sousakuhanabiのブログ

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その時歴史が動いた 第308回 戦後引き揚げ 660万人故郷への道。

◆「その時歴史が動いた(http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2007_12.html)」平成19年12月14日(金)午前1:05〜1:48(木曜深夜)で「戦後引き揚げ 660万人故郷への道」を放送していました。

第308回
戦後引き揚げ 660万人故郷への道

放送日
本放送 平成19年12月5日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
再放送 平成19年12月11日(火)
17:15〜17:58 BS2
平成19年12月14日(金)
午前0:10〜0:53(木曜深夜)総合 近畿のみ
平成19年12月14日(金)
午前1:05〜1:48(木曜深夜)総合 近畿除く
※12月10日(月)16:05から予定しておりました再放送は、国会中継の為休止となりました。
 ご了承ください。
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
スタジオゲスト  加藤 聖文(きよふみ)さん
(国文学研究資料館助教 専門は戦後史、特に引き揚げ問題)
インタビュー出演  沢柳(さわやなぎ) フミさん(元満州開拓移民)
丹羽 良江(にわよしえ)さん(元満州開拓移民)
武蔵 正道(むさしまさみち)さん
(邦人救出を訴えるため、満州を脱出した日本人会の使者)
(著書「アジアの曙 死線を越えて」に今回の番組中の話が詳しい)
田邊 良三(たなべりょうぞう)さん(元シベリア抑留者)
キャスター 松平定知アナウンサー

番組概要
その時: 昭和36(1961)年6月27日
出来事: 最後の集団引き揚げ船が門司港に入港

昭和20年、在外日本人660万人。このうち630万人という膨大な数の人々が帰還した。(30万人は残留・死亡・行方不明)
史上類を見ない日本人の大移動「引き揚げ」はどのように成されたのか。
16年の歳月が語る、戦後日本の莫大な負の遺産の意味を見つめる。
番組の内容について
昭和36(1961)年6月27日、最後の集団引き揚げ船について
最後の集団引き揚げ船はベトナムのハイフオンから、門司港に帰着した上海丸。門司港に帰着したのは昭和36(1961)年6月27日。引き揚げ者は元軍人5人でした。
「終戦時に海外にいた日本人は660万人」について
終戦直後の混乱期に外務省や各省庁などが算出した数字には様々なものがありますが、今回の番組では「厚生省援護局『引揚と援護30年の歩み』ぎょうせい,1978年」の記述に基づき、660万人としました。

旧「満州」の表記について
旧満州、現在の中国東北部に存在した国家については、正式には「満洲国」という、「州」の字に「さんずい」がついた文字が当時の正式な名称です。実際、番組中に使用した戦前の資料映像内でも「満洲」の文字が使用されています。
しかし「洲」の字は戦後、当用漢字から外され代用字として「州」の字が指定されました。現在では学校の教科書等でも「満州」という表記が採用されています。
このような経緯があり、NHKでは通常、「満州」という「さんずい」がつかない文字を使用しています。それに従って今回の番組では「さんずい」がつかない「満州」の文字で表記を統一しました。

終戦時に満州にいた日本人「206万人」の算出基準は?
厚生省援護局「引揚と援護30年の歩み」ぎょうせい,1978年より。

「集団引き揚げ」とは何を指すのか?
「厚生省援護局『引揚と援護30年の歩み』ぎょうせい,1978年」によると、引き揚げは大きく分けて3段階に区分されています。
前期集団引き揚げ  昭和20年9月25日・昭和25年4月22日まで
後期集団引き揚げ  前期集団引き揚げ終了後・昭和36年6月27日
個別引き揚げ  集団引き揚げ終了後の引き揚げを指す
(昭和36年6月27日以前でも各地域ごとには、集団引き揚げは順次終了しており、中国やソ連などでは昭和36年6月27日以前から個別引き揚げに移行している。)
集団引き揚げについては
引き揚げ者本人以外の第3者同士によって引き揚げが計画され、その同意によって実行された引き揚げを指します。
さらに個別引き揚げについては
「集団引揚げ終了後、中国、ソ連、韓国等になお残留していた同胞は、戦犯関係者や当該国の政府機関等に留用されていた者、または、当該国人の家族となっていた者等であり、これらの未引揚者は、当該国の許可を得て散発的に帰国しているが、これを個別引揚げと呼んでいる」と厚生労働省によって定義されています。(「厚生省援護局『引揚と援護30年の歩み』ぎょうせい,1978年」より)

