかリューマチに良さそうなんである。
 まぁ、うまいからいんだけど。

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「美食家」を嗤ふ

 このタイトルは、戦前・戦後期に活躍した“反骨の”ジャーナリスト、「桐生悠々」の『防空演習を嗤ふ』というコラムからとられた。このコラムは、当時信濃毎日新聞に所属していた彼が、連日の東京における『防空演習』を、「敵機が東京上空を飛び回り、爆撃をする状況は『敗北』を意味する。そうした『敗戦状況』を模した訓練など、笑止千万である」と評し、結局「けじめ」として新聞社を追われる身になってしまった記事である。
 つまり、当記事は「美食家」なぞと呼ばれる人々を「バカにする」意図をもって書かれたものである。しかし、この記事はまた、一種の「エクリチュール・オート」であるとも言える。これはシュール・レアリズムの手法の一つで、「文章を構成する」という主観を捨て、精神の根底である「自己の魂」によって選別された文字を羅列することを意味する。多くの場合その筆者はマリファナやハシッシ、若しくは睡眠薬やモルヒネと言った薬物で「ストーン」していることが多い。
 端的に言おう。つまるところ、この記事は酩酊状態で書かれた。よって、筆者の「瞬時の思い付き」によって、語句/文字が選択されている。だからして、クドすぎる説明や、重複した表現が多分に含まれるかもしれない。しかし、これは一種の実験である、と言うスタンスでこの文章を読み進めて頂きたい。


 さて、何故私は「美食家」共を嗤うのか。それは、彼らが「ただ一つの真実」に固執していることが第一に挙げられる。彼らは「万人に共通する究極至高の美食」を基準に食物を論じるのである。
 この時点でもう彼らの理論は破綻する。彼らの論を見よ。すべて主観を脱し切れてはいないではないか。基準を『万人』に於いているにもかかわらず、彼らの論理は一人の「他人」をも完全に納得させるに至らないのである。「美食家」と呼ばれる者どもの書を見よ。これらを読んで「私はかくも美食と相反する食生活を送っていたのか」「真の美食とはかくあるべきか」などと納得してしまうのは愚の骨頂である。その納得は己の信念の屈折に過ぎないのである。
 考えてみてほしい。「食」を論じるのに「器」のこだわりを持ち出すのは何たる事か。「箸遣い」がどう影響するのか。ましてや食にに対する「精神状態」のあり方まで論じられる筋合いはないのである。
 実際、全盛期最大の美食家とされた北大路魯山人は「生のタニシ」を食って死んだ。「タニシはこうして喰うのが本当なんだ」と言って食って死んだのだ。これこそ笑止千万と言わずしてなんと呼ぼう。『食』は飽くまで「生きる為」の手段であるべきだ。そこに『食』の本質を見出すべきである。それだのに、『真の食』を求めるあまりに絶命してしまっては本末転倒の至りである。
 反論もあろう。曰く「生存の手段である摂食行為が、『生存』という最低限度の条件を満たした時、更なる高みにステップアップするのだ」と言う。しかしこれは、記号学的に『シミュラークル』と呼ばれるべき観念であり、『食』とイコールで結びつかざるべきものである。「シミュラークル」とはつまり、「表象なき記号」であり、この場合、『美食』と言う記号が何の具体的な『表象』を持たないことを意味する。「美食とは『A』である」という『A』を我々は持たないのである。
 『美食』に「ありがたみ」を求めるのであれば、その人の諸条件に於いて変化すべきものであり、例えば『二日酔いの朝のアツアツの味噌汁』や、『空腹時の焼きおにぎり』がそれに相当しよう。また、「味覚」を求めるのであれば、それは各人の「経験的嗜好」に根付くものであるから、それに「ただ一つの回答」を求るのはナンセンス極まりない。

 さて、今私は「最高の美食」を経験した所だ。それは『酩酊状態のカップラーメン』である。意外なワードの出現に戸惑いを覚える読者諸君の居よう。やはりこれでは説明不足なのでここでそれが『最高の美食』たり得る背景を説明しよう。
 現在私は、一つのトラブルを抱えている。これが私の最大のストレッサーであり、さらにこれが「家の事情」であるから逃れようがない。畢竟私はアルコールという逃げ道を作った。これが自己嫌悪と言う「鬱」の原因となる事は判っていたが、しかし潜水中に息継ぎを求めるように、私は疑似的にも「解放」を求めていた。
 アルコールを単なる「怒りのはけ口」とする事は憎むべき事としていた。そもそも「酔って忘れてしまいたい」という感情は悪魔的であり、非生産的且つ反倫理的であると考えていた。自己の行動を抑制できないような「へべれけ」に酔った者は無条件に軽蔑の対象となっていたのだ。
 それではなぜ私はこのように酩酊しているのか。それは、素面では味わえない最高の「美味」を求める為である。つまりこういう事だ。私の中では「酒を楽しむと酔う、酔うと麺類が喰いたくなる」と言うパターンがほぼ出来上がっている。〆のラーメンが「渇望される物」という位置づけとなるのだ。であるならば、「酒を楽しむ」と言うプロセスを省略し、手っ取り早く酔う事で、麺類が最高の『美食』となるのではないかと考えたのだ。

