40過ぎて独身で(断じて言い訳ではない)

ある中年独身男のひとりごと。屁理屈を愛してます。

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月ノ浦惣庄公事置書

「月ノ浦惣庄公事置書」岩井三四二。

松本清張賞を受賞した歴史文学である。
あとがきに「法廷ミステリ」との表現もあったが、本書は法廷ミステリではない。
きわめて良質な歴史小説である。

舞台は室町時代である。
土倉(金融屋)の手代、源左衛門は借金のカタに近江高浦の代官の地位を手に入れ、手下をつれて赴任してくる。
たちまち強権をもって高浦を支配し、さらに、隣の月ノ浦に触手を伸ばすのである。
その方法は、村人をけしかけて、入会地の山から月ノ浦の人間を追い出し、領主に月ノ浦の人間が訴えでた時に、同時に訴えを起こすというものだった。
その訴えの内容は、そもそも月ノ浦の隠田がある地域を「もともと高浦地区のもの」と強弁し、ただ永小作を認めているとして、その小作料をとる、というものだった。
そもそも入会権を訴え出た月ノ浦地区の者たちは、公事(訴訟)の内容が入会権でなく、隠田のある地区の所有権をめぐってのものになっていると知って驚く。
しかし、その地区については、律令時代から争われていたもので、月ノ浦地区に有利な裁定が下っている。
村人たちは、その支え書(証拠書類)をもって領主の前で訴える。
領主も納得し、当然、月ノ浦地区に有利な裁定がでるかと思われたが、なんと判決はひっくり返る。
源左衛門が手を回し、領主の支援者に圧力をかけたのである。
月ノ浦としては、税を納めなくてもよい隠田が生命線であった。ここで、代官によって税、さらに小作料をとられては、村人の生活が立ち行かなくなる。
困った村人は、ある手を思いつく。20石の領主におさめる税以外に、5石を毎年、寺に納めていたからである。
そこで、この隠田地区は、そもそも領主の領地でなく、寺にも権利のある三方地である、と主張することにした。
そうすれば、代官が自由に課税できないからであり、事実上、今までどおりの権利が保全できる。
しかし寺は、領主と争いになるので、この訴訟に乗ってくれない。
村人は、苦心惨憺、ついに寺僧を動かし、これを寺社奉行にあげることに成功する。
ようやく光が見えたと思われた公事であったが、なんと源左衛門は暴力で月ノ浦の者たちに襲い掛かる。
公事中に、争闘がおきれば公事は中止になる、というルールがあるからだ。
月ノ浦の者たちは、理不尽な暴力に耐えながら、沙汰を待つよりほかにない。
ところが、さらに寺社奉行が何者かに襲撃され、さらに沙汰が伸びるという事件がおこる。
あまりのことに月ノ浦の者たちは呆然とするが、一方、高浦の百姓たちも、あまりの代官の横暴に耐えかねて、ひそかに蹶起への助力を願い出てきた。
争闘中の相手からの依頼に、月ノ浦は迷うが。。。

じつに面白い。
作者は、小説賞四冠王の異名があるそうであるが、たしかにうなずかざるを得ない。
このストーリーは、実際に近江菅浦にあった記録を下敷きにしているそうで、室町時代の惣という村社会のありさまが実に生き生きと描写されている。
たしかな筆力である。

評価は☆。
歴史好きなら、読んで損なし。

昔から、境界争い、あるいは水争いというのは、どこにでもある話であるが、それだけ根も深い。
境界にせよ水利権にせよ、それは生活と直結しているからである。
なので「平和に話し合いで解決しましょう」などという話は、なかなか通じにくい。
判決を守らせるのは、何を隠そう、国家の強制力、つまり権力によるわけである。
しからば、生活を守るためには、権力を味方につけねばならない。そのために、金も使う、情熱もそそぐ、付き合いもする、おだてもするしおべっかも使う。
すべて、己の権利ひいては生活を守るためなのである。
そのたくましさが、登場人物一人一人に現れている。

こういうたくましさに、最近の我々日本人はどうも欠けているように思う。
それが豊かになったということなのかもしれないが、どうも、不安なことであるなあ。

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向かい合う

本来ならば、もっと喜び、大騒ぎになってもよいはずである。
何がといえば、内閣府の発表によって、12年1-3月期の実質国内総生産(GDP)が前期比+1.0%。
さらに、名目成長率が+1.01%で(13四半期ぶり)数字上では「デフレに歯止めがかかった」からである。

