古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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前山古城

 前山古城は、佐久市前山にある比高100mの山城です。当城は、佐久平南西部丘陵の先端部に前山城を主城とする城砦群の1つです。武蔵富岡さんが前山古城の尾根伝いに新たな遺構(前山北古城ー仮称)を見つけたという記事を見ましたので、当城を訪問しながらそれらを見ようと出かけました。                                       訪城日:2016.12.26 晴れイメージ 1
 城址へは、国141号洞源湖入口信号を西に進み、貞祥寺を目指します。貞祥寺手前で右折して、二股の左側の道(蓼科スカイライン)に入り、約1.5kmで駐車地点に着きます。登城口は、その先の墓地の脇になります。イメージ 2







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 当城に関する史料は一切存在しないため、築城時期や築城主体は不明です。ただ、当地が前山伴野氏の勢力下にあってその一連の城砦群の一角にあることから、同氏に関連した山城と考えられます。
 伴野氏は、佐久地域においては大井氏と並ぶ有力国衆で、その活動イメージ 5は鎌倉期より見られ、鎌倉期に霜月騒動(興安8年-1285)で没落したが、室町期に勢力を盛り返します。伴野氏は、主に伴野館の野沢伴野氏と前山城の前山伴野氏があったようです。前山伴野氏については、以前前山城を書いた際に言及していますので、そちらを参照してください。


イメージ 4




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 登城口の墓地で、背後の尾根に向かいます。少し急なところもありますが、道はしっかりとあり、約10分ほどで尾根につきます。尾根の上に上がりましたが、左手に土盛が見え行きましら、どうもそこが砦Bのようでしたが、まずは前山古城へ向かいました
 尾根上を南方向に数分行きますと、遺構らしき平場が左斜面に見えましたので、登りましたら2郭でした。そこから主郭に。イメージ 7









 
イメージ 8主郭は、南北約25m、東西約28mほどの不整形の六角形をしています。南から西に低い土塁がまわっています。削平はまずまずで、東側(写真左側)が一段低くなっています。

南東端の土塁上から主郭南下の3郭へ向かいます。土塁横下に薄〜いくぼみがみられますので、虎口かもしれませんが?です。イメージ 9



 主郭南下の3郭で、主郭との間には堀状の窪みが見られます。南辺に土塁痕と思われる土盛があります





 主郭背後を気にしている感じで、3郭の西側には幅広の堀(90mと)東側に竪堀を設けていますイメージ 11
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西側の堀                      東側の竪堀
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 イメージ 13北側からの2郭で、奥が主郭になります。







 2郭の北側の暖斜面に数段の郭が見られます。最下段(北側端)からの主郭方面
イメージ 14 ここから、西に行けば降りられると思いましたが、ちっと無理でした。違い尾根になっているようで、仕方がなく主郭方面に戻り砦B・Aに向かいました。同じような風景の中を歩きますので、くれぐれも注意しませんと迷ってしまいます。

 前山古城は、宮坂氏は「在地土豪層の要害城として構築されたものであろう」と推察しています。規模や構造からしますと、うなづけるものと思いますが、高地にあり2つの尾根内の沢筋に構築され麓から見定めにくいということを加味しますと、「村の城」ということも考えられるのではないかと。
 なお、武蔵富岡さんが見つけられた砦AとBについては、別稿で書きます

参考文献

『信濃の山城と館 1 佐久編』 宮坂武男著 

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  小国城は、鶴岡市(旧温海町)小国字町尻にある比高230m程の山城です。平成14年に国史跡に指定されています。旧温海町は鶴岡の中心地から北西の日本海側にあり、意外と行きにくい所にあります。今回、肘折温泉から最上川沿いに鶴岡に出て、日本海東北道で温海IC経由で行きました。本海東北道は、鶴岡JCT〜あつみ温泉IC間は無料でしたのでラッキーでしたね。それでも2時間以上かかりました。                              訪問日:2016.10.21 晴れイメージ 9
 城址へは、日本海東北道「あつみ温泉IC」を降り、県道348号を6km程東進して右折します。集落内を約200m程進むと右手に案内板があり、奥に登城口の駐車場があります。イメージ 10
イメージ 1
















