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認知症という病 2

 認知症の中には、進行する形態のものがあることは確実です。アルツハイマー型やルビー小体型、もしかすると脳血管性も進行するかもしれません。脳の委縮などが顕著に見られ、時間が経てばより大きく広がるという意味では進行性をきたすことにもなります。

 ただ、これらが完全に立証されてはいないように見える事、すべての認知症と見なされた人が、このどれかに分類されるということも無いようであるとしたならば、ある種、無用の恐怖心を煽りたてていると言えないか、という問題です。

 介護の世界では、近年では自立が強く叫ばれ、実践されています。皆さんも入院して手術などを受けられる事があっても、ほとんど数日後には立って歩かされる経験があるでしょう。寝たきりにしない、誰かの全面的な助け、介護を受けなければ生活できない状態を、とことん避けるようになってきており、それが本人にも医療機関などの負担を減らすことに結び付くこととして行われています。

 当然のように認知症においても、自立自立が合言葉でしょう。進行する以前にどうやって維持し、その状態をキープさせるかが医療側、介護側の目標になっている。できる内は、時間がかかろうが、周りをいらいらさせようが、ともかく自身でヤルことが要求されています。

 いったいこういう時代の中で認知症はどのような病として受容されていくのかを考えると、今とは随分、様相が変わりそうです。今から十年、二十年前に比べて、認知症への理解も対応も大きく変わってきた事を思えば、今がそのまま未来になる事は無いのでしょう。

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認知症という病

 講演会なんかに行くと、認知症は基本、アルツハイマー型、脳血管障害型、ルビー小体型の三種類とされ、非常に多くがアルツハイマーに分類されるという話を聞かされます。

 これに私は以前から、どうも変だという印象を強くもっていまして、こういう病名が付くような感じの認知症というのは少ないのじゃないかと思っていて、というのも老いの進行の中で、認知症に近い症状を呈していても、それを完全に病気だというには、どう何だろうかと思わないではないからです。

 老いの進行の中で、明らかに体力は落ち、例えば握力はかなり落ちて、皿などはしっかり持てなくなっています。それと同じような意味で記憶する事がなかなか難しくなっていて、何度も確認する、確認しても、まだ心配で見直す。それでも忘れる。そういう状況を見ていると、認知症だとは言えるけれど、握力が落ちているのと何が違うのかと思わないではありません。

 先日の講演で、認知症というのは、実は病の集合を意味するのであって、一つの病、肺炎とか、胃潰瘍とか、そういうものではなく、中を分類すると三十種類を超える症状があり、それになったからと言って、必ず進行するかどうかも分からない。
 昨日書いたように、優しい連れ合いがいれば、病は進行しないという話にも繋がる訳で、これ病気なのか、と言えばちょっと違うのではないかと。

 そして認知症になったとか、なっていないとかいう形のon/off関係ではないのだとも語っていました。何か統合失調症と呼ばれるものとも似ているようなところがあります。
 私は統合失調症も、ある種の精神のありようの数多くの集合体であって、何か具体的な病を意味するものではないのではないかと考えているからですが・・・・。

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認知症への恐怖

 地域で先日、認知症の講演会がありまして、本人とそれを支える家族をテーマとしたものです。中身は家族の話はほとんどありませんで、認知症と、本人を支える地域の支援施設の話でした。

 質問タイムになって、ある参加者が、自分の母親から「あんた誰?」と言われて大変なショックを受け、自身も認知症になるんではないかという恐怖に苛まれていて、今の自分は認知症になる、どのレベルにあり、認知症が進むのを止める方策はあるのかと、切々と訴えました。質問された方は、まぁ、私と同年齢くらいじゃないかと思いますが・・・。

 皆さんだったら、どう思いますか? 

