メンタルヘルス

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不良少女

 「死にたい、消えたい、居場所がない」、若者の、中でも女性の生き辛さをテーマにした講演会に行ってきました。内容はNHKにも取り上げられたNPOの支援組織の話なので、中身を語るのは止めておきます。

 私が感じた事は、昔は明らかに分かる形の「不良」というものが消えたという感覚です。80年代くらいでは外見だけで不良やっている、ということが、ほとんどの人が認識できたけれど、今は、どうもそれがくすんでいるというか、外見で発散できるレベルを超えているようになっているようだということです。

 穴に落ちるという感覚も、それが虐めであったり、DVであったり、性的暴行であったり、幾十にも重なり合うところもあって、より陰惨さを増しているように感じられました。
 そして不良という形に転換しても、それがより酷い状況を生み出す一歩、転落へと進むような感じであることも、特徴的です。

 自らの浅はかさを笑うということも難しいようで、こういう時代だからこそ、それを救おうという人々が出てくる感覚です。

 こういう世界の現実を見ないで、ワケワカメの貧困問題だとか、ありもしない差別を騒いでいるサヨクの方々の、どうしようもなさをも感じます。

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死に逝くもの

 ホスピスの世界では、死に逝くものとその家族への配慮には特別なものがあり、非常に手厚い配慮と、本人や家族が発する希望は、何よりも優先されています。傍目で見ていると、やり過ぎではないかと思うほどの気遣いをします。

 これでご飯を食べているというか、社会的な存在意義が、ここにあるのですから、ある意味では当然の事なのかもしれませんが、そこに働いているボランティアにも、強い奉仕を求めるというのは、どういうことなのだろうかと考えないではありません。

 ホスピスでのボランティアを始めて半年くらいの、私を含めての連中からすると、何だろうねぇ・・という感じなのですが、ここに慣れたボランティアには、当然のように受容され、何か宗教がかったような、素晴らしい、人として修養ができるとか、感動したとか、そんな言葉が並びます。誰に向かって祈るのか私には分からない。家族や友人に囲まれた愛とか幸福なんていうものは、私には分からないし、あまりにも縁遠い。

 この違和感というのは、後、一年とか二年とか経つうちに消えるのかが、今の私には大問題です。ここの雰囲気に慣れる事が、どういう意味を持つのかを考えます。

 そしてこういう最期を望むべくもない私自身の現実があり、凄惨な未来しか予想できない中で、こういう手厚い介護の中で、これが人間の死の姿である、尊厳ある、幸福な死であると言い募る人々に反感が渦巻いている事も、口を閉ざさせる大きな要因です。何も喋りたくない、話したくないと感じる。

 まぁ、ここのボランティアは長く続きそうもありません。フェイドアウトをどうやるかを考えているところです。

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認知症という病 2

 認知症の中には、進行する形態のものがあることは確実です。アルツハイマー型やルビー小体型、もしかすると脳血管性も進行するかもしれません。脳の委縮などが顕著に見られ、時間が経てばより大きく広がるという意味では進行性をきたすことにもなります。

 ただ、これらが完全に立証されてはいないように見える事、すべての認知症と見なされた人が、このどれかに分類されるということも無いようであるとしたならば、ある種、無用の恐怖心を煽りたてていると言えないか、という問題です。

 介護の世界では、近年では自立が強く叫ばれ、実践されています。皆さんも入院して手術などを受けられる事があっても、ほとんど数日後には立って歩かされる経験があるでしょう。寝たきりにしない、誰かの全面的な助け、介護を受けなければ生活できない状態を、とことん避けるようになってきており、それが本人にも医療機関などの負担を減らすことに結び付くこととして行われています。

 当然のように認知症においても、自立自立が合言葉でしょう。進行する以前にどうやって維持し、その状態をキープさせるかが医療側、介護側の目標になっている。できる内は、時間がかかろうが、周りをいらいらさせようが、ともかく自身でヤルことが要求されています。