しかし、実際の生活実感で「景気回復」だと思っている人は少ないのではないか、と思う。
内閣府の発表だから「増税法案前のアリバイづくり」というのは、少々うがった見方ですかね(苦笑)

この要因だが、震災復興関連の公共事業が+5.4%となったのが効いているそうだ。
しかし、民間の設備投資は-3.9%。
公共事業のカンフル剤によって成長しているようにみえるものの、実は企業は国内に見切りをつけ、海外脱出に忙しい、というのが実態なのである。
ケインズが乗数効果を唱え、数学的に証明されたように、公共投資の波及効果は20倍に及ぶ。
しかし、である。
自由な貿易為替体制のもとでは、その乗数効果は海外に流れてしまうのである。
少々いじわるな言い方をすれば、日本政府の税金で海外の景気をよくしているわけだ。
国内の投資環境をよくしない限り、国内の景気がよくなったと皆が実感することはない。
そう思うと、至極当然のことである。

これから夏に向けて電力不足が懸念されているが、何よりも困るのは、工業用電力の不足による製造業の生産低下だろう。
マクロ的に見れば、それでもいいのかもしれない。おそらく、今の日本は需要不足であり、明らかに供給過多である。
しかし、その供給は、多く海外からやってくるから、国内産業が低下すると、そのまま貿易収支の悪化につながる。
海外に資源を頼る日本としては、少々まずい事態なので、なんとかこれを防ぎたい。
そうすると、原発再稼働という議論が出てくるわけだ。
放射能によって将来どの程度の影響が出るかも心配だが、景気の落ち込みは年間3万人の自殺者をさらに確実に増やすからである。
まずは目先の死者を減らすのを優先すべきという主張は、説得力がある。

しかし、一方で「どのみち、行きつく先は一緒じゃん」という、ひどくクールな経済学者もいるのである。
原発を動かせば、地方のシャッター通り商店街がなくなるのか?地方は再生するのか?
言うまでもないが、答えはノーである。残念だけど。
どんどんさびれている町に、かろうじて点滴を打つような政策で、地方経済活性化の特効薬でもなんでもない。
それよりも、日本経済そのものの健康を取り戻す政策を、この機会に考えたほうがいいのではないか、という話である。
かといって「じゃあ、こうしましょう」という結論が見えているわけではないんだけど。

資本主義経済というのは、利潤を追求していくものだが、その利潤はつまるところ「価格の歪み」にある。
海外と日本の労働力や生産コストの間に「価格の歪み」があるうちは、この流れをとめられない。

今まで、「日本の国債は日本国内で消化されているので安全」という話があった。
しかし、昨年の国債の国内消化率は91%まで落ちている。
1割ちかい国債を海外勢が買うようになった。むろん、米国ではない。最大の買い手は、ご存じ、GDP世界第二位に躍り出た支那である。
多くの支那人が「遅かれ早かれ、尖閣は支那のものになる」と考えているのは、この国力の違いによる。
買い進んだ日本国債を「一気に売るぞ」と脅されたら、もうおしまいなのである。「はい、すいません」というほかない。
勝負あった、ということなのである。
東京都が尖閣を買うのは、せめてその時、支那から金をもらって都民に還元しようと見切ってのことかもしれない(苦笑)

かつて、松下電器がカーラジオの下請けをしていたころ、60%のコストダウンを要求されたことがあった。
松下幸之助翁は、その発注元に訪ねていった。
てっきり文句を言われると思った発注元が、こわごわ迎えると、松下翁はこういった。
「60%のコストダウンを要求していただき、ありがとうございました」
発注元はわけがわからず、その理由を聞いた。松下翁はこう答えた。
「もしもこれが10%、20%やったらどうでしょうな。みんな、一生懸命やればどうにかなる、頑張ろう、そういう話になったんとちゃいますかな。
そやけど、60%は、一生懸命頑張っても、土台無理な数字ですわな。そうすると、これは、もうラジオの仕組みそのものから、考えなおさんことにはできませんやろ。
もしも60%のコストダウンができるラジオができたら、日本中のカーラジオは当社が受注できますわな。
ああよかった、ものを考えん10%やなくて、60%とよう言ってくださいました。おかげで、ものを考えますやろ。
せやから、ありがとうとお礼にきましたんや」

