Ashley事件から生命倫理を考える

世の中は想像していたより、はるかにコワイ・・・

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Ashley事件を知った時から、事件や周辺の諸々を追いかけながら考え続けているのだけど
複雑だったり微妙だったりして、なかなか言葉にならなくて、
これまで思い切って書く勇気が持てずにきたことがあります。
今でもまだ、誤解を受けずに伝わるように書ける自信があるわけではないのですが、

また新たにAngelaちゃんの子宮摘出が認められてしまったニュース
それなりに闘ってきたつもりだった3年間を振り返って悔し涙がこぼれてしまうわ、
ああ、もう、これは、どうにもできない勢いなんだ、止められないんだ……と
絶望しそうな気分にはなるわ……を経て、あの奇怪な判決文を読んだとたんに
今度は憤りで逆に頭が冴え返ってみたら、

じゃぁ、「この勢い」って、いったい何の勢いなんだ……? ということを考え始めて、
そしたら書いてみないではいられない気分になったので。

Ashley事件に象徴される、「この勢い」の一端にあるのは、
科学とテクノロジーで可能になった諸々を背景にして
大人が子どもに、親が子どもに及ぼす支配力の強まりと広がり。

遺伝子診断や救済者兄弟をはじめとするデザイナーベビーもそうだし、
障害新生児の治療拒否もそうだし、ロングフルバース訴訟とか、慈悲殺擁護論の高まりも
そこに含まれるのではないでしょうか。

そして、親から子への支配を科学とテクノによって強めていく方向へと
強力に世の中を変容させていこうとする、この、ものすごい勢いは、
「親の愛と献身」という、これまでも散々使い古されてきた神話を盾に、
ゴリ押しで突き進もうとしているかのように感じられます。

そういうことを今回のオーストラリアの事件で改めて考えると、私の思いが戻っていくのは、

07年のAshley事件が、なぜ私をこんなにも捉えて離さないのか。
なぜ、あの事件が私には、どうしても目をそむけて通れないほど、重く、大きいのか、という問題。

3年前Ashleyの身に起こったことを知り、衝撃を受け、身体を震わせて憤った、あの時に、
私自身が、障害のある子どもを持つ親として、ずっと目をそむけてきた事実と直面させられたのだと思う。

障害児・者と親(家族)との間には、本当は避けがたい利益の衝突があり、
実はそこにあるのが支配―被支配の関係だという事実と、です。

我が子を施設に入れることを選択した自分にAshleyの親を批判する資格があるのか、と
この3年間、Ashley事件と向き合う中で、私はずっと自問し続けてきました。

たまたま事件のウラに気付いたのが私で、それを実証してくれる人が他にいなかったから
他に何の武器も持たない私が、こういう形でやるしかなかっただけだし、
資格があろうとなかろうと、とにかく黙っていられなかっただけでもあるのだけれど、

施設に入れることを選択してしまった親がAshley事件を批判することの意味を
ずっと考え続けることによって、私は批判する資格を得ようとしていたような気がします。
このあたりのことは、まだ、うまく表現できません。また改めて言葉にしたいと思います。

ともあれ、そういう問題意識のあり方でAshley事件を追いかけてきた私が、今、Angela事件で
親から子への支配を強めようとする力がとめようもない勢いになろうとしていることを思う時、

障害学や障害者運動の人たちにお願いしたいと思うのは、こういう時だからこそ、
障害児・者と親の関係を「親は敵だ」といった対立関係で考えることを
いったん、外してみてもらえませんか、ということです。

うちの娘にとって自分は一番の敵なのだと、私は本当に、痛切に、そう思います。

施設に入れた決断だってそうだし、今だって、娘は自分があそこで暮らしたくて、施設にいるわけじゃない。
自分が帰りたいと思った時に家に帰ることを許されるわけでもない。

管理でガチガチの師長が許せなくて、施設中を大騒ぎにして闘って、
自分では「子どもたちの生活を守った」つもりだったこともあったけど、
いろんな意味で娘は結局、私の闘いの一番の被害者だったのかもしれない。

