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「マルドゥック・スクランブル-圧縮・燃焼・排気-」冲方丁

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「マルドゥック・スクランブル-圧縮・燃焼・排気-」冲方丁(2003)☆☆☆★★[2010050]
※[913]、国内、SF、未来、少女娼婦、アクション、暴力、カジノ

ルーン・バロット、ティーン・ハロット(未成年娼婦)である彼女は、仕事の間、心の殻に閉じこもり人形のように無反応であることを珍重された。卵の中の生まれる前の雛を煮殺すその料理になぞらえ、いつしかバロット(雛料理)と呼ばれていた。人形のように無反応な女を好きな客は多かった。しかし店は半年前に閉鎖された。行き場を失った彼女を買い、新たな身分―偽造した市民登録証‐を与えてくれたのは、スラムから成り上がり、今やマルドゥック・シティ(市)でも有数のショー・ギャンブラーとして名を馳せるシェル・セプティノスであった。
与えられた身分に疑問を持たないこと、それが彼女に与えられたルールであった。しかし彼女は一度だけ密かにそのルールを破った。そのことがシェルの知るところとなる。最高級のエアカーの中に閉じこめられた彼女を爆炎が包み、絶体絶命の危機に襲われる。
彼女を救ったのは委任事件担当官のネズミ型万能兵器のウフコック・ペンティーノと、かつて戦争の時代、宇宙戦略研究所でウフコックの製作に携わったドクター・イースターのふたりであった。彼らはその負の過去より、自分たちの存在意義を確立する必要があった。すなわち“有用性”の証明。少女連続殺人事件の容疑者シェル・セプティーノを独自に捜査していたふたりは、シェルがバロットを殺害しようとする現場に居合わせた。燃え上がるエアカーに置き去りにされ、全身大火傷で瀕死のバロットの命を救うため、ドクターは代謝性の金属繊維で構成された特殊な能力を持つ人工皮膚を彼女に移植した。それは人命保護を目的とした緊急法令において特別に許可された技術であった。この人工皮膚の移植において、彼女はまた新たな三つの能力を有することになった。皮膚感覚の加速装置、驚異的な空間把握能力、そしてあらうる電子機器における電子操作能力。
“君の事件”をブロイラーハウス(法務局)に事件要請し、その担当として我々を指名して欲しい。バロットはドクターにそういわれる。そしてバロットはドクター、そしてウフコックを相棒とした三人でシェルを犯人とする捜査を行うことになった。
ウフコック(半熟卵)と名付けられた金色のネズミ型万能兵器は、多次元の亜空間に貯蔵している物質を使い、己の身体を様様な武器や道具にターン(変身)させることができた。
ウフコックを相棒としたバロットは、ウフコックを武器にあるいは防護服に変身させて事件を追う。
己の記憶を人工的に消滅させ、新たな人生を送り始めたシェルは、現在オクトーバー社に雇われているディムズデイル・ボイルドに自分の不都合となる、殺し損ねたバロットを消すことを命じる。シェルはそのオクトーバー社の経営するカジノの運営だけでなく、マネー・ロンダリングを含むオクトーバー社の汚れ仕事を引き受けていたのだった。
かつてウフコックとパートナーであった、やはり負の過去を持つボイルドはバロットを追う。そしてバロットの前にはボイルドに雇われた5人の臓器フェチの誘拐集団が立ちはだかった。またもや襲う危機の前に、ウフコックの持つ強大な力にバロットは陶酔し、“濫用”する。その結果ウフコックはバロットから乖離してしまう。ウフコックを“喪失”することを恐れるバロット。
ドクターたちとともに“楽園”と今は呼ばれる研究所を訪れたバロットは、そこでシェルの記憶がカジノに保管された100万ドルチップ四つに隠されているという事実だった。シェルの記憶データを入手するため、合法的にポーカー、ルーレットを制していくバロットたち。最後にブラックジャックのテーブルに辿り通いた彼らの前に立ちはだかる最強のディーラーとの勝負。バロットは無事、勝負に勝ち、シェルの記憶データを入手することができるのか。そしてかつてのパートナーであるウフコックを渇望するボイルドが彼らを追い、近づいてくる・・。果たして、彼らの命運は?
(あ、また無駄に長いあらすじだ(苦笑))