 私は酔うために飲んだ。何度も言うが、これは自己の信念に反する「軽蔑すべき」行為である。ドン・キホーテで嫌いな酎ハイが安く売っていた。アルコール度数は9%で、500mlだ。つまり、ビールの約2倍と考えられる。これを一気飲みした。しかし、哀しいかな、私は周りの言う『酒豪』であった。
 自分ではそんな意識はない。飲めば酔う。酔えば多少の後先は考えなくなる。記憶も飛ぶ。しかし、周りの者は私のとる「トンだ行動」が「理にかなっている」物であるというのである。例えばとある飲み会でいい気分になった際、私は掌に「クツズミ」とボールペンでメモ書きした。それを見た友人は当然不審に思ったのか、私にその理由を尋ねた。そこで私は次のように説明した。
 私は酔うと、歩行時につま先がどうしても下を向いてしまう。これは少年野球をやっていた時分に両足とも捻挫を経験し、靭帯が伸びきってしまっているからだ。然るに呑んだ明くる日に靴を見るとつま先に傷がついていることが多い。その為、帰りに忘れずにコンビニでクツズミを買わなければならない。だから掌に「クツズミ」と書いたのだ。
 この説明に彼は妙に納得してしまったのだ。
 さて、全く酔いが回らなかった私はどうしたか。カップラーメンを買おうとは言ったコンビニで、麦焼酎を買い、それを一気飲みしたのだ。これによって私は完全に「酔い心地」となり、さらにラーメンの『待ち時間』である5分がいい具合に酔いを醒まし、たかが200円のラーメンを「至上」のものとしたのである。

 『美食』とは、ただ単に食す、と言う行為から、それを崇高な行為に昇華する合言葉である。つまり、マズローの言う動物的な「一次欲求」としての摂食行動から、その摂食行動が周囲からの尊重を集めようとする「三次欲求」へと無理やりに引きずり上げようとしている。しかしこれは、「話者の主観」であり「自己満足」の域を出ない。欲求は欲求のままに満たされることはないのである。一方的な主張とも言おうか。
 それよりも『美食』とは、やはり「同じ条件下ならだれもが望むもの」であるほうがよく、つまりは『酩酊状態の麺類』であり、先述の『二日酔いのアツアツの味噌汁』であるべきだと思う。

 以上が「酩酊の記」である。

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誰かの靴が脱げるとき

 私は清掃のバイトの帰路についていた。時刻は0時30分前。自宅にたどり着くためには坂を上らなければならないが、私はいつも、崖状の斜面を利用して作られた公園の階段を利用して近道する事にしている。ここ2年ほどのお決まりのルートだ。
 事件はその階段を上っている時に起きた。かねてからその緩さが気になっていた私の左足の靴が、ある段を上ったとたんに脱げたのだ。私は右足で踏ん張りを効かせて転倒を免れたが、踏み込んだ右足が小さな甲虫を踏みつけたことに気付いた。私の靴が脱げたがためにこの小さな虫は、生命を奪われたのである。
 この日私は、帰宅が40分ほど遅れていた。その原因は、車の運転席の綻びを補修するための合成皮革製パッチワークを探していた事にある。仕事を終えたのが23時。仕事場から直近のドン・キホーテを物色したが、目当ての品が見つからずに電車に乗り込む。そして自宅最寄り駅から数分のドン・キホーテに向かった。ここにはパッチワークこそ売っていたが、Amazonでみた同様の商品よりもかなり高かった。そのため購入を断念し、帰路についたのだ。それが為に私はその時間に公園を歩いていたのだ。
 この虫の命を奪った原因はここにあるのか? いや、これだけとは言い切れない。私がこの時間に公園を歩いていたとて、靴が脱げさえしなければ虫はまだ生きて、明日の日受けていられたのだ。靴が脱げた原因を探るには時間を数週間巻き戻す必要がある。
 その日、晴天を理由に私は靴を磨いていた。紐をほどき、クリームで手を入れ、そして紐を通して結びなおした。その際――くだらない事だが――思いのほかに結び目がきれいに決まったのだ。その絶妙たる結び目のバランスを崩すまいとし、多少緩かったにもかかわらず、その後の手入れの際にもほどかずに、その靴を履き続けていたのだ。
 虫の命を奪った大きな原因はこの二つにある。しかし、ここに至るまでにもさまざまな運命の分岐点があった。前日にAmazonを見ていなかったら商品の相場も知らずにそのまま購入していただろう。そしてその場合にはレジに並んで金を払うだけの時間が加算されるわけだ。私がもっと疲れていれば、そもそも仕事帰りに寄り道をしようなどと言う考えが浮かばずに真っ直ぐ電車に乗り込んだ筈だ。