 まぁ、分からないじゃないんですが、昔は癌になったらどうしようとか、もっと昔には原爆が落ちたらどうしようか、そんな類に近い話です。最後の原爆なんて??と思われるでしょうが、冷戦期には、米ソ対立が激しかったから、すぐにでも戦争が始まるなんていう気分もあって、特にアメリカでは、原爆恐怖症が蔓延して、家の庭にシェルターを作るのがブームになったりしたのですよ。

 まぁ、それはさておき、私の印象としては質問者が暇を持て余しているということが大きいんじゃないかという事が一点と、「あんた誰?」と言った母親の方は息子ほどのショックも無ければ、不幸であった可能性は低い。
 認知症は本人も周りも大変な事ではあるけれど、より深く本人と向かい合う、分からなくなっているという事実を受容する、新たな関係性を構築する事を要請しているのだと私は思うのです。

 認知症というのは人間関係の病理だと講演された方が言っておりました。昨日、今日の話ではない、蓄積された人間関係の捩じれの現われの一つが人生の最後の最後に現れているのでしょう。
 講演者は本人が男であれば、優しい奥さんがいれば、認知症は発症しても、初期の段階、ちょっと呆けたかな、くらいで終わる、進行しないものだと言っておりました。私もそう思います。

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老いの進行

 子供の成長の速さは目を見張るものがありますが、年寄りの老いも、また、かなりの速さを感じます。子供の成長は、直線的であり、その傾斜度は相当なものですが、老いの方はジグザグに進んで行くようです。そして年月を経るに従って進む速度は増して行くようにも見えます。

 リタイアした後に最初に始めたボランティアは現在、三年八カ月と言われました。その時に始めた仲間が三人おりまして、同年齢と10歳年上がいます。
 この四年近くの中で、老いたなぁと最近感じる事が多くなりました。自分の事は分からないし、前にも書きましたように元気一杯なので、老いは感じないのですが、他人を見ていると、衰えを思います。それもこの四年を通してというよりも、ほんの数週間前に比べての話なので、結構、強烈です。アレェー・・・という感覚です。

 でもこれで固定されるかと言うと、次に会うと、戻っていたりするところが、ジグザク感なのです。戻っていても確実に進行しているのだろうなぁ・・と思ったりします。

 多分、若い方には、この微妙な差異は分かり難いでしょう。年寄りは変わらないという感覚でしょう。年寄り同士だから分かる部分も強いのではないかと。

 私らは、これらを見ながら、後どのくらいかを推し量ったりします。死ではありません。普通に活動できる時間です。それが見える時を過ごしていると言えます。この時間は病気や怪我などをすれば一挙に進みます。それでもジグザグですから、回復すれば、かなり戻すことも可能ですが、戻れない人も当然のようにいます。

 死への時間を推し量る事は、たとえホスピスでも秤がたいところがあります。ただホスピスは治療をしませんから、絶対的に死への時間を刻みます。この例外は万分の一もありません。その意味でも老いも、そのスピードに差があるだけですが、それでも親しい人の老いは衝撃的です。不可逆的なものだからです。

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先を越される

 ホスピスのボランティアから抜け出る気満々であったのですが、先週、休んでいた時に、同期で入った二人が辞める形になったようで、他にもベテランの人も辞めるという話で、先を越された感じで、ここで私も辞めると言うと、何かゴタゴタしそうで、取り敢えず4月に辞めるという話は自重する事になりました。

 それぞれ私のように、どうも面白くないとかいう話ではなくて、家族の病気とか、仕事の関係などの話で、病気の話は、私よりは皆若いので、兄弟とか、両親が病気という、結構せっぱつまった話です。ここらは止めようも無い話ですから、仕方ありません。

 ここらもボランティアには、よくある話でして、金を稼いでいない分、そんな話が揺れる事になります。もう一つの方も辞めようかと思っていたら、係の担当にさせられてしまって、こちらもまだ最低でも一年はやらなければなくなりました。まぁ、しょうがないんですし、暇がない訳じゃないし、辞めると、また、別の所を探しての生活になりますから。

 こういう老後というのは、別に計画なりして出来てきた訳ではありません。よく50過ぎてからの人生の向かい方が、老後も決定するなんていう事を言う人もいますが、私の経験する範囲ではそんなことは露ほどもありません。

 予想と違う事が起きてしまう事が非常に多いのです。その最たるものは自分なり、連れ合いの病気であったり、連れ合いの人生観というか、生き方が老後の生活に激しく影響されます。つき従ってくれると思っていたのが、まったくそうならない例は無数です。

 まして趣味三昧なんかも、仕事というストレスが無くなる、金が現役時代のように使えないいっしょにやる友人が周辺から消える、体力の衰えという事態の中で、大きく変容します。私なんかも、昔は仕事は1割、生活2割、残りは全部、趣味という人であったのに、今や自分の趣味は何か、分からないというか、なくなっていしまった。

 まぁ、こんなものなんですよ。

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