本書は最近読み、万人にオススメできる一冊として高く評価した「天地明察」を書いた作家のSF畑での代表作ともいえる作品。ネットの本読み仲間であるでがらしさんから貸していただいた。いわく「天地明察」では、本当の冲方丁の魅力は伝えきれない。
成程、冲方丁という作家はこういう作品を書く作家だったのか。この作品で用いられる表現方法はカッコいい。多くの言葉で普通の日本語にカタカナ英語のルビを振る。「幼女(ニンフ)」「賭け(ディール)」「電子攪拌(スナーク)」「殻(シェル)」などなど。近未来という物語世界を構築するための手法のひとつである。しかし、それはことSFという分野では当たり前の手法であるが一般小説として見た場合はどうなのだろう。あるいは、戦闘場面のディティール(細部)に拘った表現。
残念ながら、個人的には本書は高い評価につながる作品ではなかった。以前より述べているが、ぼくは「物語」が好きなのであり、まず小説とは「物語」がきちんと成立していることが条件だ。残念ながら、本書はテクニカルな表現、あるいは場面(シーン)に拘りすぎていて、肝心の「物語」のバランスは決してよくない。たとえば、でがらしさんや他の冲方ファンが絶賛する三分冊のなかの、ほぼ一冊分の量に相当するカジノのシーンは、その場面が魅力的な描写であることは否定しない。しかしそこは決して物語の本筋ではない。カジノの場面はもう少し、簡潔にまとめ、カジノの印象が強すぎるためにインパクトの弱くなってしまったラストのほうを強く書くほうがバランスはよいだろう。敢えて、当初書きあげた1,800枚を超える原稿用紙をそのまま出版したことの意味と意義は理解するが、それ故、客観的な評価は低くなってしまう。
ただし客観的に高く評価されるためにバランスよくしたものが、実際によい作品になったかどうかは不明だ。あるいはこれだけコアなファンを作ったかどうかも同じく。つまり、作品としてとりあえず「成功」しているこの作品の評価はその辺が難しい。

前述のでがらしさんが、本書について、あるいは冲方丁作品についてツイッターでこう呟く。「ストーリーの魅力が物語の基本。一方で、魅力的に描かれる一つの場面、というのも物語の大きな魅力。で、私は一つの場面、一つのシーンに魅力を感じると、その作品を絶賛してしまう傾向がある人なんだろうなぁ。よくも悪くも。」「冲方丁の作品についても、安定したストーリーが前提にありながらも、それ以上にアクションシーンなどの「格好いいシーン」にやられているのだと思う。特に シュピーゲルシリーズは、畳み掛けるアクションシーンが何よりの魅力だからなぁ。背景の複雑な国際情勢も面白いんだけれど。」

これは以前、海堂尊の書くチームバチスタシリーズの「螺鈿迷宮」[http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/45192612.html ]のレビューでぼくが語った『第一作「チームバチスタの栄光」で白鳥が語った「根幹より枝葉やディティールのほうが断然リアルで魅力的」という言葉は、この作品でもしっかりと生きている。キャラクターものの作品に過ぎないならば、決して失敗ではないのかもしれない。しかし、キャラクターにのみ、あるいはディティールのみに拘るような作品をぼくは高くは評価はしない。』を思い出させた。

成立したストーリーのなかでディティールに拘ることをよしとする姿勢と、あくまでも作品全体の調和を評価するか。それぞれの読者の楽しみ方であり、あるいは評価方法だろう。
僕は“どちらかといえば”“かなり”後者に属する読み手であるが、しかし、それが正解だというつもりは全然ない。

蛇足:本書のカジノのシーンを読んでいて、カジノの表記について「カシノ」という表現に拘った、国際ギャンブラーである森巣博という作家の作品の幾つかを思い出した。リアリティというよりリアルなカシノがそこにはある。

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「去年はいい年になるだろう」山本弘

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「去年はいい年になるだろう」山本弘(2010)☆☆☆☆★[2010043]
※[913]、国内、現代、SF、小説、タイムトラベル、パラレルワールド、山本弘

