「マルドゥック・スクランブル-圧縮・燃焼・排気-」冲方丁
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「マルドゥック・スクランブル-圧縮・燃焼・排気-」冲方丁(2003)☆☆☆★★[2010050] ※[913]、国内、SF、未来、少女娼婦、アクション、暴力、カジノ ルーン・バロット、ティーン・ハロット(未成年娼婦)である彼女は、仕事の間、心の殻に閉じこもり人形のように無反応であることを珍重された。卵の中の生まれる前の雛を煮殺すその料理になぞらえ、いつしかバロット(雛料理)と呼ばれていた。人形のように無反応な女を好きな客は多かった。しかし店は半年前に閉鎖された。行き場を失った彼女を買い、新たな身分―偽造した市民登録証‐を与えてくれたのは、スラムから成り上がり、今やマルドゥック・シティ(市)でも有数のショー・ギャンブラーとして名を馳せるシェル・セプティノスであった。 与えられた身分に疑問を持たないこと、それが彼女に与えられたルールであった。しかし彼女は一度だけ密かにそのルールを破った。そのことがシェルの知るところとなる。最高級のエアカーの中に閉じこめられた彼女を爆炎が包み、絶体絶命の危機に襲われる。 彼女を救ったのは委任事件担当官のネズミ型万能兵器のウフコック・ペンティーノと、かつて戦争の時代、宇宙戦略研究所でウフコックの製作に携わったドクター・イースターのふたりであった。彼らはその負の過去より、自分たちの存在意義を確立する必要があった。すなわち“有用性”の証明。少女連続殺人事件の容疑者シェル・セプティーノを独自に捜査していたふたりは、シェルがバロットを殺害しようとする現場に居合わせた。燃え上がるエアカーに置き去りにされ、全身大火傷で瀕死のバロットの命を救うため、ドクターは代謝性の金属繊維で構成された特殊な能力を持つ人工皮膚を彼女に移植した。それは人命保護を目的とした緊急法令において特別に許可された技術であった。この人工皮膚の移植において、彼女はまた新たな三つの能力を有することになった。皮膚感覚の加速装置、驚異的な空間把握能力、そしてあらうる電子機器における電子操作能力。 “君の事件”をブロイラーハウス(法務局)に事件要請し、その担当として我々を指名して欲しい。バロットはドクターにそういわれる。そしてバロットはドクター、そしてウフコックを相棒とした三人でシェルを犯人とする捜査を行うことになった。 ウフコック(半熟卵)と名付けられた金色のネズミ型万能兵器は、多次元の亜空間に貯蔵している物質を使い、己の身体を様様な武器や道具にターン(変身)させることができた。 ウフコックを相棒としたバロットは、ウフコックを武器にあるいは防護服に変身させて事件を追う。 己の記憶を人工的に消滅させ、新たな人生を送り始めたシェルは、現在オクトーバー社に雇われているディムズデイル・ボイルドに自分の不都合となる、殺し損ねたバロットを消すことを命じる。シェルはそのオクトーバー社の経営するカジノの運営だけでなく、マネー・ロンダリングを含むオクトーバー社の汚れ仕事を引き受けていたのだった。 かつてウフコックとパートナーであった、やはり負の過去を持つボイルドはバロットを追う。そしてバロットの前にはボイルドに雇われた5人の臓器フェチの誘拐集団が立ちはだかった。またもや襲う危機の前に、ウフコックの持つ強大な力にバロットは陶酔し、“濫用”する。その結果ウフコックはバロットから乖離してしまう。ウフコックを“喪失”することを恐れるバロット。 ドクターたちとともに“楽園”と今は呼ばれる研究所を訪れたバロットは、そこでシェルの記憶がカジノに保管された100万ドルチップ四つに隠されているという事実だった。シェルの記憶データを入手するため、合法的にポーカー、ルーレットを制していくバロットたち。最後にブラックジャックのテーブルに辿り通いた彼らの前に立ちはだかる最強のディーラーとの勝負。バロットは無事、勝負に勝ち、シェルの記憶データを入手することができるのか。