生きる意味を考える その3
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ユダヤ人精神科医であるフランクルのこんな言葉があります。
「人間が人生の意味は何かと問う前に、
人生のほうが人間に対し問いを発してきている。
だから、人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。」
ユダヤ人であるがゆえに
第二次世界大戦時に、ナチスによりアウシュビッツ強制収容所での生活を
余儀なくされたフランクルの深ーい言葉です。
言ってみれば、
フランクルがアウシュビッツにいる意味は何かと問う前に
アウシュビッツのほうがフランクルに対してどう生きるのかを問うている、
というわけで、
「なぜアウシュビッツにいなければならないのか?」と問うよりも
「アウシュビッツでいかに生きるか?」が問われている、
ということです。
私たち、それぞれのアウシュビッツがあります。
逃げたいけど、逃げ切れない運命っていうか…。
そうした試練にぶつかると「生きる意味とは何か?」と考えるんですけど、
フランクルが言ったのは
「その『生きる意味とは何か?』という問いよりも、
試練のほうがあなたに『この状況でどう生きるの?』と質問してるんだよ」
ということです。
過酷なアウシュビッツ強制収容所で生き抜いたフランクルらしい洞察です。
野球でたとえるなら、
7回あたりにかなりの点差で負けている状況のようなもの。
そんな時に
「何のために野球をしているのか?」を問うよりも
「この状況でどういう野球をするのか?」が問われている、
というわけです。
人生という試合を途中で投げ出すのか、
最後まで全力を尽くして、人生という試合を戦う抜くのか、
問われているのは私たちなんです。
ただ、アウシュビッツ収容所内で、収容前の生活をしようとしても無理だし、
圧倒的大差で負けている中で、一発逆転する以外は意味がない、と思うと
破綻しやすいのも事実。
野球も試合に勝つだけがすべてじゃないはずなんです。
たとえ負けても、真剣に取り組むから、感動があったり、
次の試合につながっていくものが生まれてきます。
投げ出して敗北なのか、実り多き敗北なのか、
同じ敗北であっても、試合の勝ち負けを超えた真の勝利があるはずです。
この辺は、人生のゴールとか道筋を変に固めてしまって
柔軟性を失うと人生を放棄しやすくなります。
ゴールや道筋が思うようにならなくても、
人生のその場、その時で得られるものは間違いなくあります。
フランクルだって、アウシュビッツ強制収容所での経験が土台となって
大戦後、彼は世界的な講演家、著作家として活躍することになりました。
今過酷な状況を生きていたり、当初の目標から遠く離れてしまっていたりする
あなたもその場で得られる実りが必ずあります。
今の経験が必ず生きてくるときがやってきます。
その意味でも、どう生きるのかを私たちは人生から問われています。 |