2001年9月12日水曜日 朝7時30分。45歳のSF作家である僕、山本弘はテレビのニュースの映しだす画像に釘付けになった。ニューヨークのワールドトレードセンターの二つの高層ビルにジャンボジェットが二機突き刺さりそれぞれが崩れだした。ニュースはさらに三機目、四機目の航空機が他の建物に突入し被害を大きくしていると告げる。悲惨なニュースにも関わらずキャスターは笑みを浮かべ、そして、さらに信じられないことを言い出した。「この事件は、起こりませんでした。わたしたちガーディアンによって食い止められました。」ガーディアン、それは24世紀の未来から人々を救うためにやってきたロボット集団。我々にとっては「現在」であり、あるいは「未来」であるが、彼らにとって「過去」となる世界に起きた(起きる)事件、事故により被害に遭う人々を救うために未来からやってきた。彼らはそう語った。
まるでSFのような出来事。しかしそれが現実になってしまった。それはSFで飯を食べている僕にとって、死活問題だった。書きかけている長編SF小説で書こうとしていることはもう書けないのかもしれない。愛する10歳下の妻と5歳の幼稚園児の娘を抱えて、僕はこれからどうしたらいいだろう。そんな僕のもとにカイラ211と名乗る、可憐な女性の姿をしたガーディアンが現われた。そして僕が選ばれたひとりであることと、彼女がずっと僕の担当であったことを告げる。彼女は、未来の世界の僕からのメッセージと、未来の僕が書いた小説の原稿データを持ってきた。それらは幾人かの未来からの僕からのメッセージだという。この情報をどう利用してもいいと言われたが、未来の僕の書いた小説は、果たして、いまの僕の小説といえるのだろうか?
彼女の説明によると、現在500万体いるガーディアンは歴史を一年ごとに遡っては、そこに10年間滞在し、歴史を改変することを繰り返している。前回は2002年の世界に到着し、2012年まで滞在して、その後2001年にやってきた。今回も2011年になったら、この世界を去り、今度は2000年の世界を訪れるという。それぞれの世界は、ガーディアンと出会った地点から本来の歴史と違うパラレルワールドを生成していくという。
とてつもない科学力を持つ彼らによって、軍事政権、独裁政権は解体され、あらゆる国の軍の持つ、攻撃兵器は破壊された。また地震などの災害についても、事前に告知がされることにより、本来、被害を受けていた人たちは無事、避難でき、テロ等の犯罪も未然に犯人が取り押さえられるなど、事故、事件、災害は確かに回避されていた。彼らに組み込まれた根源欲求は、人間を傷付けたくないというもの。それが彼らの行動原理である。その結果、戦争やテロを阻止し、飢餓や天災や事故や犯罪から人間を守ることは彼らの欲求として、行動になっていた。
数値として彼らがあげる、彼らによって救われた人間の数は本来の歴史と比べ、多大なものであった。しかし、彼らが現われたことで、未来を知り、逆に未来に希望を持てない人間が出てきたことも事実であり、あるいは彼らが救いきれないケースもあった。だが、それらを差し引いても救われた人の数のほうが絶対的に多かった。それは理論的には正論であったが、しかし、ひとの幸せとは救われた人間の数で評価すべきものなのだろうか。
可憐で魅力的な姿をしたカイラに魅力を覚えつつも、妻と娘への愛情を大切にしていた僕の生活も、彼らの出現に伴うある出来事をきっかけに妻との間に少しずつズレが生じてくる。ガーディアンたちの純粋な善意による行動は、しかしまた起きなかったはずの悲劇をもたらしていた・・。
中堅SF作家である山本弘が現実の自分をモデルに繰り広げる、パラレルワールドとタイムトラベルをテーマにしたエンターティメントSF。果たしてガーディアンと出会った2001年の僕、山本弘の未来は、如何に?