「終戦処理会議」の映像で映っていた写真の7人は誰?
東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)首相、重光葵(しげみつまもる)外相、近衛文麿(このえふみまろ)国務相、下村定(しもむらさだむ)陸軍相、米内光政(よないみつまさ)海相、梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長、豊田副武(とよだそえむ)軍令部長です。

「ハルビン」の名称について
NHKの放送基準によって「ハルビン」という読み方に統一させていただいています。ローマ字表記では「Harbin」となります。

第2次世界大戦のソビエトの死傷者2000万人の根拠について
中央公論社「世界の歴史28」、世界歴史シリーズ22、また、山川出版社「世界史A」など多くの教科書にこの記述が採用されていること、またそれら教科書のデータの根拠として明示されており、世界の多くの戦史研究家が利用する「WWAlmanac1931-1945 by Robert Goralski」が掲載している数字に拠りました。

18カ所の引き揚げ港について
呉(くれ)(広島県)・門司(もじ)(福岡県)・別府(べっぷ)(大分県)・田辺(たなべ)(和歌山県)・唐津(からつ)(佐賀県)・下関(しものせき)(山口県)・戸畑(とばた)(福岡県)・仙崎(せんざき)(山口県)・名古屋(愛知県)・鹿児島(鹿児島県)・大竹(おおたけ)(広島県)・浦賀(うらが)(神奈川県)・博多(福岡県)・宇品(うしな)(広島県)・函館(北海道)・佐世保(長崎県)・横浜(神奈川県)・舞鶴(京都府)
(「厚生省援護局『引揚と援護30年の歩み』ぎょうせい,1978年」より)
なお、民間人の引き揚げが行われず、軍人の引き揚げだけが行われた港も含みます。

堕胎手術を行っていた施設について
番組中で紹介させていただいた施設は「厚生省博多引揚援護局二日市保養所」。
当時、人工妊娠中絶は「堕胎罪」という、刑法に抵触する行為でした。その後、「優生保護法」現在は「母体保護法」が制定され、経済的な理由などいくつかの事情が認められ、その事情に該当する女性が、法律の指定をうけた医師によって受ける人工妊娠中絶については「堕胎罪」が免責されることになっています。現在でも、母体保護法の条件に該当しない人工妊娠中絶は堕胎罪に該当します。

「シベリアに連行、抑留された60万人」について
現在、ロシア国内で旧ソ連邦時代の文書の情報公開が進み、新しい資料の発掘などによって、シベリア抑留者の総数については「200万人」や「100万人」など様々な説が唱えられるようになっています。
しかし、今回の番組では、番組を通してベースとした、厚生省「引揚援護30年の記録」の統計や、各種の教科書(山川出版社「高校日本史B」、実教出版「日本史B」明成社「高等学校 最新日本史」など)で採用されている、約60万人とさせていただきました。

エンディングVTRの水子地蔵の場所について
場所:「特別養護老人ホーム むさし苑」敷地内
住所:福岡県筑紫野市湯町2‐9‐2
アクセス:西鉄二日市駅下車、徒歩15分
施設の方々は、施設関係者以外の方の水子地蔵へのお参りを認めていらっしゃいますが、私有地ですのでご迷惑等かからないようご配慮願います。

