久保木牧師のきらきら探訪〜ゆるりと生きる〜

オカリナ奏者で鹿児島在住の牧師が描くきらきらした日常。ぼちぼち更新していきます。

全体表示

[ リスト ]

水谷先生のブログ記事「某国ミサイル問題の共通項としての牧師説教問題?」
上記記事の応答とも言える
小嶋先生のブログ記事「これで説教?」
を読みながら、説教について、あれこれ考えさせられています。
 
わたしが最近思うのは、説教とは御言葉の解き明かしであるだけなのだろうか、
ということです。
 
生物学は死物学である、という批判がある、
ということを聞いたことがあります。
つまり、死んだものを解剖して学問にしている、という批判です。
(もちろん、生物学は生きているものの観察の結果でも充分あるんですけど…)
 
説教が御言葉の解き明かしだとして、
注解書や原典から忠実で、間違いのないものとして解き明かされたにしても、
語られているメッセージは命がないことがあり得ます。
 
つまり、
動物を解剖し、その詳細はわかったにしても
その動物が死んでしまっているかのように、
聖書箇所(テキスト)をバラバラに分解し、
精密に一つひとつを解説したにしても、
メッセージに命がないことが起こり得ます。
 
ヘブライ語、ギリシア語で聖書が読め、
注解書を読みこなせたとしても、
御言葉そのものが持っている命を
今、同時代を生きている人に吹き込むことができてないことが
あり得るわけです。
 
というか、ここで命を吹き込めないところから
水谷先生が指摘したような「不可の説教」としての迷走へ
つながっているとも言えるでしょう。
原語で読めて、注解書を読めるだけで説教できるなら、
ラクでしょうけど、そうはいかないですからねぇ〜。
 
証し、講話、世間話をネガティブにとらえることもできるでしょうが、
現代というコンテキストと向き合うには
講話的な部分や世間話の部分をも持つことが時には必要でしょう。
 
そして、証しとは、言葉が実体となったものとも言えますから、
御言葉の命を同時代を生きるものに吹き込む上で大事なように思えてなりません。
 
毎週、数十年前の証しを語るのはいかがなものかと思いますが、
1週間、次週の説教の準備をする中で、
生活の中で御言葉体験した証しは
とても重要なものだと私は思うのです。
 
それは、周囲から見れば、
とるに足りないささやかな御言葉体験なのかもしれません。
しかし、その体験を至上の喜びとして語る説教者って大事なように思うのです。
 
説教箇所から命を汲み取る感性だけでなく、
日常生活から命を汲み取る感性が説教者には必要であり、
時代を知る感性、会衆の抱えているものを掴む感性から得られたものが
織り合わされていく中で、説教が生み出されていくように思えます。
 
一週間のリズムの中で
牧師が先週の生活の中での恵みを生き生きと語り、
一週間準備した御言葉の命を汲み取って語ることは
どちらも必要なように思えます。
 
この1週間も神さまは生きて働いていたんだ!
という驚き、畏れの中、
御言葉に聞き入っていく…
そうした礼拝ごとのリズムも大事なのではないでしょうか。
 
いつ語っても変わらない説教であるよりも、
この2−3日、この1週間の恵みが織り込まれた説教は
毎週の営みがなされる礼拝説教では大事なように私は思うのです。
 
また、それが説教者自身が解き明かした聖書箇所が語るものと
説教者の生活が遊離しないための日々の訓練のようにも思わされています。

この記事に


.


みんなの更新記事