評価は甘めで星四つ。この作家が好きという贔屓目もあるが、本書で取り上げられているこの作家の作品や、あるいは現実のSF作家山本弘氏を取り巻く世界をぼくが少し知っている分、より楽しめたという点も大きい。逆にこの作家のことを知らない(たぶん、そうすると昨今のSF界や、それに近いアニメ、小説、マンガなども知らないと思うので)と、もしかしたら少し敷居が高い作品なのかもしれない。パラレルワールドとタイムトラベルという設定、アイディアだけでも充分楽しめる作品ではあるが、この楽屋落ち的なおもしろさが分からないと本書の魅力を充分楽しめるとはいえない。そうした点で個人的には評価するが、万人が楽しめる作品かどうかは疑問だ。勿論「少し」知っているぼくより、「よく」知っているSFファンのひとのほうが本書は、より楽しめるのだろう。しかしぼくごときの浅い知識でも充分楽しめる。「神は沈黙せず」「アイの物語」、あるいは昨今のラノベの潮流、SF界の出来事。卑近なところでは「鈴宮ハルヒ」シリーズで使われた「禁則事項」という言葉にニヤリとした。2001年にはまだなかった言葉を使ったカイラの冗句。あるいは作品に踊る、現実の作家、漫画家、雑誌、小説、アニメの名前、まさにこの10年を振り返る懐古的な楽しさもあった。
一方、単体の小説として見た時、終盤からの失速が残念。本書を、愛する奥さんへ宛てた作家のラブレターだというネットで見かけたが、ぼくも同意する。しかし、そうであるあるならば、小説とはいえ、こうした悲劇に結末が帰結するのは残念だ。ありがちなSFの設定がそのままありがちなSF的な悲劇に終わったということが残念だ。これでは普通のSFだ。同じ作家の他の作品(たしか「シュレディンガーのチョコパフェ」だった?)のように、本書はおもいっきりノロけてしまってもよかったように思う。世界にどのような悲劇があろうとも、妻子を愛するこの作家は永遠に健在とか。あ、そうすると、他の未来の世界で別の悲劇に見舞われる山本弘との整合がとれないか。いや、ならば、いっそ、山本弘の妻子に対する愛情はどの世界においても一貫してブレない、という作品のほうがよい。おそらくこのシャイな作家にとって面映いものであろうが、ここはガチガチのSFではない、気軽に読めるSFとして、エンターティメントに徹したほうがよかった。

前述したとおり、本書はガチガチのSFではなく、気軽に読めるSFである。パラレルワールドを論理的に扱う作品ではあるが、決して厳密に、あるいは厳格にその理論、理屈を適用しようとする作品ではない。ある意味、作家の都合のよく書かれている作品だろう。ぼくがSF小説で覚えた、いい加減なバタフライ理論で行けば、例えばガーディアンと人間が出会った瞬間に、おそらく災害も含め、その先は元の歴史とは異なっていくはずであり、決して本書のように、「一分一秒たり過たず」の予告はできないような気がする。そこを作品の齟齬と考えるか、お話しの設定として許すかによって、作品の評価も変わるだろう。ぼくは後者と考えたい。
決して、客観的に本書を高く評価はしないが、本書はほかにも語ってみたいアイテムが山積みだ。パラレルワールド、人間の幸せ、ひとの未来、などなど。
そういうことを考えてみるきっかけとして、本書を読むことをオススメしたい。

蛇足:本書でも扱われるこの作家の作品「アイの物語」は、本書を読まなくてもオススメの作品。とくに、この一冊だけは本書を読む前に読んでおくことをオススメしたい。

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「算数宇宙の冒険−アリスメトリック!−」川端裕人

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「算数宇宙の冒険−アリスメトリック!−」川端裕人(2009)☆☆☆★★[2010020]
※[913]、国内、現代、小説、数学、少年少女、数学、桃山町

桃山町は東京23区の端に位置する“都心の田舎”。弓の形に山肌をそぎ落とした弓削山がある。主人公は「天下一寿司」の孫息子、千葉空良。友人二人に転校生一人が加わった四人で立ち向かったある出来事。
それは小学校6年生の秋から冬の間の出来事だった。きっかけは夏休み直後のこと。まわりが受験に忙しいなか、進学塾をやめた空良は急に暇になった。クラスで同じように受験をしないユーキとアランと自然と一緒に行動するようになった。ユーキの本名は河邑有希。成績優秀で、5年生の時には算数の大会でメダルをもらってきた。運動もできる。でも猛烈な優等生でもない。態度もでかくて、空気も読めない。無視といういじめにあっても、堂々としていた。四六時中、何かと闘っている、そんな女の子。
アランは5年生の途中からの転校生。母親がインド系イギリス人だそう。すごいイケメンと女子が騒ぐけど、本人はいたってクール。
そんな二人に対し空良はごくごく普通の男の子。成績も普通だし、クラスのなかでも空気を読もうとする。だからユーキやアランとつるむなんて、考えもしないことだった。それなのに、空良のかあさんに「ワンダー3」と呼ばれる3人組になるなんて。
それはユーキの発案だった。桃山町の不思議なものを探索しよう。空振り続きだった。けれど弓削山の百山神社に行ったとき不思議な出来事に出会う。百山神社には算数の問題が書かれたた絵馬がたくさんあった。ユーキとアランが問題で盛り上がっていたが、問題の内容が理解できない空良。ふと動くものを追いかけた神域で三人は三つ眼のウサギのぬいぐるみに気づく。そのとき空良の携帯に不思議な電話がかかってきた。算数宇宙人を名乗るその声は、地球を救うため必要な人間が集まるのを待っている、あと1ケ月、それまで眠って待っている。そう伝え、電話は切れた。
そして1ケ月後。転校生がやってきた。一之瀬那由。謎めいた少女。彼女は三つ眼のうさぎのぬいぐるみを腰につけていた。そしてユーキの問いかけを、友人を見つけに来た訳ではないと無視するのであった。
そんな四人は百山神社の七年に一度行なわれる算法大祭の「算数宇宙杯」に参加することになる。学校にある、謎の算数小部屋で比多互良(ピタゴラ)先生や辺流遥遠(ペルンハルト)先生から特訓を受ける四人。その内容は素数から始まりゼーダ関数、リーマン予測にまで及ぶ。他の三人とは違いその高度な内容を理解できない空良であった。理解できなくても鑑賞ができれば空良はいいと言われる。
四人が参加した宇宙杯では、いつの間にか現実世界から複素数平面にいざなわれる。数学世界で問題を解くことが、実は数学世界の戦士としてこの地球を救うことになる。「1+1」の足し算より「1×1」の掛け算のほうが初歩となる次元の違う異次元異世界宇宙。それぞれの存亡をかけた戦いが今、はじまる。(のか?)

