古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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 以前に小長井城の記事を書いた際にいくつかの疑問点をあげて、わたしなりの結論を出したものもあり、未解決なものもありました。その中で、「昭和10年の図」を見つけて再度検討してみたいと書きました。で、その図をようやっと見つけましたので、再度未解決の疑問点について考えてみたいと思います。
 以前あげました疑問点は、
この地に築城したのはどうしてか? ――→とりあえず解決
大手筋はどっち? ――→東側を大手とするが、S10年の図をみてから・・・
③馬出を重ねたは、どうしてか?――→とりあえず解決
④馬出がどうし「丸」と「角」であるのか?の4点でした。――→とりあえず解決
と、いう感じでした。さらに付け加えまいと、武田氏滅亡後に徳川氏による改修の可能性です。
 さて、昭和10年の図は、皆見欽次氏が『歴史的郷土史』に掲載した「小長井城略圖」です。これが『本川根町史通史編1』に掲載されていました。イメージ 1
略図ながら堀・曲輪・虎口(鬼門)などが書かれ、現在残る遺構とさほど違いがないことが分かります。ここで、注目されるのは、北側の東川根小学校跡(現海洋センター)の東側の弧状の堀が描かれていることです。城址北側は、大半が消滅していますので、北側の曲輪について知りえる唯一の史料となります。
イメージ 2 左図は、現在の当城の概念図になります。小長井城は、大井川左岸段丘上にあって、西に大井川と南に鳴沢があり、北も沢が入り込み、三方が自然の断崖となる要害の地にあるといえます。
 城址の南側半分は、郭1にある徳谷神社の境内になっていて、比較的良好な状態で遺構が残されていのす。北側半分の郭4は、明治に小学校が建設され、現在はB&G海洋センターの建物が建ち遺構は消滅しています。
 
 
 
 
 
 
 
 
  この消滅した北側半分を「小長井城略圖」の古図から類推してみたいと思います。
  『本川根町史』では、古図に描かれた小学校校舎東側の弧状の堀について次のイメージ 8ように述べています。「現在残っている丸馬出・角馬出は「小長井城略圖」では弧状の堀を連ねた形となっており、校舎東側の堀と類似した表現となっている。遺構と図面から判断すると、この部分に丸馬出が重ねて作られていた可能性が大きく、郭構造までは分からないが北半分の郭東側にも丸馬出があったことが推測される。」とし、北側郭の東側に丸馬出があったのではないかとしています。
 まずは、古図に示された堀を現況の堀に当てはめてみまと、右の図のように考えられ、北郭東の堀は、「北一号堀」「北二号堀」と仮称しておきます。「町史」の丸馬出があったとしますと、下図のような感じになるのでしょうか。
 
イメージ 7  一号堀は、五号堀に繋がり二号堀の延長に北一号堀が繋がって、北一号堀と北二号堀の接合部に馬出の虎口になるのではないかと考えられます。「町史」の二重馬出を想定するには、ちっと無理な感じですね。なお、北郭は、2郭に分かれていたようです。
 大手の前面を馬出で挟むという武田の城によく見られる形のようです。
 
イメージ 4 「町史」は、段丘上を堀等で防御した構造が諏訪原城と類似しているとしています。確かに、諏訪原城の二の郭南馬出と東馬出の構造に似ている感じはしますね。ただ、諏訪原城は、丸馬出を多用する武田氏の縄張の典型として評価されていましたが、最近の発掘調査の進展に伴って、徳川氏の改修の可能性が高まっています。大手馬出や中馬出のような巨大な馬出は、武田というより徳川によるものと考えられるようです。ですので、諏訪原城との類似性はあまり信憑性がないといえますか。
 少し横道になりますが、諏訪原城で気になる所がありますので少し書いておきます。諏訪原城の二の郭や中馬出と北馬出の発掘から徳川の改修の可能性が高く、武田期の城は主郭のみではなかったかと言われています。しかし、二の郭南部分の構造が他の所とはちっと違う感じを受けまして、もしかするとここは武田が関与している所ではないかと思っています。そうしますと、南馬出・東馬出は武田でもいいことになります。今年の諏訪原城の現説に行きましたら、これから三カ年をかけて二の郭南辺りを発掘調査するような担当者のお話がありましたので、その結果が楽しみです。
 話を元に戻しまして、古図を基にして北郭を復元されている方がいますので、それを紹介します。
イメージ 3 西股総生氏が、『歴史群像』NO.116(2012,12号)に掲載しています。その図は、著作権の事もあってコピーできませんので、西股氏の図を見て作成したのが左図です。
 二号堀の北側に堀を延長して、北郭に二つの郭を想定しています。馬出は想定していないようです。この想定もありかな、と思います。
 北側の二つの郭については、さほどのことはかかれておりませんで、「ニノ曲輪も、武田氏系城郭の事例から類推するなら、逆襲部隊の出撃拠点として想定されていた」「二重堀に挟まれた狭長な帯曲輪は逆襲部隊の出撃路や退却路としては有効だが、侵入を試みる攻城軍にとっては、一ノ曲輪塁上からの猛射が待つ「死の回廊」となる。」といったもので、軍事的視点の強い説明になっています。
 イメージ 5
 また、西股氏は、類似の城郭として新府城をあげています。それは、丸馬出の両脇の小外枡形(図のBとC)と中心部の曲輪を塁イメージ 9壁で区画している点が新府城と酷似していると。新府城の築城時期と小長谷城の改修時期がほぼ同じと思われますから、この指摘はあり得るかもしれません。ただ、新府城大手の馬出の両脇の空間が明確に小外枡形に見取れるかどうかは疑問が残ると思うのです。
(※新府城縄張図は、『図解山城探訪』より、三日月堀の図は『新府城の歴史学』より) 
 古図から北郭の馬出の有無について考えてきましたが、ただ南郭東の二重馬出が武田期初期(天正年間の初め頃)から構築されていたとは考えにくいです。小長井城は、東を除く三方が自然の要害で画されていますので、東側の防備が最重要課題になります。さらに東から西にかけての下り傾斜地になっていますから、 東への防備はより一層厳重ににならざるを得ないといえます。ですから、南北二つの馬出の連携による大手面の防備を図ったのではないかと考えますね。
 ただ、この私案の想定図の問題点は、大手がどこかになるかです。「町史」は、駿府に繋がる古い道が東側にあることから、東を大手としています。この道は、高山越えの川根街道で山道4里・平野4里で1日で駿府に行けたようです。大手が東とすると、やはり北の馬出から入って、北の二つの曲輪を通り、郭3をへて主郭に行ったものと考えたいですね。そこで、主郭に直結した馬出は主郭背後と大手筋の防御となりますが、まだちっと苦しいですね。
 そこで、主郭背後の防御の弱点を補うために二号堀を掘り、二重堀としたが、馬出の効果が減じたためにさらに角馬出を作ったのではないかと・・・。
 郭3の枡形虎口もどう考えるかですね。小長井の集落は北500mほどにあり、中世に小長井氏が居住したといわれています。虎口前の道が古図でも小長井集落や対岸の道に繋がっていますから、この道は地域の住民が行き来する道と思えます。そこに権威を誇示する桝形虎口を置く意義あったのではないと思えます。
 