他人との暮らしで母親よりもよっぽど世知にたけたオトナになって
「もう、この子は一人で生きていけるよ」と言われるほど成長しているのに、
それでも「今の世の中に残して逝けるものだろうか……」と勝手に気をもんでいる私が
彼女の敵でなくて何だろう、と、心底、思う。

でも、それは「娘にとって私は一番の敵だという面は確かにある」ということであって、
「全面的に敵である」ということでも「敵でしかない」ということでもないと思うのです。

言い訳でしかないのかもしれないけど、
20年前の日本に、レスパイトサービスがあり、ヘルパーさんがいてくれたら、
私たち親子には、もしかしたら、別の暮らし方もあったのかもしれない、と思う。

全身を火の玉のようにした、すさまじい号泣に夜通しさらされて
汗だくになって、必死で抱き、あやし、ゆすり、夜中の町を車で走り続けて、
ろくに眠れないまま仕事に行く日が続いていた頃に、
もしも週に1晩だけでも娘を安心して預けられるところがあったら
私たち夫婦は、おそらく、その一晩の眠りを支えに、他の日を頑張り続けることができたような気がする。

寝込んでばかりいる幼児期の娘と一緒に狭い家に連日閉じ込められて、
ろくに手伝ってもくれない人たちから責められ続けて、
私の心がじわじわと病みつつあった娘の幼児期に、
もしも、誰かが家事だけでも手伝いに来てくれたら、
「私を助けにきてくれる人がいる」という、ただ、そのことだけで、
私にはものすごく大きな救いになったような気がする。
そしたら、私たち親子の生活にも他の形があり得たのかもしれない、と思うのです。

私には「親が一番の敵だ」という障害学や障害者運動の人たちの主張が、ものすごく痛い。

去年も、ある雑誌の記事の中で、施設に入れるのは家族が決めることだ、と訴える障害当事者の方が
「家族が一番の敵だ」いわれたのを読みました。

活字を目にした瞬間に、小さな矢でも受けたように本当に目に痛みが走るほど、痛いです。

それは、本当にそうだと思うし、逃げようがない真実だから痛いのだけれど、
同時に、「でも、それだけじゃない」と、その痛さの中から、どうしても言いたいこともある。

「親は施設に入れるから敵だ」という言葉の裏には、しかし、
親なら施設になど入れず、支援が十分なくたって、どんなに自分がボロボロになっても
介護するのが当たり前だろう、という無意識が隠れてはいないでしょうか。

障害を社会モデルで捉えるように、
親の様々な思いや行動もまた、社会モデルで捉えてもらうことはできないでしょうか。

「親は一番の敵だ」で親をなじって終わるのではなく、
「親が一番の敵にならざるを得ない社会」に共に目を向けてもらうことはできないでしょうか。

私は、Ashley療法に象徴されるような形で
親の支配を強化してこうとする「この勢い」に抗うためには
障害を挟んで親と子が対立関係から抜け出す意識的な努力が必要なのでは、と
まだうまく表現できませんが、この3年間で考えるようになりました。

Ashley事件では「ここまでする親の愛」vs「イデオロギー利用を狙って邪魔立てする障害者」という
対立の構図が意図的に描かれて、世論誘導に使われました。

「重症児は、自己主張できるような障害者とは違う」「親と障害者運動との断絶の大きさには唖然とする」
「障害者運動の活動家の方が親以上に子どものことを分かっているとでもいうのか」と
Diekema医師は繰り返しました。

確かに、親と子どもとの間には利益の対立と支配―被支配の関係があり、
障害がある子どもでは、その対立と支配の脅威は圧倒的に大きいと思います。

しかし、
利害の対立があり、支配―被支配の関係が避けがたいことを認識したうえで、
それでもなお、そこを乗り越えていくために、同じ側に立って、共に考える、ということも
可能なのではないでしょうか。

「この勢い」に対して「それは違う」と、
同じ側に立って、共に声を挙げていくことも可能なのではないでしょうか。

私がこの3年間で考えるようになったのは、「どんなに重度な障害がある子どもでも、
一定の年齢になったら親元から独立して、それぞれにふさわしい支援を受けながら、
それぞれの形で自立して暮らしていける社会」を共に求めていくことはできないだろうか、ということです。