算数までは得意だったが、数学になって分からなくなった。
本書は『「算数」宇宙』と言うが「数学」がテーマ。言葉の正しい定義ではない。ぼくにとって「算数」が、りんごやみかんで具体的なイメージを思い描くことができるものだとすれば、「数学」はそれができない。数式、数学理論の存在を理解できても、そのイメージを思い浮かべることはできない。それは二次元から三次元を思い浮かべることができないのに似ているのかもしれない。数学や数式で宇宙や音楽を表すことができるということはよく聞く。数式で色々なことを表現するということはSFだけでなく、最近では普通の小説でも見かける。物理学で経済状況を表すカオス理論とかバタフライ効果とか。同じ作家の書いた「リスクテイカー」でも取り上げられていた。「リスクテイカー」では理論を理解しなくても物語を味わうことができた。しかし本書は、取り上げられる数式をおぼろげにでも理解できないとチンプンカンプンだ。数式を理解できなくても鑑賞できればよい、と主人公は言われる。しかし小学生の主人公が辿り着く鑑賞にすら、ぼくは辿り着かない。

それでは理解できない数式の部分を無視すると、本書はどうも陳腐でありきたりな物語にしかすぎないように思える。

あとがきで著作のきっかけを「リーマン予測にまつわる本をまとめて読んだ際、本作の副題になった「アリストメトリック」という言葉がふいに降りてきました。数論(arithmetic)にも似ていて、不思議な世界を冒険する「アリス」の計量(metric)とも読め、(後略)」と語る。語呂合わせはわかるが、しかしこの場合「アリス」はAlice(Alice in Wonderland)であり、けっしてarithではない。副題に「アリスメトリック」をつける意味も、本書からは読み取れない。

作家は、アリスさながらにウサギに誘われ異世界に飛び込む少年少女を描く。異世界に飛び込むことを古典小説から着想を得、本歌取りすることについては問題ない。しかし突然、何百年前に地球に落ちてきた宇宙船の存在や、そして算数の問題を解くことでこの世界を救うという壮大な目的はいかがなものなのだろう。
こうしたアニメやマンガ的な設定について、この作家は失敗しやすい気がする。「せちやん」や「竜とわれらの時代」という他のこの作家の大好きな作品でも、一部の現実離れした設定が少し残念だったことを思い出す。その設定は現実に起こりうることなのかもしれない。しかし書き込みの不足が、リアリティーの欠如を生む。薄っぺらい「お話し」が作品に混ざりこんできたような、そんな、雰囲気を壊す違和感を覚えたが今回も同じだ。

少しでも数式の表そうとするものが理解できたなら本書はもっとおもしろいのだろうか。
ミステリーで謎解きがうまくはまったとき、読者はカタルシスを覚える。本書も数式がすっきり理解できたならば、そうしたカタルシスを作品から得られるのかもしれない。もっと単純で基礎的な数学問題ではあったが、森博嗣のデビュー作「すべてがFになる」の最後の謎解きで感じたカタルシスの、さらにもっと高度なものを、本書を読んで理解(わか)るひとには感じることができるのかもしれない。しかしぼくにはさっぱりだ。