 バタフライ効果と言う言葉がある。ブラジルの蝶のはばたきがテキサスの竜巻を巻き起こす――そんな連鎖の可能性を指した言葉である。今回のこの事例はまさにこの効果ではないか。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」には、過去に戻ったマーティに対して、ドクが次のような台詞を言う。
 ――君が入ったという映画館が将来経営難に陥り、倒産するとしよう。しかし、君が払ったその金のおかげで、映画館が1日だけ生きながらえるかもしれない。そして、延長されたその日に映画館が火事を起こすかもしれない。火事の犠牲者の中に将来合衆国大統領となる筈の青年が含まれていたとしたら? 君は知らず知らずのうちに世界をひっくり返すことになる。

 私は運命の歯車を一つ狂わせたのかもしれない。この虫が死んだことで起こりうる事象であるが、例えばこういう連鎖が想定できよう。
 虫の死骸を蟻が見つける。蟻はその死骸のために肥ゆる。この死骸があったが為に(無かった場合よりも)増殖した蟻を公園管理事務所の者が発見する。これを受けて彼は害虫駆除を思いつく。あくる日殺虫剤を散布中に死者が出る。原因は殺虫剤に含まれる何らかの成分である。同様のケースが数件報告された中で、この一軒が弾き金となり殺虫剤の製造元が糾弾される。すると製造会社は深刻なダメージを受け、大幅な人員削減を余儀なくされる。馘首された人々は路頭に迷い、家族を養えなくなる...。
 一つの虫の死骸であっても斯様な連鎖を引き起こす可能性を秘めているのだ。また、現にこの虫の死骸が私のこの文章を生み、これを読む誰かの時間を奪った。これを読んだがために信号に間に合わないかもしれないし、赤信号を突破しようという衝動を生むかもしれない。これを書いた当の私自身、これが原因で寝不足となり、それが死を招くかもしれない。
 
 こうしてみると、今まで生きてきたことが、総て偶然の積み重なりであることがよく判る。誰かの靴が脱げた(若しくは脱げなかった)ことで、私は死んでいたかもしれない。Simple Twist Of Fate――運命のひとひねり、である。すべての未来に確実なものはない。あなたのくしゃみが誰かを殺し、誰かのあくびがあなたを生かしているのかもしれない。しかし、確かに今、私の靴が脱げたことで、一つの命が失われたのである。

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衣替え

 ぬわははは、五月病に梅雨入りに、気が滅入っちゃうような季節ですが、我がブログを底抜けに明るいデザインに変えてみました。んもう目がチカチカしちゃうこと間違いナシ。
 背景、トップ画像及びプロフィール画像は、我が愛車ハイマー君こと昭和44年式スバルR-2 K12 A型前期(バカみたいに詳しく書きやがんの)を、マイクロソフト・ペイントとフリーの画像加工サイトを駆使してアンディ・ウォーホル風にしたものを使用。トップ画像とブログバナーに使用しているロゴは、『マイアミ・バイス』をイメージ。このクソ暑苦しいパステルな配色もそのためです。
 背景画像やロゴはかなり気に入ってたりします。かなり気合入れて作りましたから。テールライトの赤がアクセントになってかなり目立つでしょう。うーむ、我ながらカッチョいい。
 と言う事で、雰囲気がポップになりました。