AshleyやAngelaやウチの娘のような重症児・者や、
今、行き場がなくなってベッドふさぎのように言われ始めている超重症児も線引きすることなしに。
もちろん、なるべくなら、家族や友人のいる地域で。

そういう社会を目指す支援があれば、親も少しずつ子どもを抱きかばう腕を解いて
他人に託してみるという経験をすることができる。そして、
「ああ、それでも、この子は大丈夫なんだ」と発見するステップを
上手に踏んでいける社会であれば、親もいつまでも抱え込まなくて済む。
親が抱え込んだあげくに連れて死ぬしかないと思いつめる悲劇も減るのではないでしょうか。

「親が一番の敵」という対立の構図から、
「親が子の敵にならないでも済む社会」「子も親も自然に親離れ子離れができるような支援のあり方」という
新たな広がりのある地平へと、一歩を踏み出して、親とも一緒になって
差別や人権侵害と闘う障害学とか障害者運動というものが、

英米から科学とテクノと、その御用学問である生命倫理との包囲網が
こんなにも激しい勢いで狭められていく今の時代に抗うために、ありえたらいいなと、

障害のある我が子にとって自分が一番の敵だという面があることを自覚したからこそ、
むしろAshley療法を批判し、それを通して訴えたいことが山のようにある、
そういう私には、たぶん、正面からAshleyの親を批判する資格があるはずだと、
やっと思え始めている親の一人から、

今の段階では、まだ、こういう言葉でしか表現できない
「障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと」でした。

【追記】
その後、関連エントリーをこちらにまとめました
障害のある子どもの子育て、介護一般、支援について、これまで書いてきたこと(2010/3/15)

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niabaさん、障害児を育てたことがないから、とも、子どもを産んだこともないくせに、とも私は言っていませんよ。そういう問題ではありません。Niabaさんの教育感を問題にしているわけでもありません。日本の障害者当事者たちが、かつて、はらわたの底から絞り出すようにして世間に投げかけた「親は敵だ」という発言 を、 niabaさんが先のコメントで「そう見るのは第三者から」だ、子どもはそんなことは考えない、と、ただご自身の経験だけを根拠に否定されたことに対して、そこは問題の捉え方が違いますよ、と指摘させてもらいました。それだけです。

2010/3/15(月) 午後 3:47 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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「母よ、殺すな!」は学生の頃、母との関係に悩んでいた時に、児童心理学を学んでいた友人に勧められたものの、辛くて途中で読むのをやめた記憶があります。
感情移入し過ぎて自分の内面の問題にシンクロし過ぎてしまい、直視出来なかったのだと思います。
夫をもち出産すればもっとスムーズに理解できる事なのかもしれないのですが、今後も予定が無いので(笑)親という立場の方の考えすべてを未だに理解は出来ません。
ただ、親、とくに母という存在は、子にとってもっとも身近で、はじめに出会う自分より強い他者であり、保護と抑圧をあたえる存在だからこそ、単純な対立論では語れないと思っています。もちろん単なる美談でも親和でもない。
親子二極の対立関係をもとに語ろうとしてしまうと、母子または親子をアンタッチャブルな存在にしたり、母子丸ごとネグレクトする発想にも繋がりかねない。というかいつも繋がる気がしています。

2010/3/15(月) 午後 10:12 [ MoranAoki ] 返信する

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モランさんの読書量の半端じゃないことは知っていましたが、大学時代に読まれたんですか。それは、すごい。しかも、そういう悩みの真っ只中で、ですか・・・・・・ご友人は感動されたのでしょうけど、そのタイミングは、ちょっと・・・・・。

それにしても、いつもながら、的確でツボを突きまくった表現とご指摘の連続で、圧倒されました。アンタッチャブルという表現が、なんというか、ものすごく、刺激的というか、ズバリ何か、後ろにいろんなものが潜んでところをを言い当てておられるという気がするのですが、その後ろとか、周りにあるものは何なんだろう、ぐるぐる・・・・・・。いい刺激を、ありがとうございます。