 最後に、武田家滅亡後当城がどうなったかです。今まで言われているものは、武田家滅亡後廃城になったといわれています。しかし、最近の徳川氏の領国になった地域で「天正10年以降に徳川の手によって改修された」城郭が多々あるのではないかと云われます。(加藤理文著「静岡の城―研究成果が解き明かす城の県史」)当城もその可能性を指摘されています。関東では、天正18年以降の見直しがありますが、静岡でも天正10年以降の見イメージ 6直しがあるようです。
 その一例として、静岡ではありませんが、信濃の牧之島城があります。牧之島城も武田氏独自の築城技術みなされる両袖型枡形虎口や三日月堀・丸馬出があり、典型的な武田の城と名高い城です。左図は、松本藩写「牧之島城古図」を宮坂武男氏が図にしたものです。(『図解山城探訪』)
 牧之島城は、三方を犀川に囲まれ要害の地にあり、主要郭が本丸と二の丸で、その各々に丸馬出が備わっています。本丸東側土塁に「千人桝形」と呼ばれる空間を作って水堀を木橋で渡って馬出に行く構造です。何やら小長井城の馬出と似ていませんか。
この本丸側の馬出について、多田暢久氏が徳川氏の改修を指摘しているようで、「牧之島城の曲輪配置は馬出を計画的に配置しているが、主郭から東にでる丸馬出だけが秩序を乱しており、また、この丸馬出のみ土塁を伴っていることから、松平忠輝期に付け加えられた可能性がある。」としています。(多田氏の説を石川浩治氏「三河伊奈城の縄張りについて」『愛城研報告5号』が載せています。)
 他にも徳川氏が小牧・長久手合戦前後に豊臣勢に備えて境目の城を再整備したことが分かってきていますので、小長井城の現況の遺構が武田期のみのものとは云い切れないようです。
 参考文献
『本川根町史通史編1』 2003年
『図説中世城郭事典2』 村田修三編 1987年 新人物往来社
『静岡の山城ベスト50を歩く』 加藤理文・中井均編 2009年 サンライズ出版
静岡の城―研究成果が解き明かす城の県史』 加藤理文著 2011年 サンライズ出版
『新府城の歴史学』 2008年 韮崎市教委編  新人物往来社
『図解 山城探訪』 宮坂武男著(『信濃の山城と館 』第2巻に収録)
『東国の中世城郭』 2010年 中世城郭研究会
『静岡県の城址 中世城郭縄張図集成(中部・駿河国編)』 2012年 静岡古城研究会
「三河伊奈城の縄張りについて」 石川浩治 『愛城研報告5号』 2000年 
「駿河小長井城」 西股総生 『歴史群像』NO.116(2012,12号)
 
 

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復元図素晴らしいですね。ところで現在郭1から北側にあいている
虎口は後世のものでしょうか。もし、昔からある虎口でしたら
ここに丸馬出があってもいいかなあ、なんて思っているのですが、
町村史の図面を拝見すると、虎口はなさそうな感じですよねえ。

2013/2/10(日) 午前 8:39 [ 丸馬出 ] 返信する

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丸馬出さん、勝手気ままな推定図でお恥ずかしいです。
郭1の虎口?は、神社への入口として削ったのではないかと思います。北郭がなければ、虎口は郭3の枡形辺りになるのではと、思っています。

2013/2/10(日) 午前 10:15 [ 馬念 ] 返信する

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そうなりますと、落城の際の退路は郭3の南西の隅から川の方へ
逃げていくような感じになりますかねえ。ところで、話は変わりますが
枡形虎口は古宮城のと似ている感じがしますねえ。

2013/2/11(月) 午前 7:15 [ 丸馬出 ] 返信する

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丸馬出さん、長野にでかけていまして、お返事遅れまして申し訳ありません。
落城の際の退路ですか。考えていませんでしたが、そうなりますか。
枡形虎口は、古宮は武田の城でよく見る両袖型枡形虎口田と思いますので、ここの枡形とは違う感じです。

2013/2/15(金) 午前 10:26 [ 馬念 ] 返信する

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