根本的にものごとを考え直す。
なにをその機会にするかは、まったくそれを受け止める人の心次第であると思うのですなあ。

付記)この後、実際に松下は60%以上のコストダウンに成功し、日本のカーラジオ市場でトップシェアを誇った。

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蒼龍

「蒼龍」山本一力。

著者のデビュー作品、オール読物新人賞受賞の「蒼龍」が収められた短編集。
いずれも、素晴らしく水準の高い作品ぞろいで、はずれがない。
なかでも、読後に印象に残るのは、表題作の「蒼龍」で、決してうまいとは思わないけど、著者の迫力が感じられる。

筋立ては、ふとしたことで大借金を背負ってしまった大工の職人夫婦の物語である。
ふたりは、必死に働くが、借金を返せず、なんとか増えずにいる程度。
子供もできて、いよいよ進退窮まったとき、日本橋の大手の陶器商が「来年初売りの茶碗の絵柄」を公募しているのを知る。
採用作品には、謝礼が支払われるのだが、その謝礼は印税方式で、茶碗1つに対していくら、となっている。
当たれば、借金返済ができる。
単なる大工職人ではあるが、子供のころから絵はうまいと褒められていた主人公は、妻に励まされ、応募を決意する。
貧乏なので、高価な日本画の岩絵の具は買えない。
主人公は、赤い端切れを嘴にあしらった鳥の絵を出す。
発表日の前に、陶器商の使いが長屋を訪ねてきて、最終選考に残ったと知らせてきた。
当日は、店に来てほしい、という。
信じられない気持ちと期待がないまぜになり、当日。
採用作品は、有名作家の柄であった。主人公は、わずかの謝礼を手に帰宅する。
すると、妻がいう。
まったくの素人で、初の作品が佳作。諦めることはない、あなたはやれる、と。
主人公は気を取り直し、翌年も応募する。
しかし、今度は落選。
気を落とす主人公に、妻は言う。
たしかに、今年の作品は、昨年に比べてうまくなった。
けれども、なんとなく「うまい」だけで、妙な迫力がなくなった。「うまい」だけの作品ならば、巷間いくらも作家があるだろう。
それに飽き足りぬからこそ、陶器商は一般応募をしているのではないか、と。
はっとした主人公は、己の原点に戻ることにする。
それは、青一色で描いた「蒼龍」の柄であった。
貧乏のどん底から、竜のように登って、なんとか抜け出したい。その勢いと熱い願望があふれた作品であった。
そして、応募。
再び、最終作品に残ったようである。主人公は、結果を見るために駆け出す。。。

夫婦のお互いを思いやる気持ちが細やかで、かつ、応募の場面の期待と緊張感、そして落胆は実にリアル。
そう、このとき、著者は、まったく同じ境遇にいたのである。

個人事業に失敗し、背負った借金が2億円。
債権者の前で頭を下げてすみません、と謝る。「いったい、どうして返すつもりだ!」厳しい声が飛ぶ。
そこで、山本一力は答えた。「はい、小説家になります。小説を書いて返します」
ならば、と債権者は納得したのである。
著者の筆力は、彼の周囲で、すでに認められていたのである。
そして、苦節3年。オール読物新人賞を経て、見事に作家デビューした。
もっとも、デビュー後のほうが、生活は大変であったらしい。
作品を出さねば、収入がないのである。
多くの新人賞作家が、この壁を越えられずに、また埋もれていく。

私の知人も、かつてオール読物新人賞を受賞した。
現役の時代作家である。
2回、佳作をとっていた。
あれは、ちゃんと事前に出版社から電話が入るのである。
佳作をとれば、翌年も応募してほしいと担当者が言ってくる。才能がある、とみて、育てようとするのである。
そして、発表日。
必ず連絡のつく電話番号聞かれる。そこで待機する。
知らせは、夜8時過ぎにかかってくる。「もしもし、、、」そこで「おめでとうございます」と言われたら受賞なのである。
たいていの新人は、静かに自分の部屋で、一人で待つ。
その時間のせつなさと、期待を想像してほしい。
その時間が、この「蒼龍」には、見事に描かれている。