そしてかつてのパートナーであるウフコックを渇望するボイルドが彼らを追い、近づいてくる・・。果たして、彼らの命運は? (あ、また無駄に長いあらすじだ(苦笑)) 本書は最近読み、万人にオススメできる一冊として高く評価した「天地明察」を書いた作家のSF畑での代表作ともいえる作品。ネットの本読み仲間であるでがらしさんから貸していただいた。いわく「天地明察」では、本当の冲方丁の魅力は伝えきれない。 成程、冲方丁という作家はこういう作品を書く作家だったのか。この作品で用いられる表現方法はカッコいい。多くの言葉で普通の日本語にカタカナ英語のルビを振る。「幼女(ニンフ)」「賭け(ディール)」「電子攪拌(スナーク)」「殻(シェル)」などなど。近未来という物語世界を構築するための手法のひとつである。しかし、それはことSFという分野では当たり前の手法であるが一般小説として見た場合はどうなのだろう。あるいは、戦闘場面のディティール(細部)に拘った表現。 残念ながら、個人的には本書は高い評価につながる作品ではなかった。以前より述べているが、ぼくは「物語」が好きなのであり、まず小説とは「物語」がきちんと成立していることが条件だ。残念ながら、本書はテクニカルな表現、あるいは場面(シーン)に拘りすぎていて、肝心の「物語」のバランスは決してよくない。たとえば、でがらしさんや他の冲方ファンが絶賛する三分冊のなかの、ほぼ一冊分の量に相当するカジノのシーンは、その場面が魅力的な描写であることは否定しない。しかしそこは決して物語の本筋ではない。カジノの場面はもう少し、簡潔にまとめ、カジノの印象が強すぎるためにインパクトの弱くなってしまったラストのほうを強く書くほうがバランスはよいだろう。敢えて、当初書きあげた1,800枚を超える原稿用紙をそのまま出版したことの意味と意義は理解するが、それ故、客観的な評価は低くなってしまう。 ただし客観的に高く評価されるためにバランスよくしたものが、実際によい作品になったかどうかは不明だ。あるいはこれだけコアなファンを作ったかどうかも同じく。つまり、作品としてとりあえず「成功」しているこの作品の評価はその辺が難しい。 前述のでがらしさんが、本書について、あるいは冲方丁作品についてツイッターでこう呟く。「ストーリーの魅力が物語の基本。一方で、魅力的に描かれる一つの場面、というのも物語の大きな魅力。で、私は一つの場面、一つのシーンに魅力を感じると、その作品を絶賛してしまう傾向がある人なんだろうなぁ。よくも悪くも。」「冲方丁の作品についても、安定したストーリーが前提にありながらも、それ以上にアクションシーンなどの「格好いいシーン」にやられているのだと思う。特に シュピーゲルシリーズは、畳み掛けるアクションシーンが何よりの魅力だからなぁ。背景の複雑な国際情勢も面白いんだけれど。」 これは以前、海堂尊の書くチームバチスタシリーズの「螺鈿迷宮」[http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/45192612.html ]のレビューでぼくが語った『第一作「チームバチスタの栄光」で白鳥が語った「根幹より枝葉やディティールのほうが断然リアルで魅力的」という言葉は、この作品でもしっかりと生きている。キャラクターものの作品に過ぎないならば、決して失敗ではないのかもしれない。しかし、キャラクターにのみ、あるいはディティールのみに拘るような作品をぼくは高くは評価はしない。』を思い出させた。 成立したストーリーのなかでディティールに拘ることをよしとする姿勢と、あくまでも作品全体の調和を評価するか。それぞれの読者の楽しみ方であり、あるいは評価方法だろう。 僕は“どちらかといえば”“かなり”後者に属する読み手であるが、しかし、それが正解だというつもりは全然ない。 蛇足:本書のカジノのシーンを読んでいて、カジノの表記について「カシノ」という表現に拘った、国際ギャンブラーである森巣博という作家の作品の幾つかを思い出した。リアリティというよりリアルなカシノがそこにはある。 |
