民主主義とは何なのか
|
「民主主義とは何なのか」長谷川三千子。 我々は、民主主義というものを、まったく疑う余地のない公理として受け入れている。悪人がなぜ悪人と呼ばれるのかは(悪人が政治家であれ悪徳業者であれ)つまるところ、彼が「民主主義」に背いているからである。 また、かくかくすべき、という政治的主張をする場合に「それが民主主義だから」そうすべきなのだ、と言う。まったく疑う余地のない一種の公理系である。 しかし、長谷川氏は、この「民主主義」に、正面きって疑問をぶつけるのだ。「そんなにいいもんですか、民主主義?」 その疑問を探求するために、長谷川氏は民主主義発祥の地、ギリシャのポリスにまで遡る。そこで見出した民主主義とは何だったか? それは、いわゆる寡頭政治をさけるために、次々と有力者を追放し、そのことによって次の有力者が民衆の支持を得るという、まさに「民衆による僭主政治」であった。 人は、これをデマゴーグと呼ぶ。しかし、かのプラトンが喝破したように、民主主義とデマゴーグは区別不能であり(もしくは結果論であり)デマゴーグは僭主を生み出す。僭主は、次のデマゴーグによって倒される。この、常に権力者が倒されなければならないという「不和と敵対のイデオロギー」こそが、民主主義なのではないか?という考察にいたる。 プラトンは、この血なまぐさい動態を終わらせるべき「哲人政治」を夢想したが、もちろんそれは夢想に終わった。 そして、我々の政治形態の直接の祖であるフランス革命、あるいアメリカ独立はどうか? ここに、まったくギリシャ時代と同じ、民衆の熱狂と虐殺をみてとることができる。ただ、その熱狂と虐殺の根拠が、王権でなくて「民衆の支持」に変わっただけなのだ。 近代民主主義思想の祖を振り返るとき、おそらく、ルソー、あるいはジョン・ロックという思想家にたどり着くわけだが、ここで長谷川氏はある告発を行う。すなわち「ロックこそ、ペテン師だ」というのである。 それは、ホッブスとの対比によって、より鮮明になる。 ホッブスは、人は誰でも「自然権」を持っているとした。しかし、その状態のままでは、人はお互いに闘争するしかない(万人の万人に対する闘争)。このような状態のままでは、弱肉強食にいたるだろうか? ホッブスは、そういわない。いかなる強者でも、眠るし、風呂に入るときは裸になり、便所では尻を出す。つまり、いかなる強者といえども、決して安寧ではなく、弱者であっても一瞬の隙さえあれば強者を殺し得る。この世界では、いかなる強者であっても、安心することは許されないのだ。 そこで、なんとか彼らが生き延びんと欲するなら、互いが持っている「自然権」を放棄して、徒党を組み、互いの安全を確保しなければならない。これが法である。法を支える民主主義は、すなわち、互いの安全保障の必要から、お互いの持つ権利を放棄しあった互譲から生じているとする。 ロックは、これに対して、人間はそもそも自然状態ですでに平和なのだと言う。各人は、その平和のもとで、互いに自然権(生存権、所有権)を持ち合っている。ただ、ふとしたことから、この状態が壊れないように、権利を一部、権力者に預けてあるだけなのだ。 よって、権力者が何か彼らに不都合を行ったときは、いつでも預けてある自然権を取り返して、権力者を打倒してよい。(革命権) ロックの革命論は、そもそも名誉革命を弁護するための論法である。血なまぐさい革命を正当化するための論理がそこに透けて見えないか。 ホッブスの民主主義論では、民衆は自然状態に戻ってはいけない。そのためには、自制と理性が要求される。 ロックの革命論によれば、自然状態は当然いつでも取り返してよいものであり、自然状態を曲げている悪役は権力者にほかならないことになる。 長谷川氏は言う。「それならば、そもそも自然状態を放棄する必要はないはずではないか」 そして、終章にいたって、長谷川氏はついにこう述べる。 実はまさに、「思考停止」ということこそ、民主主義が自らの最上の武器、最上の従者として従えてきたものなのである。 このような「民主主義」の対極に、描いてみせたのは聖徳太子の「17条憲法」の世界であった。 第17条は、こうである。 「夫事不可獨斷 必與衆宜論 少事是輕 不可必衆 唯逮論大事 若疑有失 故與衆相辨 辭則得理」 (物事を決めるときには、独断によらず、必ず皆と相談しよう。小事は決断の価値も軽く、これは相談しなくてもよい。しかし大事を決めるときには、あやまりがないかどうか、常に己を疑ってかからねばならぬ。だから、そのときには皆と相談し、お互いの言い分を理解し、誠心誠意考えていけば、おのずともっともよい解決が見えてくるものだ---single4超訳) 一方で我々のもっている理性と、民主主義の有様はどうであるか。 本書に言う。 「反対者を説得するためにのみ、自らの理性を使い、言葉を使う。それが「議論」というものなのだ、と民主主義者は思っている。 けれども、このような「討論と説得」などというものは、議論のもっとも堕落した形のひとつにすぎないのである」 考えさせられるところが多く、深く感銘を受けた。 ☆☆☆である。 余談であるが。 最近、ブッシュ大統領に靴を投げたイラク人記者が話題になっている。彼こそ英雄だというわけだ。 しかし、つい数年前に、フセインの銅像が倒されたときに、その銅像は靴でたたかれていたではないか。 ならば、なぜフセインに靴を投げる記者はいなかったのかね?ブッシュよりもマシだからか。そうではあるまい。 あるいは、独裁者がいなくなり、皆が自由になって、イラクはすばらしくなったか?実際には、より血なまぐさくなっただけでないのか。 そうして、「当然の権利」をふるう人たちが(テロリストが)いることで、イラクはよい国になったのだろうか。 私は、ぜんぜんそうは思わない。今、イラクに必要なのは、民主主義の言い方をするならば、皆がもっている「当然の権利」を捨てて、どうすれば国が立ち直るのか、宗派を超え民族を超えて虚心坦懐に話し合うことのように思われる。 そういう立場で考えると、実は、そのような「当然の権利を行使する人々」(=テロリスト)を擁護する「知識人」を、私はまったく信用しない。彼らが、血なまぐさい行為を正義と呼ぶのである。 私は無力な民衆の一人である。私は、自分の権利を放棄してもよい。その代わり、わずかな幸福が欲しいだけなのだ。