作家になりたい人は、まず、自分が良いと思うものを評価してくれる賞に応募するのが一番である。
仮に、大賞をとれなくても、最後まで争った作品ならば、必ずデビューの道は開けるはずである。
貫井徳郎「慟哭」や高見広春「バトルロワイアル」がそのパターンである。
隠れた才能は、必ず見出されるはずである。
その受賞した知人も述べていた。
「自分の作品に対するいかなる友人、知人の意見も参考にしなかった。ただ、受賞できるかどうか、それだけを思っていた」と。
周囲の評価に右顧左眄するなかれ。
人には、好き嫌いがあるものだ。「その人」の意見は、すべてではない。
しかし、プロの出版社は違うのである。
プロになりたければ、プロに価値を問うしかないのである。
あとの情報は、すべて雑音と割りきることが必要である。

世の中には、なんと75歳でデビューした作家だっているのだぞ。

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現代デフレの経済学

「現代デフレの経済学」斉藤精一郎。

初版は1998年だから、今からすでに10年以上前になる。
で、日本政府は2009年にようやく「デフレ宣言」をした。
なんのことはなく、つまりはバブル崩壊以後「失われた20年」となり、えんえんとデフレ不況に落ち込んでいるわけだ。
本書は、1998年という、いまだ「バブル崩壊」の記憶も新しい時期に、いち早く「デフレ」到来を告げたもので、当時ききなれない「デフレ」についての解説本である。
今日問題となっている「デフレスパイラル」に関しても、そのメカニズムが説明してある。
また、デフレ経済下で起こることとして「2極分化」が必然であることをあげている。
本書の予言によれば「一億総中流は、これから崩壊するだろう」これ、見事に的中と言っていいんではなかろうか?

著者は、デフレ経済の原因として、ベルリンの壁崩壊による世界ベースでの供給過多をあげている。
ようは、需要不足なのである。
しかし、バブル崩壊後、30兆円を超える財政出動(ケインズ政策)がとられたが、目に見えるほどの効果がなかった。
その原因を、著者は、不良債権問題による資産デフレが原因である、と分析する。
クルーグマン流の調整インフレについては、検討の余地はあるとしながらも、かつて中央銀行がインフレの馴致に成功した例はないとして、「調整」インフレの範囲を超えてインフレが亢進するリスクを挙げており、否定的な見解となっている。

評価は☆。
デフレ経済についての入門書としては、いまだに価値を失っていないものと思う。

さて、本書が出てから小泉政権が登場し、徹底して不良債権処理を行った。
「不良債権問題から生じる資産デフレ」を解消し、金融機能を復活させ、構造改革によって生産性をあげる、という成長戦略であった。
おりから、アメリカの住宅ブームによる好景気も影響し、大胆な歳出削減策にも関わらず、景気は上向き。日本経済は一時的に活気を取戻し、政府の財政もプライマリーバランスの回復まであと一歩まで迫った。
しかしながら、その後、サブプライムは崩壊、リーマンショックが到来する。
もともと、ケインズ的な政策をとる麻生政権は、この難局を乗り切るため、大規模な減税、財政出動を合わせて実施。
おかげで、日本経済は奈落のふちに落ちるのを回避した。
しかし、その結果、世界の余剰資金が日本に避難し、かつてない円高を呼び、輸出を中心とした日本産業は大打撃をこうむるに至る。
にも関わらず、財政危機からドルは増刷され、ユーロは崩壊寸前。かろうじて円が支える構図は変わらず、依然、円は高止まりしたままだ。
加えて、過去の数次にわたる財政出動は、日本政府の財政をますます窮地に追いこむ結果となり、国民はすでに「財政出動のあとの増税」を見越して消費を手控えるという「逆ケインズ効果」に陥っている、と思う。
本書で指摘するように、現代のシステムでは、かつての昭和デフレのように破壊的な不景気を防ぐことはできるが、その代わり、じりじりと進んでいくデフレスパイラルを止めることはできないのである。

日銀が金融緩和をしてマネーサプライをいくら増やしても、そのマネーは民間に循環しない。
日本の金融機関は、そもそも事業の成長性を判断するノウハウを持たない。
自己資本比率規制があるから、不良債権化する可能性のある貸し出しをしない。
といって、好調な企業が、銀行に資金を頼るわけもない。
かつては、それでも土地神話があったから、多少のリスク案件であろうとも、土地さえあれば資金を供給した。
今は、それもない。
一方で、預金金利はタダ同然の水準である。したがって、何も考えずに国債を買っておけばよい、となる。
日本の国債は国内で消化されているから大丈夫だというが、実態は、外国が相手にしない低金利で、しかし資金がだぶついているから、国内銀行が買い進むだけの話である。
よって、新たな成長産業は育成されず、いつまでも株価も上がらず、政府は財政出動を繰り返し、その資金を国債に頼る。
以下、その繰り返し(笑)