2010/3/16(火) 午前 0:54 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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すみません、補足致します。
「母よ殺すな」が「人を殺してはいけない」という正義(ルール)の反復だとしたら、この言葉は、ほとんど意味をもちません。
母が子を殺すとき、子は、「人」として扱われているでしょうか?
扱われていない、というのが、青い芝の主張です。
人だと扱われていないということには、二重の意味があります。
社会がその子を人として扱わない(すなわちその子を人として扱わない母を許容する)、ということと、母がその子を人として認めることを放棄する(すなわちその子を人として扱うことをやめるために、殺す)、ということです。
つまり、殺される子を人として扱わないということによって、社会も母も、「人を殺してはいけない」というルールを犯さないことになる。仮に母が子を「人として扱ったけれどもやむにやまれず殺したのだ」と主張したとしても、殺すことによって、その子は「人」ではなくなるのです。人として扱わないということは、そういうことです。

2010/3/16(火) 午後 8:24 [ GKチラベルト ] 返信する

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慈悲殺の論理が、殺される子供が「人」ではない、ということを出発点にしようとしていることは、よくご存じだと思います。
そうやって、「人でないから殺してもいい」という理屈を成り立たせようとする世の中に対抗するためには、「それは殺人だからやめろ」といくら言っても無駄なわけです。殺人ではないものとされるのですから。
そこで、青い芝は、正義の次元で主張することをやめ、「子殺しは殺人として行え」という論理を正面から突きつけました。
最終的に「殺す」局面にいる一人ひとりの母に対して、「殺してもいい、しかし、それは殺人として行うのだ」と突きつけたのです。
正義という社会的な次元ではなくて、個別具体的な行動の次元でのみ可能な、考えられうる最後の抵抗です。
そういう「突きつけ」を経て、「母よ殺すな」がある。

2010/3/16(火) 午後 8:29 [ GKチラベルト ] 返信する

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わが子を殺すという行為を「愛の行為」としてとらえさせることを否定し、あくまで「殺人」という「犯罪行為」としてとらえさせたとき、「そこまではしたくないよな?そうだと言ってくれ」という意味で、「母よ殺すな」があるわけです。
わが子のためにという愛の論理の貫徹として子殺しがあるのなら、その愛を否定しよう。子殺しを殺人と言わないのなら、人を殺してはいけないという正義を否定しよう。
そして、いざ、わが子を包丁で突き刺さんとする母親に、正面からではなく、背後から浴びせるように、「さあ殺せ、お前の殺そうとするのは、「人」だがな。その覚悟がないのなら、母よ、殺すな!」と。
…この主張の、呪わしいとも思える強さと弱さ。「殺人でもいい、殺したいのだ。」と母がそれでも言うのなら、殺されてみせよう、という背水の陣の覚悟があるから言える主張。「母よ殺すな」は単に、殺されたくない、という主張では、ないのです。
…長々と恐縮です。

2010/3/16(火) 午後 8:35 [ GKチラベルト ] 返信する

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GKチラベルトさん、ありがとうございます。私は「母よ、殺すな」が単に殺されたくないという主張でないということは十分に感じ取っていたと思うのですが、その背景の思想をこれだけの深みで理解してはいなかったです。今でも、まだ分かっていないと思うし、分かるには勉強と発酵の時間がまだまだ必要でしょう。これは本当に迂闊というか、私自身の認識の甘さだと思いますが、正直なところ、このエントリーを書いた時に、「母よ殺すな!」をさほど意識していたわけではありませんでした。それ自体が無知と認識不足の何よりの証拠ですね。もし意識して書いていたら、いくらなんでも一度読み返してから、本の内容に沿って書く形をとったと思いますが、もちろん、そんなことがブログで簡単にできるような生易しい本ではないので、そんな無謀なことは最初から頭にも浮かびません。とりあえず、GKチラベルトさんが書いてくださったことから、私が今の段階で整理しておくべきことは、このエントリーで投げかけた私のお願いは、そうした青い芝の主張に対してではなく、せいぜい言葉としての「親は一番の敵」についてである、という整理をしておきます。