 いったいこういう時代の中で認知症はどのような病として受容されていくのかを考えると、今とは随分、様相が変わりそうです。今から十年、二十年前に比べて、認知症への理解も対応も大きく変わってきた事を思えば、今がそのまま未来になる事は無いのでしょう。

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認知症という病

 講演会なんかに行くと、認知症は基本、アルツハイマー型、脳血管障害型、ルビー小体型の三種類とされ、非常に多くがアルツハイマーに分類されるという話を聞かされます。

 これに私は以前から、どうも変だという印象を強くもっていまして、こういう病名が付くような感じの認知症というのは少ないのじゃないかと思っていて、というのも老いの進行の中で、認知症に近い症状を呈していても、それを完全に病気だというには、どう何だろうかと思わないではないからです。

 老いの進行の中で、明らかに体力は落ち、例えば握力はかなり落ちて、皿などはしっかり持てなくなっています。それと同じような意味で記憶する事がなかなか難しくなっていて、何度も確認する、確認しても、まだ心配で見直す。それでも忘れる。そういう状況を見ていると、認知症だとは言えるけれど、握力が落ちているのと何が違うのかと思わないではありません。

 先日の講演で、認知症というのは、実は病の集合を意味するのであって、一つの病、肺炎とか、胃潰瘍とか、そういうものではなく、中を分類すると三十種類を超える症状があり、それになったからと言って、必ず進行するかどうかも分からない。
 昨日書いたように、優しい連れ合いがいれば、病は進行しないという話にも繋がる訳で、これ病気なのか、と言えばちょっと違うのではないかと。

 そして認知症になったとか、なっていないとかいう形のon/off関係ではないのだとも語っていました。何か統合失調症と呼ばれるものとも似ているようなところがあります。
 私は統合失調症も、ある種の精神のありようの数多くの集合体であって、何か具体的な病を意味するものではないのではないかと考えているからですが・・・・。

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認知症への恐怖

 地域で先日、認知症の講演会がありまして、本人とそれを支える家族をテーマとしたものです。中身は家族の話はほとんどありませんで、認知症と、本人を支える地域の支援施設の話でした。

 質問タイムになって、ある参加者が、自分の母親から「あんた誰?」と言われて大変なショックを受け、自身も認知症になるんではないかという恐怖に苛まれていて、今の自分は認知症になる、どのレベルにあり、認知症が進むのを止める方策はあるのかと、切々と訴えました。質問された方は、まぁ、私と同年齢くらいじゃないかと思いますが・・・。

 皆さんだったら、どう思いますか? 

 まぁ、分からないじゃないんですが、昔は癌になったらどうしようとか、もっと昔には原爆が落ちたらどうしようか、そんな類に近い話です。最後の原爆なんて??と思われるでしょうが、冷戦期には、米ソ対立が激しかったから、すぐにでも戦争が始まるなんていう気分もあって、特にアメリカでは、原爆恐怖症が蔓延して、家の庭にシェルターを作るのがブームになったりしたのですよ。

 まぁ、それはさておき、私の印象としては質問者が暇を持て余しているということが大きいんじゃないかという事が一点と、「あんた誰?」と言った母親の方は息子ほどのショックも無ければ、不幸であった可能性は低い。
 認知症は本人も周りも大変な事ではあるけれど、より深く本人と向かい合う、分からなくなっているという事実を受容する、新たな関係性を構築する事を要請しているのだと私は思うのです。

 認知症というのは人間関係の病理だと講演された方が言っておりました。昨日、今日の話ではない、蓄積された人間関係の捩じれの現われの一つが人生の最後の最後に現れているのでしょう。
 講演者は本人が男であれば、優しい奥さんがいれば、認知症は発症しても、初期の段階、ちょっと呆けたかな、くらいで終わる、進行しないものだと言っておりました。私もそう思います。

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