こんなバカな経済があろうはずもないが、現実がそうなのである。
で、そのばかげた動きを止めようとした郵政民営化法案を、事実上修正となり、それに議員がみんな賛成しちゃうのである。

私は、今、なんとかして海外脱出できないかと、真剣に考えている。
人は難しいが、しかし法人は簡単に海外に引っ越せる。
日本は好きだが、好き嫌いとは別であるように思うのだなあ。

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ザビエルとその弟子

「ザビエルとその弟子」加賀乙彦。

日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの晩年を描いた小説である。
ザビエルはマラッカにおり、当時、外国人の入国を禁じていた支那への布教を企図していた。
もちろん、殉教覚悟である。
ザビエルは、たいへん敬虔な宣教師であるので、殉教を恐れるようなことはない。

この支那行きに対して、二人の弟子は対照的な反応を見せる。
フェレイラは貴族出身であり、教会内での栄達を考えている。支那で客死などしたら、栄達など不可能である。
なんとか支那行きを回避したいと考え、ついにはザビエルにそう訴える。
ザビエルは悲しみ、彼を破門にする。

アントニオは支那人であり、支那の恐ろしさを知っている。
しかし、ザビエルに殉じようと彼は決める。
自分が行かなくても、ザビエルは一人でも行くだろう。そうすると、師は困るだろう。
それは、自分が死ぬよりも心配なことである、とアントニオは述べる。

しかし、現実はさらに冷たいものだった。
マラッカで手配した船は、船賃だけを受け取って、危険な航海から逃げてしまう。ザビエルは、来ない船を待つうちに客死。
その死骸は腐らず、奇跡とローマ法王にたたえられる。
しかし、最後まで行動をともにした異国人の弟子、アントニオは忘れらてしまうのだ。
そのアントニオの前に、裕福な商人となったフェレイラが現れる。
破門された彼は俗世での成功に専心するほかなく、そして、大成功を収めたのである。

評価は☆☆。
考えさせらるところの多い好作品であると思う。

熱病で死の床にあるザビエルのもとに、死霊となった日本人の弟子アンジロウが現れる。
彼は、ザビエルの布教態度を批判する。ザビエルは、神に忠実なあまりに、現地の土着宗教に対する理解も尊重も欠いていた。それがあれば、結果は違ったであろうに、とアンジロウは言う。
彼は、その一例として、彼の翻訳した祈祷書の問題をあげる。
アンジロウは「主」を「大日」と訳した。大日如来のことである。
ザビエルは大日の意味を問い、大日は造物主でもなく、万能でもない、そんなものは主ではないといってアンジロウを非難する。
アンジロウは答える。そもそも、日本の神は、どこにでも存在するものであって、すべてをつかさどる単一の神という概念自体がない。
もしも「主」を「神」と訳したら、大きな勘違いが起こるであろう。(我々は、すでにこの間違いを犯している)
大日は、確かに造物主ではないが、しかしすべての神を統べる中心の神ということになっている。
神の中の最上位である。日本人にとって理解できる「主」には、もっとも近いではないか。間違いだと面罵されたのは、むしろザビエル師の無理解ではないのか。。。

私は思うのだが、日本人がもっとも理解できないことに「宗教」の問題がある。
中東問題の本質は宗教問題である。日本人は「話し合いでなんでも解決」だと考えている。それが、そもそも自分たちの多神教文化の産物であることには、気づいていない。
世界の問題では、話し合いがつかないことが遥かに多いのが現実である。
外交でもそうだ。「武力を用いるわけにいかないから、結局話し合いしかない」と簡単に言う。その場合の「話し合い」は、あくまで日本人の考える話し合いである。
お隣の支那の毛沢東は言った。いわく
「戦争とは、武力をもってする政治であり、政治とは、武力を用いない戦争である」と。
戦争とは、話し合いが通じぬ、という意味である。
それは例外でない。その証拠に、すでに戦後60有余年を経て、いまだ世界から戦争の絶えたことはないのである。
平和を念願する前に、なぜ戦争が起こるのか、それを自分の文化の殻によらず理解するのが先であろう。
「平和」という概念ですら、私たちが考える平和であり、この国の宗教的産物だと気付くことが必要ではないかと思うのだが。

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