番組中の言葉・文書の言葉
「日本国軍隊は完全に武装解除され、各自の家庭に復帰させること」
外務省外交史料館保存
「ポツダム宣言受諾関係1件(終戦関係調書)(第3巻)「ポツダム」米・英・支三国宣言より意訳。
「在外邦人は 現地に於て共存」
「太平洋戦争終結による在外邦人保護引揚関係雑件」より。

「ソビエトの国民経済の利益のためには、日本人捕虜の強制労働を延長するほうがよい」
「ソビエト経済に負担をかけない範囲で、少しずつ引き揚げを行うべきだ」
ロシア連邦外務省外交公文書館(AVPRF)保管文書より意訳。
なお、AVPRF保管文書については、「エレーナ・カタソノワ『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたか』社会評論社、2004年」に詳しい。

番組内で登場した資料について
ポツダム宣言 外務省外交史料館
終戦処理会議議事録 外務省外交史料館
ソ連地区からの引揚に関する米ソ協定 国立国会図書館憲政資料室
主な参考文献
引揚援護庁「引揚援護の記録」
厚生省援護局「引揚と援護30年の歩み」ぎょうせい,1978
満蒙同胞援護会「満蒙終戦史」河出書房新社,1962
若槻泰雄「新版 戦後引揚の記録」時事通信社、1991
飯田市歴史研究所「満州移民 飯田下伊那からのメッセージ」現代史出版、2007
セルゲイ・I・クズネツォフ「シベリアの日本人捕虜達−ロシア側から見た「ラーゲリ」の虚と実−」集英社、1999
エレーナ・カタソノワ「関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたか」社会評論社、2004
加藤陽子「戦争の論理〜日露戦争から太平洋戦争まで〜」頸草書房、2005
(社)国際善隣協会「引揚60周年記念誌〜いま後世に語り継ぐこと〜」2007
満蒙開拓を語りつぐ会「下伊那のなかの満州 聞き書き報告集1〜4」2003〜2006
武蔵正道「アジアの曙 死線を越えて」自由社、2000
引揚げ港・博多を考える集い「戦後50年引揚げを憶う(続) 証言・二日市保養所」、1998
上坪隆「水子の譜 ドキュメント引揚孤児と女たち」
田中正四「痩骨先生日記帖」
油井大三郎/古田元夫「世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ」中央公論社、1998
鈴木勤「世界歴史シリーズ22 第2次世界大戦」世界文化社、1969
加藤 聖文「戦後東アジアの冷戦と満洲引揚−国共内戦下の「在満」日本人社会」東アジア近代史第9号、2006」
  ほか
※絶版になっているものもありますので、書店・出版社にご確認ください。


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終戦時、私は9歳。3歳の弟、74歳の祖母を抱えては38度線は越えられない、興南の地で父の決心でした。北朝鮮保安隊の世話する「闇船・手漕ぎ帆船のメンタイ船」の船底に隠れて一週間日本海をさまよって、38度線直下の注文津に漂着、米軍に救助されて、日本への帰国を果たしました・・・昭和21年。釜山からの引き揚げ線は、山口の仙崎に入港・・・船窓の両側に見える山なみを見て、「どちらが日本か・・・」と叫んだ祖母の声が忘れられません。

2008/2/11(月) 午前 10:02 [ 伏魔人 ]

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続き・・・父の郷里に落ち着いたのが5月。父の兄弟達に経済的な余裕があろうはずもなく、周りの企業林、町有林を無断開墾・・・極貧生活が始まりましたが・・・祖母は、その年の12月29日・・・裏の畑で倒れ、75歳の生涯を終わりました。10歳になっていた私に、汚わいの汲み取り、畑の開墾、水汲み(担い棒)など等、生活の知恵を授けてくれました。今、この時の状況になった時、私は孫に何を教えるのだろう・・・心もとない話です。

2008/2/11(月) 午前 10:08 [ 伏魔人 ]

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