2010/3/16(火) 午後 10:31 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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その上で、GKチラベルトさんが代弁してくださった中にも、やはり母を人として見る視点は不在ではないのか……と感じることに、ちょっと興味をそそられています。この点と、「障害に対する社会の見方を母親が共有している」という前提との2点に、「母よ、殺すな!」を読んだ時に、そういえば著者に向かって頭の中でモンクを言いつづけていたなぁ……と記憶がよみがえってきました。もちろん、私には「母よ、殺すな!」についても青い芝の運動についても、どこであれ云々できるほどの知識がないのは最初から自覚しているので、これは私の個人的な読み方の範囲でのことです。今回の体験を経て読み返してみたら、どういう感じ方になるのか……。とりあえず言葉としての「親は一番の敵」に対してこのエントリーで書いてみたことを、私自身がさらに掘り下げて考えていくとしたら、そこが1つの宿題になるのかもしれませんね。GKチラベルトさんのおかげで、いっぱい勉強させていただき、宿題もいただきました。ありがとうございました。

2010/3/16(火) 午後 10:34 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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spi*zi*ar*さま、お返事、ありがとうございます。
しつこくなってしまい恐縮ですが、やはり一か所、気になりますので、再補足させてください。
それは、「母を人として見る視点は不在ではないのか」という点です。
その点については、「苦しいほど、母を人として見ているんです」と説明したいのです。
<「そこまではしたくないよな?そうだと言ってくれ」という意味で、「母よ殺すな」があるわけです。>
と私は述べましたが、この「そこまではしたくないよな?そうだと言ってくれ」という部分のところが、
仮になかったとしたら、どうなるでしょうか?…「母よ、殺せ!」になるはずなのです。
殺される子の側に立って、子を人として見よ、というだけであれば、それで十分です。
けれども、殺す母の様々な事情を、子は(本質的な意味で)全てお見通しです。
母が「殺す」行為に至らざるを得ない事情を、重々、承知してしまったら、「殺すな!」とは、
とても言えない、というのは、青い芝も、減刑嘆願運動をした人々も、実は同じです。

2010/3/17(水) 午後 2:55 [ GKチラベルト ] 返信する

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でも、青い芝は、その先に行った。
その「事情」によって、殺人が殺人でなくなるとしたら、あるいは罪が軽くなるとしたら、先に述べた、「子を人として扱わない」ということに加えて、「母を人として扱わない」ということにもなる、と、青い芝は、気が付いてしまったのです。
たとえば情状酌量による減刑も、心神耗弱状態ゆえの不起訴も、母が「正気で」殺したのではない、すなわち、「人」でない状態で、殺人をしたのだ、と認定することにほかなりません。
これでは、殺された側は、救われません。
仮に、自分たち(殺される子)が、人として扱われるようになったとしても、母(殺す側)が人として扱われないのであれば、殺人にならないのです。
しかも、ある行為を殺人として扱うかどうかを決めることになる「社会」が、母を「正気で」なくした原因だとしたら…?
いや、実際、原因なのです。

2010/3/17(水) 午後 2:56 [ GKチラベルト ] 返信する

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「社会」自身が、母を「正気で」なくしたのにもかかわらず、「正気でない」ことを理由に、殺人を殺人として扱わないということの、底なしの「卑怯さ」に、戦慄を覚えませんか?
だから、「今まさに殺そうとしている」母に対し、正面からではなく、その「背後から」、「正気になれ!」、「母よ、あなたは人であることを忘れようとしているのか!」と、目を覚まさせる言葉として、「母よ、殺すな!」があると、私は、思っています。
ただし、この言葉は、「今まさに殺そうとしている」母に対して「のみ」有効な言葉です。
この言葉がそういう個別の文脈から切り離されたとき、その意味は、青い芝が否定したところの、「正義」の次元に浮遊してしまう、「ウソの言葉」になってしまう、ということになります。
…つまり、青い芝は、正義を否定し、あくまで個別の文脈にのみ根をおろして、主張した。
しかし、これは、「運動」とは極めて相性が悪い。運動は、動いてこそ、運動で、旗印がいる。
根をおろし、旗印を否定する、その姿勢を持続させて、運動をする、ということは、ありえない。
だから、私は、青い芝は、決して「過激」ではなかった、と思います。