|
トラックバック(10)
トラックバックされた記事
民主主義とはなんじゃらほい(上)
<font size=3> 民主主義とは何か。民主主義と多数決はどう違うのか。本稿は、「デモクラシーとは何か」という問いを立て、漸次、民主主義の概念、民主主義の意味の歴史的変遷、そして、民主主義の効力の限界について検討したもの。而して、本稿はその全体を通して、戦後民
2008/12/19(金) 午後 5:32 [ 松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG ]
民主主義とはなんじゃらほい(中)
<font size=3> <b>■民主主義の意味の変遷</b> デモクラシーを考える上では幾つかのキーワードがあります。例えば、「平等」、「参加」、「寛容」そして「自由」。私は民主主義を巡る議論の際にはどの抽象度でそれを考えているのかを意識しなければ、その議論は
2008/12/19(金) 午後 5:33 [ 松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG ]
民主主義とはなんじゃらほい(下)
<font size=3> <b>■民主主義の効力の制度内在的限界</b> 前章まで述べてきたことを敷衍しつつ民主主義の効力の制度的限界について考えてみたいと思います。畢竟、「民主主義」は、社会思想においては次の3項目の主張のパッケージである。 <font color=red&g
2008/12/19(金) 午後 5:33 [ 松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG ]
人権と民主主義は国境を越えるか(上)
<font size=3> <b>0:国境を越える人権と民主主義</b> 人権と民主主義は国境を越えて遍く世界に広まる。このような認識がいまだに日本では熱く語られている。もちろん、「人権と民主主義が国境を越えて世界中に広がってきた」という主張であれば、私もそれはマクロ的に
2008/12/19(金) 午後 5:33 [ 松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG ]
人権と民主主義は国境を越えるか(下)
<font size=3> <b>4:大衆・情報化社会が及ぼす人権と民主主義の変容</b> 理性的討論で優劣をつけようもない信仰の営みに容喙する教会組織の聳立、自由な経済活動の桎梏と化したギルド的組織の攅立等々の「中間団体」の跋扈、加えて、新たな国際政治状況に拮抗する
2008/12/19(金) 午後 5:34 [ 松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG ]
戦後民主主義的国家論の打破☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(上)
<font size=3>数日前の朝日新聞に国家論を巡る記事が掲載されていた。憲法研究者・樋口陽一さんと、政治思想史研究者・山室信一さんの対談、<font color=red>「国家とは何か 教育基本法・憲法改正論議の前に」</font>(平成18年6月6日)である。私はこの対談記事を読ん
2008/12/19(金) 午後 5:35 [ 松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG ]
戦後民主主義的国家論の打破☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(中)
<font size=3>◆国民国家は近代憲法の取りうる唯一の国家観か? <承前> 樋口陽一さんが援用されるフランス製の国民国家論も、オルターナティブ(=別の選択肢)として私が想定している、民族の伝統や歴史から説明され民族や民族の伝統や文化を守護することで正当化される国家のイメ
2008/12/19(金) 午後 5:35 [ 松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG ]
戦後民主主義的国家論の打破☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(下)
<font size=3>◆憲法は国家に論理的に先行するか? <承前> 民族も国民も国家もフィクションである。それは我が神州においては、歴史と文化と伝統を基底にした<font color=red><皇孫統べる豊葦原瑞穂之國></font>という国家の成立と来歴の物語を中核として、そ
2008/12/19(金) 午後 5:36 [ 松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG ]
本の旧約聖書
バベルの謎 ウイングの広い読書に心がけてはいるが、そこには自ずと限界がある。論考であっても、埋めようもない隔たりが横たわるものがある。 山本七平はほとんどの著作で学ばせてもらった。日本人、その文化の特殊論に重きをおく弊はあっても、学者臭のないアイデンテ...
