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神と戦争

「神の力は偉大ではあるが、その力の及ばない領域が存在している」 フーゴー・グロティウス
 
戦争もまた法の下にあることを説き、「国際法の父」と呼ばれたグロティウス。
彼の考える神の力の及ばない領域とは何だったのか?
全知全能の神と、暴力の究極の形である戦争。
相矛盾する二つの要素と、しかし世界は神の下にあるという大いなる前提。
それらを並立させるためには、神とて無力な場所が存在することを宣言する以外にはなかったのだろうか。
 
ここ最近、宗教関係の本を手にする機会が増えた。
私自身は特定の信仰を持たない人間なのだが、一般に「神」と称されるべき何かの存在を否定することまでは、正直に言って自信がないというのが本音だ。
私たちという存在を規定する何ものか。
それでも、問題は明らかにその規定の仕方なのであって、規定する側の存在自体にはあまり関心がない。
規定の仕方をもっと平たく言えば、「神」はどのようにすべてを「きれいごと」に収めるのかということになる。
 
無論、「きれいごと」に収めること自体を非難するつもりもない。
私にとって重要なのは、「神」が如何にして人殺しの最たる道具である戦争を、宗教という一個のシステムの中に包含するのか、という点以外にはない。
法律も人殺しの存在を前提としているように、人間とは基本的に同族殺しをする生き物である。
だから宗教が殺人を包含すること自体は極めて自然なことなのだと理解している。
くどいようだが、問題はその包含の仕方なのだ。
 
完璧な絶対者と「間違い」を犯す愚かな人間。
仮に人殺しが自然なのだとすれば、それを「間違い」と規定するのは欺瞞や隠蔽に極めて近接した行為になる。
個人的には殺人や戦争をしたいとは全く思わないし、そういった蛮行が世の中から完全に放逐されればいいと心から願うものの、自分以外の誰かがそうすることを止められないのが哀しくもリアルな現実だ。
正論を説くだけで暴力の存在を容認(肯定ではなく)しない人々がいることに腹の底からうんざりもする。
グロティウスの諦念にも似た嘆息を、正論好きな人たちはどのように理解するのだろうか...

大好きな街、ロンドンでの卑劣なテロに寄せて。


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新幹線徒然

年度末の三連休、最終日の新幹線は非常に混んでいた。
大体いつも新大阪終点の自由席に乗るのだが、名古屋まで立っている乗客が多かった。
旅行、結婚式、ビジネス、服装や荷物から何となく目的の見当をつける。
それぞれに、それぞれの新幹線が在る。
そうした偶然の重なりが、ひどく不思議な感じがした。

本を読み始めるとすぐに睡魔に襲われた。
しかし、席を求めて急ぎ通り過ぎる人々の荷物が何度も肩先に当たり、その度に目が覚める。
名古屋手前で眠るのを諦め、再び読書に戻るが眠りはもう訪れなかった。
腹を立てても仕方ないと割り切りつつ、名古屋を過ぎ混雑も解消してやっと少しだけ落ち着いた。
そういえば、通路側の席に座るのが実に久しぶりだった。

10年ほど前、月の半分から2/3を出張で過ごす生活を送っていた。
もちろん新幹線だけを利用していたわけではないが、帰省でしか使わない今とは全く比べ物にならない。
実験用のマウスが高速移動をする乗り物の実験に用いられて死んだニュースをいつも思い浮かべていた。
始めのうちこそ楽しくて宿泊を選んでいたが、やがて宿泊できる場合でも無理に日帰りするようになった。
自宅の布団で眠りたかったからだ。

今はすっかりデスクワークが中心の生活を送っている。
経費精算がルーティンからなくなって久しいが、頭の片隅には今も精算に負われた日々の記憶が残っている。
高速移動は疲れる。
しかし、一日中椅子に座っている生活も肩が凝って仕方がない。
もう何年も今のような仕事をしているのに、一向に慣れる気配が訪れない。

少し遡って金曜日の東京行きの新幹線。
たまたま隣り合わせた若者が、席に座るとすぐにパソコンを取り出し、一生懸命何かを確認していた。
そこまで緊急の仕事ばかりではさぞかし疲れるだろうと思ったが、もちろん余計なお世話に過ぎない。
私はその横で、少しだけ酒を飲み、本を読み、そしてわずかに眠った。
人に人生ありとまで言わなくても、新幹線にも様々な乗り方がある。
想いを取り出して見ることはできないが、想像を巡らせるだけでもささやかな時間潰しにはなる。


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循環

昨日、次男がいきなり昔の歌を歌い始めた。
X JAPAN の『紅』。
その辺は私もドストライクの時期(たしか高校生)なので、長男も交え風呂で一緒に三人で歌った。
どこで覚えたのかと訊いたら、昨年の紅白歌合戦の録画だという。
格闘技好きの私にはすっかり縁遠くなった番組に、実に久しぶりに感謝した。

私も両親が若かった頃の曲を覚えていた。
そのうちのいくつかは、今もカラオケに行けば(たぶん)歌うことができる(けどやらない)。
それでも、『高校三年生』とか、吉本がカバーしたが『明日がある』とか、旧い歌が胸に響くことは珍しくない。
『紅』がそんな風に引き継がれたのは少し驚きだが、同時に嬉しさも感じる。
そして時が確かに流れていることを実感する。