 
 小国城跡は、庄内大宝寺(武藤)氏の南端の重要な支城で、「楯山」(標高348.5m)の三頂部にある。麓から標高差早く235.5mで県内の中世山城跡では最大の比高差であり、庄内と越後を結ぶ古くからの主要街道が、城跡の東麓の谷筋を通っている。江戸時代には小国に庄内藩の関所、制札場が置かれ、小国街道の東側には、小国城本丸跡に正面を向けて、城の鎮守と伝えられている熊野神社がある。
 城跡は、東西約1030m、南北約950mあり、東側と西側に谷が入り、北側に突き出した尾根の上に四つの郭を配置している。東側に通称「二の丸跡」「三の丸跡」、小規模群郭が続き、郭の南東側に登城路が取り付けられている。登城道は、小規模郭群を境にして北側に折れ、東端の通称「駒立場跡」で折れ曲がって北麓に下っている。駒立場跡は、城の出入り口を守る枡形虎口で、上杉氏による大改修によって増設された防御施設と考えられている。本丸跡の西側には、通称「西大屋敷」と呼ばれる約2000㎡程の広大な郭があり、居住区域と推定されている。 イメージ 2
 城跡の特徴は、本丸跡を全周する土塁と、鋭い切岸斜面、登城路を守るために連続して設置した四つの虎口である。切岸は、小国街道、小国集落からよく見え南側と東側の傾斜がきつく、この山城の役割が、街道の要衝を押さえることを示している。標高の高い山城跡で、郭を全周する本丸跡の土塁は、富山県以北の日本海側では極めて珍しく、庄内地方における戦国時代の抗争の歴史の証言者である。出羽と越後の国境と街道を守る重要な山城で、そのために何度も改修と拡張が繰り返されたと考えられる中世山城跡である。 鶴岡市教育委員会    現地説明板より
補足
「庄内と越後を結ぶ古くからの主要街道」というのは、旧羽州浜街道(上の図の橙色)で、日本海沿いの道(羽州浜街道or出羽街道)ができるのは近世に入ってからのようです。その街道沿いにある小国城は、越後との境目の要として軍事・交通の重要拠点だったようです。南北朝期から小国氏がいたとようで、城は、天文16年に小国因幡守によって築城されたと伝えられています。
庄内は、天正10年(1582)以降、大宝寺氏と最上氏・上杉氏(本庄氏)によって争乱状態になり、庄内の覇権は天正15年最上氏から天正16年本庄氏・上杉氏へ、さらに慶長6年に最上氏となり、かなり激しい変遷を経ています。小国城の現遺構は、天正年間以後の上杉・最上両氏の緊張関係の中で、両氏によって整備されたとものと考えられます。最上氏時代の元和元年(1615)に一国一城令により廃城になった。
当城で、丸呼称(本丸・二ノ丸・三ノ丸)になっているのは、江戸期の古記録によるもののようです。元和8年(1622)の「五十嵐野左エ門控」には、二の丸が中屋敷、三の丸が下屋敷とも書かれています。

イメージ 3案内板から少し左手にある登城口です。本丸まで1045mと書かれています。とりあえず途中の駒立場を目指します。イメージ 4








登城道は、急坂もありますがしっかりとしています。イメージ 5


標高230mの駒立場を南側イメージ 7から見ています。6×33mの広さで削り残しの土塁で囲まれています。表示板によると、本丸まであと400mです。➡奥から見た所

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三の丸東下の虎口A手前ですが、坂虎口の感じです

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イメージ 12






三の丸東下の虎口Aです。桝形虎口と思われます
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虎口Aから三ノ丸への通路です。二ノ丸・本丸へもこんな感じで、郭の南側の切岸下の急崖上に狭い導線になっています。上からの横矢がかかる仕組みのようです。
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イメージ 15





三の丸桝形虎口を外側から() 郭内から()