本書に関する幾つかのレビューで、本書の設定が「涼宮ハルヒの憂鬱」に似ていることを指摘する。ぼくも同感だ。本書の主人公たちの設定はまさしく「涼宮ハルヒの憂鬱」のSOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)である。ただ本書の主人公は、涼宮ハルヒという「少女」ではなく、そのハルヒにふりまわされるキョンという少年の役どころに当たる空良に変わる。しかしハルヒに相当するユーキの思いつきで「不思議なものを探す」というのは、まさにハルヒが行なったことである。SOS団と違うのは「みくるちゃん」という可憐な少女に相当する登場人物が不在なだけ。感情を顕にしないクールな転校生、一之瀬那由は長門有希に相当するし、アランのイケメンぶりも古泉くんを彷彿させる。しかしそのイメージの重複は、作品に生かされているともいえない。いやさらに乱暴に言えば、本書では主人公たちが3人組、あるいは4人組でなければならない必然もないように感じる。

さらに昨今のアニメ映画「サマーウォーズ」を引き合いにアニメ化を促す評も見られた。おそらく本書をアニメ化(映像化)したら、美麗な空間がスクリーンに広がり、見栄えはするだろう。しかし物語として鑑賞に耐えるものかどうかは疑問だ。
「サマーウォーズ」に関わらずコンピューター(インターネット)のなかのヴァーチャルワールドで、本書で言う算数世界(複素数平面)で、アバターであり、擬人化したAIでが、あるいは作品の登場人物たちが、ひとのかたちをしたキャラクターとして活躍することが描かれることは昨今、当たり前になってきただけ話しなのかもしれないということだ。本書を読んでいて、確かに宇宙空間のような空間にグラフ用紙のごとく格子が引かれ、その上を登場人物たちの歩くさまが想像された。しかしそれは昨今のアニメや映画の表現があればこそで、もしかしたら古きディズニー映画「TORON」でコンピュータ空間を「ひと」が闊歩することが描かれて以降の常識なのかもしれない。アニメあるいはCG技術の発達のなかで美麗に描かれるそれらの「異世界」で「ひと」が活躍する物語は、端的にいえばファンタジー世界で登場人物が活躍することと変わりはない
ここで映画「サマーウォーズ」を深く語るつもりはないが、あのAIと、主人公たちの戦いが、擬人化されたウサギや、アバターという観客が感情移入しやすい「ひと」型のものでなく、ただのデータとして(それをどう描くか別として)捉え描いていたとしたらどうだったのかと思うところもある。
映像化により、もし数式への理解を見事にビジュアル化し、数学の苦手な読者でも「鑑賞」できるものへ変換することができるのならば話しはまた違うのかもしれないが、そんな素晴らしい映画なんてできるのだろうか?
読者対象が不明確であることや、取り上げる数式や理論の説明が中盤以降、駆け足になっていたり、省かれたりしている点をも踏まえ、好きな作家の作品ではあるが今回の評価は低い。もちろんぼくが「数学」を理解していないことが作品の理解を遠ざけていることは間違いない。しかし一般読者を対象にした作品ならば、もう少し「分かる」ように書いて欲しかった。

蛇足:本書はこの作家の「銀河のワールドカップ」と同じ桃山町を舞台にした作品である。宇宙や銀河、そうした言葉をキーワードにするが、これも活かされた設定とはいえない。

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「残される者たちへ」小路幸也

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「残される者たちへ」小路幸也(2008)☆☆☆★★[2009036]
※[913]、国内、現代、小説、SF、団地、ミステリー

読み終えてみれば決して目新しいものではない。うろ覚えの記憶でいうならば最後の部分は「黄泉がえり」(梶尾真治)のそれに少し似ているかもしれない。あるいはぼくらが子どもの頃読んだジュブナイルSFに似た雰囲気。
失った記憶の謎を求めた主人公の物語は、結果的にはミステリーではなくSFジャンルの作品になっている。作品にとりあげられるような得体の知れない「存在」について、生理的に受け入れられない読者もいるだろう。残念ながら客観的には、到底、高い評価には至らない。しかしそれでもぼくは、この作家の書く、見返りを求めない無償の行いの物語に、いつもやられてしまう。