歌だけではない。
雑誌の付録のDVDなのだが、戦隊や仮面ライダーなどのヒーローものを特集していて、そこには私が生まれる以前に活躍していた変身忍者・嵐とかバロム・1とかが登場してくる。
次男がそれらをいたく気に入っていて、昨日だけで3回は同じDVDを繰り返し見た。
宇宙刑事ギャバンなど、小学校時代に馴染んだヒーローも出てきたので、私もそれなりに楽しむことがでた。
仮面ライダーフォーゼが昔のヒーローに対するオマージュを盛んに取り入れていたが、当時、今の次男と同じ年だった長男と共に過ごした時間のことも想い出されて感慨深かった。

あと二週間もすれば、年度が改まり二人ともそれぞれの新しいステージへと進んでいく。
もっと遠い先、二人が親になり、それぞれの子供たちと昨日のような時間を過ごしている場面を想像する。
不摂生な私はその頃まで生きていられる自信はないが、できれば昨日のことを想い出したい。
ちなみに長男は SEKAI NO OWARI が好きらしい。
その日のために、『スターライト・パレード』でも練習しようか。


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責任

家に帰ってきたときだけスーパーマンの左江内氏のドラマを見る。
それも昨夜が最終回だった。
他者への責任に疲れ、スーパーマンであることから逃れたいと思う瞬間。
それはきっと多くの人に訪れるのだろうが、問題はそこから先の態度のように思う。
左江内氏のように責任を失うことの孤独に気づける人は、決してすべてではあるまい。

軽重や質の違いこそあれ、誰もが(基本的には)他者への責任を負って生きている。
より正確に言えば、それぞれが、それぞれの生存のために、それぞれに責任を負い合っている。
自分だけに目を向けるから、自分だけが責任を負わされているように感じる。
他者が負っている自分への責任。
それは間違いなく存在するのだが、時として私たちは盲目になってしまう。

ありふれた言い方をすれば、人は一人では生きられない。
だからこそ、他者が負う自分への責任に対して最低限のリスペクトが必要なのだ。
出前の寿司桶を洗って戻すかどうかがテレビの番組で話題になったとネットのニュースで見たが、記事の論調にあったように、社会が物事を法律的な狭い意味での権利/義務の観点でしか考えなくなってきたのだとしたら、他者への敬意が忘れられるのも理解できる。
寿司桶を洗って戻すのは、法的にも道徳的にも義務ではないが、作った人への最低限の敬意の表れだ。

私の身近にも、他者のために負う自らの責任に耐えられず、忘れようと試みる人たちがいる。
あるいは、自分が負うべき責任にだけ敏感になり、結果的に他者への敬意を放棄する人たちがいる。
そうした人たちの、内心の孤独のことを想う。
私にも時として、家庭や職場、その他諸々に対する責任の重さに負けそうになる瞬間が訪れる。
それでも何とか踏みとどまれるのは、辛くても孤独ではないからだ。
私に対する責任を負っている多くの人々の、想いを確かに感じるからだ。


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忘却の反復

某学園をめぐる問題が泥沼化しそうな気配だ。
登場人物を見ていると、何となく「日本会議」周辺のヘゲモニー争いに関わる話のような気がする。
メディアはその辺には一切触れようとしない。
だから問題の真相がわかりにくくなっている。
私が目にした限り、菅野完が『日本会議の研究』の著者として紹介されないことに大きな違和感を覚える。

現職総理大臣が夫人を経由して寄付金を渡したという話が出てきた。
真実は是非とも明らかにしてほしいが、一般論として「ない」ことを証明するのは非常に難しい。
叩けば埃くらいはどんな政治家からも出てくる。
また、防衛大臣の件もあり、聴衆は政治の口にすることに対して更に懐疑的になっている。
まして、領収書のような確固たる証拠が出てくる可能性はあまり期待できない。

政治家を庇うつもりは毛頭ないが、「言ったもん勝ち」が横行する事態は明らかに好ましくない。
それを「ポスト・トゥルース」などと呼んで違った衣装を着せてはいるが、中味は何も変わっていない。
「嘘も100回吐けば真実になる」と言ったのは誰だったかを私たちは想い出すべきだ。
それはたかだか100年ほど前の話でしかない。
時代の風潮がよくない方向へ流れていくことを、今私たちは目の当たりにしているはずなのだ。

個人的な意見だが、問題はホコリの方には存在しないことをしっかりと見極める必要がある。
哲学者のドゥルーズが言った通り「この世に二つとして同じ埃はない」のだが、埃の違いが意味を持ってくるのは背後に横たわる構造を正しく理解した後のことだ。
構造にこだわる人も、埃にこだわる人も、もう一方との関係性の意味を忘れがちだ。
繰り返し言ってきたように、そうした忘却が生み出す空隙に忍び込むもののことを私は何よりも怖れる。
私たちの愚かさもまた常に反復されることを決して忘れてはならない。


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