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I Shall Be Released

 この前、「The Last Waltz」のDVDを見た。 ニール・ヤングがやたらとハイなのが可笑しかった。 で、トリのシーンで、共演者全員が舞台上で、「I Shall Be Released」を歌う場面があるのだが、この歌詞がかなり暗示的であった。 希望的な『光』を歌っているようであり、しかしその光は『悲願』でもある…といったような二面性。
 作詞者であるディランが何を言いたかったのかは彼自身にしか判らないものである。或いは人とのつながりを歌っているのかもしれない。或いは囚人が自由について歌ってるのかもしれない。しかし、ネット上の対訳をみると、私の納得のいくようなものが無かった。なので、自己流の訳詩を載せてみる。場面としては、刑務所の中を想像してもらいたい。


They say ev'rything can be replaced
万物は流転するという
Yet ev'ry distance is not near
たとえどんなに離れているとしても
So I remember ev'ry face
俺はすべての顔を覚えている
Of ev'ry man who put me here
俺をここにぶち込んだ全員の

I see my light come shining
俺にとっての『光』が輝いている
From the west down to the east
西から東へと
Any day now, any day now
いつの日にか、いつの日にか
I shall be released
俺は解放されるだろう

They say ev'ry man needs protection
人はすべて保護されるべきだという
They say ev'ry man must fall
人はすべて傷つき倒れてしまうから
Yet I swear I see my reflection
今でも俺は俺の影に誓うんだ
Some place so high above this wall
この壁の上方に映っている影に

I see my light come shining
俺にとっての『光』が輝いている
From the west down to the east
西から東へと
Any day now, any day now
いつの日にか、いつの日にか
I shall be released
俺は解放されるだろう

Standing next to me in this lonely crowd
哀しき群衆の中で俺の隣にいる奴は
Is a man who swears he's not to blame
自分は冤罪だと懇願している
All day long I hear him shout so loud
いつでも奴が大声で叫んでるのが聞こえるよ
Crying out that he was framed
濡れ衣を着せられたんだ、ってな

I see my light come shining
俺にとっての『光』が輝いている
From the west down to the east
西から東へと
Any day now, any day now
いつの日にか、いつの日にか
I shall be released
俺は解放されるだろう


 さて、これだけだといまいちよく判らないので、解説を入れていく。
 まず、サビにある「俺にとっての『光』」とは何ぞや、という話である。単に日光を指すのであれば、『I See The Light』でいいはずだが、ここで敢えて『My Light』と所有格を使っている。その理由は簡単だ。ステレオタイプな牢屋を想像してほしい。四面とも灰色の壁に囲まれており、唯一さす光は、壁の上方に小さく開いた鉄格子付の窓。この歌の主人公が『光』を感じるのは、この窓からの日光が暗い壁面に映す明かりだけである。そして、この『光』は、太陽の光の反射であるから、影や木洩れ日と同様に『西から東へ』と移動する。
 では『壁の上方に映っている影』とは何であろうか。これは単純に心情の心情の具現化ではないか。『光』は下側に指す。すると必然的に上方は『影』となる。主人公は、この影に『自分』を見出したのではなかろうか。若しくは、床に寝そべり、夢うつつの中でみた自分の過去を指しているのではないか。
 また、『哀しき群衆』であるが、これは『孤独なる群衆』とも訳せる。刑務所の暗黙のルールの一つに「自分から話し始めない限り、他の受刑者が囚われた原因を聞いてはならない」というモノがある。逆説的に言うと、刑務所の連中は、初対面の状態では互いに心を許さぬ、「完全な他者」である。そこにいくら大人数が居ようとも、一人一人は何の繋がりも持とうとはしない。

 では、これは単純に受刑者(それも冤罪による)が刑務所での悲しき日々を歌っているだけなのであろうか。いや、それだけではないように思える。これは「アメリカ人」にありがちな、夢と現実の狭間にあるジレンマを歌っているのではないか。
 「アメリカン・ドリーム」に代表されるような幸せな暮らしを求め、働き、家族を持つ。しかし、ホームドラマの中にあるような「劇的な幸せ」などどこにもある筈がなく、ただ体力だけが衰えていく。「こんなのは本当じゃない、どうにかしてこの状況から逃げ出せないか」という悲痛な叫びを、牢獄の人間に例えて歌っているのではないか。
 そう考えると、「哀しき(孤独なる)群衆」も違った意味を帯びてくる。例えばスクランブル交差点を渡るとき、何人の人とすれ違うだろうか。その一人一人と挨拶を交わすことはまずない。誰もが各々の目的のために無言で歩くだけである。彼らには彼らの求める幸福があって、そのギャップに皆悩んでいる。心の中では「こんな筈じゃないんだ」と叫んでいる。
 だからこそ、『解放される日』だけを頼りに人々は生きていくのである。
 その『解放の形』は…それは人それぞれであるが。

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