寂れていく団地を舞台に、過去の記憶の欠損の謎を求める主人公。
かっては明るく騒がしかった団地。しかしもはや団地は寂れていくばかり。出て行くひとばかりで新たに入居するひとはいない。そこにひとが住んでいた痕跡があるがために残された団地には一層寂寥感が残る。
あぁ、これは「みなさんさようなら」(久保寺健彦)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/54851481.html ]と同じ、団地というひとつの時代の記号に郷愁を馳せる物語だと思いながら読み始めた。(※注「みなさんさようなら」は決して、それだけの物語ではない)しかし本書もその部分を否定はしないが、それだけの物語ではなかった。

高校時代の友人と独立した広告代理店を営む川方準一。ある日、彼のもとに小学校の頃の同窓会の通知が届いた。
卒業手前で引っ越してしまった<方野葉>。37歳の彼にとって、その頃のことは思い出せば楽しかった出来事しか思い浮かばない。しかしその名前にはなぜか苦々しい思いがあると無意識に思いこんでいた。
生まれてから小学校卒業の手前まで、小学校を敷地に含む<方野葉団地>に準一は住んでいた。小学校の卒業間近、父親は失踪した。
池袋のホテルで行われた同窓会に出席した準一。懐かしい呼び名で呼ばれ、他の面々のことは思い出すことができた。しかし同窓会の幹事をしている今も団地に住むという押田明人のことがどうしても思い出せない。そのことに強い不快感を覚える純一。
当時、ジュンチ兄ちゃんと慕ってくれた、藤間未香とも再会した。いまも準一と同じ独り身で、精神科のカウンセリングをしている彼女もまた団地を出た人間であった。
いっぽう、今、団地には未香の患者である中学生の少女、芳野みつきが住んでいた。母親の実家で母親の家族とともに自動車事故に遭い、ひとり生き残った少女。不思議なことにみつきには自己の際、彼女をかばった母親の記憶があるという。
記憶の欠損の原因を求め、未香とともに訪れた団地でみつきの友人が団地の屋上から飛び降りるという事件が起きる。そしてそのとき準一は不思議なアザの存在に気づく。それはある特定の人にしか見ることのできない不思議な形のアザ。
最後に明かされる悲しむべき準一の記憶の欠損の理由と彼らの存在。果たしてその正体とそして彼らが行なおうとすることは?

「21-twenty one-」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/57343193.html ]に引き続いて読んだ小路幸也。残念なことにふたつの作品とも客観的には高い評価には及ぶべくもなかった。しかしそれでも本書はぼくの心に響いた。それはこの同じ作家の作品「そこへ届くのは僕たちの声」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/8447887.html ]にあったと同じ無償の行いのせいかもしれない。代償を求めずただ自分たちにしかできないことをただ行う。声高に正義を叫ぶでなく、ただ坦々と行なう正しいこと。いやそれは「正しい」と言えるのかどうかさえ不明。それでも彼らはそれを行なう。残される人々のために、己の存在さえかけて行なう。
冒頭に述べたとおり、こういう人智を超えたようなもの存在について受け付けない人もいるだろう。またもう少し書き込みをすべき、そう、例えば「神は沈黙せず」(山本弘)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/47591209.html ]のようにと思うだろうことも理解できる。
そうした欠点を踏まえ、なお、この作家の描く読者なメンタリティーな部分に訴える郷愁感、そして彼らが坦々と行なう「正しいこと」にぼくの心はやられてしまう。
いや、決して素敵な小説とまでは言えないのだが、。

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「塩の街」(ハードカバー版)有川浩

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「塩の街」(ハードカバー版)有川浩(2007)☆☆☆★★[2008114]
※[913]、国内、近未来、小説、SF、塩、陸上自衛隊、第10回電撃小説大賞<大賞>受賞作