2009/1/24(土) 午前 6:13 [ つき指の読書日記 ]
「民主主義」の「民主」って何? 明治維新以来の改革
「民主主義」という言葉は、現代日本人にとって、 宝物 のように思っている言葉である。 丁度戦前の日本人が、「天皇」という言葉を、 宝物 のように思っていたのと同じように。 果たして、それでいいのであろうか。 明治維新以来の改革と自称されている、今回の政権交代に伴う様々な制度変更は、 150年に一度の手術の割には、どうも'''素人手術'''のように危なっかしい。 これは、''...
2009/12/19(土) 午後 11:13 [ オノコロ こころ定めて ]
トラックバック先の記事
- トラックバック先の記事がありません。






ノックノック。民主主義とはこれ(↓)ですよぉー♬
2008/12/19(金) 午後 5:38
“自由”とか“平和”とかもしかりですが、大体において過度に多用される言葉はその本来の意味を失っていくものです。そしてこの類の言葉は美辞麗句と相場が決まっているので、持ちだされると、何となく納得してしまう魔力があるのですね。世界にはベストな制度としての民主主義を保持しうる国家はないでしょう。国民一人一人が成熟するということはあり得ませんから、べストではないがベターな制度という位置づけでしょうか。そして、人は得たものよりも失ったものの方をより強く記憶に刻印する。フセインに靴を投げつければ殺されるが、ブッシュになら殺されることはない、ということだけが原因ではないように思われます。
2008/12/19(金) 午後 6:08
KABUさんの議論は、戦後民主主義批判として至極まっとうです(笑)おそらく、そして憲法=国家という嘘っぱちな民主主義論者も粉砕している。少なくとも、各人がその制定に関与しなかった憲法を尊重しなければいけない理由はありませんからね。
ところが、長谷川氏の論考は、戦後民主主義批判のみならず、民主主義そのものへの批判となっています。踏み込めば、氏の議論は現在の諸問題に対して保守主義が有効であるという現実論を飛び越えて、我々が考える「政治」に対する存在そのものへの異議申し立てとなっています。それでも政治が必要であるとすれば、それはそのような役割を負うべき人々を不可避に決めるシステム、すなわち「封建制」への支持につながる(!)ルールを決めるメタルールそのものがあるとすれば、それはメタルールそのものの存在への疑念だけであるという立場に飛躍しそうです。法学しては掟破り(つまり、法学という学問そのものへの異議申し立て)であるけれど、哲学としては面白すぎる、そこまで読むと読みすぎでしょうかね(苦笑)
2008/12/19(金) 午後 10:53
惻隠の情さん、民主主義が「それを除けば最悪のシステム」だ、というのはよく言われるところです。しかし、よりベターであれば、それしかないではないか、ということですね。
ところが、本書における長谷川氏の議論は、民主主義をベターとは認めないのです。もっとよい仕組みはあるのだ、と氏は言います。民主主義のように「よりベター」を追求する動きを肯定すること自体が、実は政治的闘争への支持そのものに他ならない、それは終わることのない争いを継続するだけである、その証拠に、我々は民主主義のおかげで「よりベター」な結果のはずの現在に対して不信と文句を並べて、「より良いもの」をよこせ、といつまでも叫び続けて終わりがないのです。このような民主主義システムそのものに疑いの目を向けるのは、無理からぬ話だろうと私は思うんですなあ。
2008/12/19(金) 午後 11:02
何なのか?、、、というよりも、民主主義に限らず、満足できるような政治制度は無いというだけの、単純な話に見えますが?
2008/12/21(日) 午前 1:43
こかげさん、それを言うならば、正確には「万人に満足できる単一の」政治制度はない、というべきしょう。ある特定の政治制度を支持する人はたくさんいるので(苦笑)
2008/12/21(日) 午後 11:00
遥か昔から、『 身分・家柄などに関係なくすぐれた人物を登用せよ 』 という類の格言はたくさんありますから、そういう意味では、それぞれの時代なりの民主主義というものはあったのだと思います。
新聞、ラジオ、テレビの時代の民主主義と、インターネットの時代の民主主義というのも、文明の利器の進歩に従って、少しづつかわってゆくのだと思いますね。
2008/12/24(水) 午前 11:05
「テロリスト」とまで言わぬとも・・今の世の中、当然の権利として行使する人々がワンサカといる。その中には「モンスタークレーマー」と言われる人たちも多く存在する。
時に彼らは、政治に対しても同様な行動を取る。行き過ぎた個人主義は民主主義を破壊したり歪めたりするようにも感じられる。。。(v_v)
2008/12/24(水) 午後 1:42 [ グリフィン通り。 ]