↓三の丸の東端から見た所で、20×20mほどの広さです。奥に見える切岸の上が二ノ丸で、二の丸まで10mはある鋭い切岸です
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二の丸枡形虎口で、虎口上部に本丸東虎口前の腰郭から横矢がかかる仕組みのようです。イメージ 17












イメージ 18二の丸を東端から見た所で、40×30mほどの広さがあります。本丸との切岸は、10mほどあります。
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二の丸から来た通路が、大きく右に曲がり、本丸東虎口前の腰郭(虎口受け郭か?)に上がり東虎口に入る仕組みです。東虎口は枡形ではありませんが、虎口への導線が素晴らしい造りですイメージ 20







本丸東虎口で、本丸の主虎口です。食違い虎口。イメージ 21



本丸で、ほぼ五角形で40×25m程の広さで、尾根筋の頂上部を削平しているようです。高1.5m程の土塁が全周しています。虎口は、東(主)と南の二か所あります。イメージ 22




南から西に取り巻く腰郭へおりる南虎口と、本丸を取り巻く土塁。イメージ 23





本丸西下の西大屋敷方面で、本丸の西下に堀切があるようですが、埋まってしまったのか確認できませんでした。イメージ 24



西大屋敷の現状です。広さが100×40mという広大な郭ですが、藪に覆われています。井戸も二か所あると説明板にあり探しましたが、わかりませんでした。イメージ 25






西大屋敷南西端にある大堀切で、上巾約25m、深さ約15mあるようです。
本丸北側の尾根には二条の堀切があるようですが、確認していません。イメージ 26


城下集落の小国宿の景観です。昔の面影を残しています。

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購入図書 2017年

趣味の歴史にいくら散財しているかの覚書です! ★5ー最高ランク ★3ー普通
2017年

01.17 『佐竹一族の中世』 高橋 修編 高志書院 \3780  

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2017(訪城NO.1461〜)
    訪城数 3   新訪城 0  再訪城 3

01.28 埼玉 杉山城
01.21 江戸東京博物館 戦国時代展
01.14 東京 深大寺城
01.09 東京 浄福寺城

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                                             齋藤慎一・向井一雄[著] 吉川弘文館 \4536

 今月、吉川弘文館から出版された齋藤慎一・向井一雄[著]『日本城郭史』の紹介です
 イメージ 2普通の方が、「お城」と聞いて
、思い浮かべるのは姫路城やイメージ 3松山城のように堅牢な石垣に囲まれ、そそり立つ天守閣あるお城だと思います。また、雲海に浮かぶ「天空の城」と有名になった竹田城のような石垣だけの残る城も思い浮かべるかもしれません。しかし、それだけでなく我々が住むすぐ近くの山の中にひっそりと姿を残している数多くの山城もあります。それらの城の多くは、戦国期から江戸時代に使われていたものですが、お城はそれらの時代のみではなく古くから存在していました。お城が、戦国期の戦の中や江戸期の政治舞台の中で語られることが多いのですが、「城」自体の歴史については語られることはあまりありません。
 この本は、その稀な「城」自体の歴史(弥生時代から掘り起こし、奈良〜平安〜鎌倉そして現代人が城と認識する形を作る南北朝〜室町〜戦国〜安土・桃山〜江戸時代)の変遷を分りやすく書かれています。その中に、新たな指摘や興味深い解釈があまた見受けられ、内容の濃い記述です。
 さらに、「城とは何か」という哲学的な問いも発しています「城」の概念や形態は、その時代を生きた人々の生き様を映しているといえるでしょう。その人々のの生き様が、「城」を造り使ったわけですが、そこにある「城」とは?何か。かなり難問といえるかと思いますが、読み進める中で熟考するのもいいです。(まぁ〜小生にとってはボケ防止になりそうでした)

 以上、まことに持って大雑把なご紹介でしたが、内容は最新の研究成果がいたるところにちりばめられていますので、今まで知っていた事項を修正し、新たな歴史認識を得られるかと思います。ちっと値が張りますが、それ以上の収穫が得られる本と確信しています。本屋で見かけましたら、手にとって「序」と「展望」をちらっと読んでみてください。