どうにも食指が動かず、読むのをためらっていた有川浩のデビュー作。読んだのはハードカバー版。第10回電撃小説大賞<大賞>受賞作として最初に出版されたものは電撃文庫、つまり最初の出版は文庫本で出版された。今回のハードカバー版は本編の設定の幾つかの変更と、本編にまつわる登場人物を絡めた後日譚、あるいは承前譚が追加される形での出版。同じ作家の「空の中」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/37692234.html ]「海の底」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/37864782.html ]と並ぶ、自衛隊三部作の一冊として体裁を整えての出版でもある。そういう意味で、ラノベ(ライトノベル)レーベルでのデビュー二作目以降がすべてハードカバーで出版され、かつ売れているというのはこの作家が稀有な才能の持ち主である証明ともいえる。ただし、設定の変更や、後日譚、承前譚の有無の如何に関わらず、本書についての感想は、文庫本でもハードカバーでもぼくにとって変わらないものであったろう。「図書館戦争」シリーズの開花でその才能を高く評価した現在の有川浩と比べれば、正直に言えば、その才能の片鱗を垣間見ることはできるのだが、よく言えば荒削り、悪く言えば及第には遠いというところか。

いや、特別にこの作品が悪いわけではない。ただぼくという読者にとって、特別に良いとか、胸を打つとか、心に惹かれたりするとか、そういうものがなかった。「塩の街」というタイトル、あるいは簡単な作品の紹介からぼくが想像していたものを超えるものでもなく、あるいは、ひとつのSF作品としてはかなり説明不足のままに解決に至る。作家が書きたかったのはおそらく「塩の街」の情景ではなく、「秋葉と真奈」という滅びゆく世界における一人の男と一人の少女というシチュエーション(状況)なのだろうし、この作品を受け入れる読者が求めるものもそこにあったのだと思う。

あとがきで作家はヒロインである少女真奈の年齢について、編集部から中学生、いや、せめて17歳にしてほしいと言われ、文庫では17歳で出版した経緯を語る。今回のハードカバーでは真奈の年齢をもともとの設定であった18歳に戻した。対するヒーロー秋庭の設定は27,8歳。18歳の少女と27,8歳の男性というシチュエーションの物語。対する編集部の最初の提案は中学生の少女と、22,3歳の男性。作家はあとがきで自分の作品の方針を「大人にもライトノベルを分けてくれよ」であったと語る。それは確かに、この主人公たちの年齢設定の問題に現れるものでもあるのだろう。ただ作家の主張が、ひとつの小説として成功したかどうかの判断は微妙なところである。これは同じ作家の「海の底」を評し、ぼくが語った、登場人物が幼すぎる点にも通じる。本書でも作家が設定を主張した「18歳の少女」には思えないほど主人公、真奈は幼い。シチュエーションとして、おずおずと惹かれあい結ばれていく男女という物語は確かに描けているが、しかし「大人の」というリアリティーはどうなのだろう。
「もう少し深く人間が書かれるべきである。」これも彼女の作品について、ぼくが何度も語ってきたこと。この言葉もこの作品にも当て嵌まる。それはまた、本書が彼女のプロとしての最初の作品だからこそ、またさらに強く思われることなのかもしれない。未完成の度合いが強い。それはまたハードカバーにのみ収められた、後日譚や承前譚が新たに重ねれば、重なるほど、強く感じられるのかもしれない。本来、こうしたエピソードが積み重ねられれば、重ねられるほど、登場人物の「人間」は強く感じられるものだが、少なくともぼくにとっては、それを感じることができなかった。

結局、本書を読んでいる間中、まとわりついて離れなかったのは、どこかで見たような、読んだような既視感。かって読んだSF小説や、マンガにあったような物語。そして、せっかくの「塩の街」という設定も決して活かしきれてはいない。個人的にはSFとして、この辺りももう少し書き込んでほしかった。

かって「空の中」をあまり評価できなかったぼくにとって、有川浩の出会いが「図書館戦争」であったことは本当に幸運なことであった。そして「海の底」に早く出会ったことも。もし本書「塩の街」でこの作家と出会い、「空の中」を次いで読んでいたら、この作家と今頃つきあっていなかったかもしれない。
「図書館戦争」のあとがきで「月9連ドラ風で一発GO!」を語った彼女の目指すものと、ぼくの読みたい小説は、たまたま一冊の小説として近いところにあったが、実は全然違うものであったのだ。しかし発表された一冊の小説をどう読むか、それは作家の意図と関係なく読者が決めること。
作家が作品に意図することが、決して読者としては一致してないとしても、このセンス溢れる切り取り方をする作家と、いや作家の書く作品と出会えたことはとても嬉しい。
願わくば、このセンスのまま、さらに一皮剥けた、深く人間を描く作品を読みたいものだ。そして「海の底」のような、リアリティーを持つ荒唐無稽娯楽小説もまた読みたいものだ。

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