2010/3/17(水) 午後 2:57 [ GKチラベルト ] 返信する

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むしろ、あまりにもど真ん中を行っていた、社会における「人」の在り方や「人権」という正義の、最も中核的で最も脆弱な部分に、真正面から、根を下ろそうとした。それは、運動では、なかった。
それが、青い芝の「運動」が長続きしなかったと「言われる」、本当の理由だと思います。
社会における「人」の「あり方」そのものを、自らの身体(命)をもって、変えようとした。
そういうあり方というのは、多くの人をまとめていく「運動」とは、異質なものです。
ただし、多くの人が自ら、青い芝を倣い、根をおろしたなら、本当に「変わる」のです。
そういう意味で、やはり私は、青い芝の達した地平というのは、尋常でないと思うのです。
そして、spi*zi*ar*さまがAshley事件を通じてお感じになっている様々な「違和感」や「不快感」は、青い芝の達した地平でのみ、「解消」されるのではないか、と、私は思います。
決して、障害学や障害者運動という、Ashley事件と「同じ次元」のものでは、解消されません。

2010/3/17(水) 午後 2:59 [ GKチラベルト ] 返信する

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spi*zi*ar*さまは、きっと、そういうことを、直感的にお感じになって、「母よ殺すな」に言及されたのではないでしょうか?
なお、私のしたような、「母よ殺すな」解釈が、「正しい」と主張するつもりは私はありません。
でも、私自身が生きる上での大事な一部分として「母よ殺すな」は、根づいています。
そういう根づき方もあるのではないでしょうか、と、spi*zi*ar*さまにご紹介したかったのです。

2010/3/17(水) 午後 3:00 [ GKチラベルト ] 返信する

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はい。私、Ashley事件を知った最初の頃に思いました。「あんたら、“親が一番の敵”って言葉を、知らんのかいっ」て。知らんのですよね。彼らは。青い芝が現在の米国によみがえってくれたらなぁ……。

それはともかく、いろいろありがとうございます。今日の3つ目のコメントあたりで、GKチラベルトさんの青い芝に対するこれほどの思いの背景の方に、ちょっと興味が湧いてきたなぁ……と思いながら読ませていただいていたら、やっぱり最後に「生きる上での一番大切な一部分」と書かれているので、ああ、やっぱりなぁ……と。青い芝については、今の私は小学生が先生から教えてもらっているようなものですから、とうてい議論になどなりません。(実はこのエントリーで私は「母よ!殺すな」には言及していないんですよ。コメントでは行きがかりで持ち出してしまいましたけど、あまり意識しないまま今の障害学や運動の人たちに向けて書いたつもりでした。)GKチラベルトさんのご理解と解釈を1つの参考書として、今後も折に触れて参照させてもらいつつ、学びたいと思います。

2010/3/17(水) 午後 7:39 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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その際には「今まさに殺そうとしている母に対してのみ有効な言葉」というところを、重要なポイントとして忘れないでおこうと思います。(ここ、全く同感です。)そして、できるならば、社会の底なしの卑怯さに戦慄を覚えるからこそ、親が殺す行為に至らざるを得ない事情を承知してしまった上で、なお、「殺すな」と言わなくてもいい社会を共に目指そうとする関係はあり得ないのか、と私は親の一人として問いたいような気がします。

「正しさ」という尺度は、ここでは、あまり意味がないですよね。それよりも小学生の時に、熱い先生から熱のこもった授業を受けることができた体験に、感謝です。ありがとうございました。

2010/3/17(水) 午後 7:40 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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たびたびのコメント、失礼致しました。
長々と、えらそうに、色々書いているのですが、「詳しさ」という意味では、私も、青い芝についての体系だった知識はありません。
10年くらい前、大学生の頃に、社会学系の勉強をしていて少し聞きかじって、「なんだ、この青い芝っていうのは?なんか変な運動だってことか?それでなんでこんなに神格化されてるの?理解できんなぁ」という印象を受けて、ずっと頭の中でほったらかし。青い芝のことを勉強することは後回しで、自分なりに、障害の問題、命の問題に、向き合ってきただけなんです。でもなんとなく青い芝は、気になる存在だった。
それで、機会があって、「母よ殺すな」を今年1月に(いやいやながら)読んでみたら、「なんだ!自分の考えていることと同じじゃないか!学者の解説はいったいなんだったんだ?」となった、という次第です。spi*zi*ar*さんのお蔭で、その思いを言葉にすることができました。こちらこそ、いい機会を(無理やり)頂いて、感謝です。