 ゛新たな指摘や興味深い解釈があまた見受けられ゛ると書きましたが、その中でわたしが特に気になる箇所をいくつか書いてみようと思います。
①「城」を説明する際に、よく「土から成る」といった感じていうことがありますが、どうもそんな生半可なものではないようです
P178の「「城」とは平時の政治拠点と軍事拠点を両端に置き、時代的な背景のなかで、右に左へとウェートが変化しつつ、両方の意味を常に含む存在であったことが考えられ。」と、さらに、「軍事的に多様性を帯び機能分担が極端に求められた戦国時代は、城館の歴史において特殊な時代に位置づけられるべきものだろう。」
この指摘は、かなり刺激的なものでして、「戦国時代の城が城館の歴史の中で特殊な時代」であると。戦国期の城を追い求めるだけでは、「城とは何か」を知りえないということのようです。

②本書は、北日本や琉球などを独自の地域としてとらえ、かなり丁寧に言及しています。本書の記述からすると、日本列島を大きく四つ程に区分けする感じのようです。北日本(陸奥・出羽)−東国―西国―琉球といった感じでしょうか。この区分けは、網野善彦氏の東西論や赤坂憲雄氏の「いくつもの日本」論に繋がる感じがします。特に赤坂氏の列島4区分(※1)は民俗学からのアプローチですが、城の地域区分とも類似するというとても興味深いものがあります。その4区分の中でも北日本(陸奥・出羽)は、何か惹かれるものがあります。

P135の『城館づくりにおける東北地方の地域性は列島の城館史の中でも特筆に値する。」は、11〜12世紀の大鳥井遺跡・鳥海柵や柳之御所などから導き出されてものですが、その後のこの地域の城館の特色を濃厚に表すものといえるようです。列島の西部・中央部では古代山城がイメージ 5イメージ 4奈良期に途絶えますが、北日本では円弧を描く堀を持つ城館が16世紀半ば過ぎまで存在します。浪岡城・九戸城・根城・黒川城などは、そのような特徴を持つとともに群郭式の城館(※2)でもあります。この群郭式の城館も東北地方の城、とくに北東北に顕著にみられるものといえるようです。

※1 赤坂氏の4区分を市村氏が簡潔にまとめていますので、引用しておきます。(『岩波講座日本歴史』第9巻)
「道南―北東北と南九州ー薩南諸島に異質な地域が重なる領域を設け、北海道を中心に北方へ繋がる地域、奄美・沖縄を中心に南方へ繋がる地域、それらに囲まれた中央部に広がる地域に分け、中央部にも異質な地域の重複領域を設けて東西に二分し、列島を四つの地域に区分した。」
※2  群郭式の城館は、非求心的な構造で強固な権力構造を構築されていない後進的な地域のものと解釈されているようですが、本書では、それは「ピラミッド構造ではなく、連合による領主のイエ構造がそのまま城館の構成に反映している」としています。群郭式の城館が、南部氏の城館に多く見られる事にも関わるようで、戦国末まで南部一族間のイエ・一揆構造が克服されずに最後に九戸の乱に至る歴史的な経過になることとも符合するようです。

方形館
方形館が、開発領主が本拠地に構えた城館ではないといわれているのは知っていましたが方形館が、荘園内の政所に近似するものという指摘は初めて見ました。
P178「都市などに居住する領主が遠隔地にある所領を支配するために、いわば役所のような機関が方形館の様相でかまえられた」

④戦国大名の本拠のありよう
戦国大名の出自によって、様相が違ってくるとP325〜326の「守護の系譜を引き継いでいる本拠は、いずれも方形館と方格地割りが基調となった都市づくりをしており、本格的な要害を保持していなかったようである。」と。一方「守護家でなかった大名家は山城を構えた事例が多い。」と。
この指摘もかなり刺激的なもので、さらに、後北条氏では、伊勢宗瑞段階は非守護系で北条氏綱になって守護系になると。言われてみると納得し得る感じです。


まだ続きますかな?

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