2010/3/18(木) 午前 3:04 [ GKチラベルト ] 返信する

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さっそくのコメントありがとうございます。

「贖罪意識」なんて勝手なことを言ってすみません。
この記事を読んで、とってもシンクロするものがあったのです。
「なんとかしてあげたい」という思い(それ自体が、親のコントロール願望だという批判も承知しつつ)があっても、「どうしようもない」というジレンマ。

「親が最大の敵」という批判に対して「橋をかける」spitzibaraさん記事のメッセージを、いろいろな立場の方に届けたいです。

「親が自立の障害」、「背負いこみ、抱え込んで、他人が入り込む余地が無い」、今も昔と変わらないところはあると思います。
けれども、地域の支援資源は増えてきていて、うちの子も、支援者と過ごす時間を小さいうちから持つことができています。
実感として、助けてくれる他人の存在なしには、この子育てはできないと思っています。

これも、様々な運動があったからこそ実現したことなんですよね。
時計の針を逆戻りさせないように。
生まれてくる子どもたちが、「生きる」こと自体が尊重されるようにできることをやっていきたいです。

本買って読みます。図書館にも 削除

2011/9/11(日) 午後 11:22 [ カイパパ ] 返信する

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カイパパさん、丁寧なお返事をいただき、ありがとうございます。アシュリー事件は今の時代が向かっていこうとしている方向性を象徴している恐ろしい事件だと思います。この事件やその周辺で起こっていることを考えると、たぶん私のメッセージは、批判する側に向けて「橋を架ける」というよりも、こっちが対立していたのでは子どもたちを守れない事態がすぐそこに迫ろうとしている切迫感からきているので、カイパパさんの思いよりも、はるかにネガティブなものを伴っているかもしれません。でも、そんなことも含めて、読んでいただけると嬉しいです。

そういえば、この本の中にも書いているのですが、私が「親が一番の敵」という言葉を知ったのは、ぶどう社の市毛さんからでした。もうずっと前のことですが。ぶどう社つながりというご縁で、なんだか身近に感じますね。今後ともよろしくお願いいたします。

2011/9/12(月) 午前 2:19 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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カイパパさんの「贖罪意識」という表現に触発されて、ずっと昔、娘の幼児期に母親仲間の一人が「この子の加害者になるのは、いつも私なのよね」と言った言葉を思い出しました。

全介助の子だから、痛い思いをしないように、靴下一つを履かせるにもそうっと用心して、寒くないか、どこか痒くないかといつも一生懸命に気を配っているつもりなのに、抱き上げた拍子にうっかりこの子の頭をぶつけてしまうのも、食べたものをむせさせてしまうのも、みんな私。私はいつもこの子の加害者になってしまう……。

その言葉を、というよりも、これを言った時の彼女の悲しそうな顔と口調とを、とりあえず思いだしたこととして書いておきたかったので。

2011/9/14(水) 午後 2:33 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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つるたさん、おはようございます。TBありがとうございました。実は私も購入してはあるものの、まだ読めていないんですよ。親が書いたものを同じ立場の親が読むというのって、ある意味すごく勇気がいるというか、心身の調子が万全な時にそれなりの覚悟を決めて臨まなければ、というようなところがあって(それが優れた本であればあるほど、自分自身の傷や痛みとか悩ましさと正面から向かい合う作業になりますから)。でも、つるたさんのメモはすごく面白く読ませてもらいました。つるたさんのすごいところって、何に対しても「全面的に○か×か」という発想をされない、どこまでも天邪鬼な(?)自分を残して、そこから細かく掘り考えていかれるところだなぁ、と改めて。そこのところで私は逆に安心して、つるたさんと話ができる気がする。

ついでに、今年1月に書いた福井さんの連載についてのエントリーをとりあえずTBしてみました。

2013/10/19(土) 午前 8:03 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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