Ashley事件から生命倫理を考える

世の中は想像していたより、はるかにコワイ・・・

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2012年2月9日

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2012年2月9日の補遺

今日ちょっと検索した際に目に着いた介護者へのアドバイス関連から
(改めて目を通して、良いものがあったら順次紹介しますねー)

アルツハイマー病協会のケアラー・サポート
http://alzheimers.org.uk/site/scripts/documents_info.php?documentID=546


介護を始めたばかりの人に8つのアドバイス (AARP)
http://www.aarp.org/relationships/caregiving-resource-center/info-08-2010/gs_new_caregivers_rules.html


これはちょっと毛色が違うけど、「歳をとっても健康で自立するためのハイテク7種」
http://www.aarp.org/technology/innovations/info-12-2011/high-tech-health-trends.html


                ―――――

7日の補遺で取り上げたGMCの自殺幇助ガイダンスは、医師が直接患者に例えばDignitasの情報などを伝えてはならないけど、自殺幇助を希望する患者にカルテを渡すのはOKみたいなことが盛り込まれているらしい。:これ、Dignitasで幇助してもらうためにはカルテの情報が必要となるためだよね。
http://www.bmj.com/content/344/bmj.e959.short

NYT。カトリック系の病院が、思想信条の権利を縦に法律違反をやり始めている、という記事。:読む余裕がないし月に20本しか無料で読めないのでクリックしていないけど、もしかして、これは終末期医療について「差し控えることはしない」という主張では?
Whose Conscience?: Catholic hospitals are now claiming a special right to conscience that trumps law.



PA州の大学では、キャンパスに緊急避妊薬の自動販売機があるとか。
http://www.msnbc.msn.com/id/46297601/ns/health-sexual_health/#.TzHHZiPKCcA

子どもの肥満の問題で、米国小児科学会が「砂糖を規制しろ」と言っている。:なんか、発想がいつも単細胞的。
http://ehln.org/?p=21981

07年に象牙海岸に有害物質を棄てて多くの被害者を出した一大スキャンダルの主、Trafiguraが今度は、南スーダンから石油を盗人したとして停戦条約結んだばかりのスーダンに非難されている。
http://www.guardian.co.uk/world/2012/feb/08/trafigura-in-south-sudan-oil-row?CMP=EMCNEWEML1355



(岐阜)県、「医療通訳」プロ養成へ 在住外国人と病院の橋渡し:この動き、いずれ「医療ツーリズム」に引き取られていくかも?
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20120207/201202071015_16192.shtml

26歳知的障害者を恐喝、中2男子逮捕:どんなに理屈で正当化しようと、社会が弱者切り捨てに血道を上げているというのに、子どもだけが弱者にやさしく育つわけがない。Peter SingerとかSavulescuの言っていることにも通じると思うけど。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120209-OYT1T00159.htm

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「気持ちが沈む日に、ケアラーのあなたへ」

英国のケアラー支援チャリティ、CarersUKのサイトから。

CarersUKのサイトのフォーラムで会員の一人が
「落ち込んだ時の立ち直り方」掲示板スレッドを立てた際に、
続々と集まったアドバイスのトップ20を集めたもの。

(とり急ぎのアップです。訳語については今後、順次ブラッシュアップします)

気持ちが沈む日に、ケアラーのあなたへ

1. 何をやってもダメな日は誰にだってあるもの。あまり自分を責めないで。
2. できたら、しばらく家を出て、どこかへお出かけに。
3. 元気になれる人と話をする。家族でも友人でも、こうしたフォーラムでも。
4. ありがたいなぁと思うことをリストにしてみる。
5. 一度に何もかもやろうとしないで一つずつ。あせらずに。
6. 夜は十分な睡眠を。睡眠不足はウツの元。疲れがとれないと気持ちもアップしません。
7. お風呂でプチ贅沢を。バブル・バス、バス・オイル、音楽、好きな本などで。
8. 車の中でCDに合わせ、大声で歌う。
9. 自分はケアラーなだけじゃない、って思い出そう。介護以外にやっているいろんなことを。
10.一人で何もせずにいるより、そういう時は忙しくしているほうが前向きになれる。
11.なんとか取り戻そうとあがくより今日は×な日だったと思い決めて、明日のことを考える。
12.起こっている問題を冷静に整理する。明日の問題は明日に。
13.いつもと違うことをするとレスパイトに近い効果があることも。花を飾ってみる、よそ行きの上着とか帽子を身につけてみると気分が変わるかも。
14.自分が大好きなものをいろいろ入れた「ハッピー・ボックス」を作っておく。元気になりたい時には開けて、その中のものを。全部でも可よ。
15.できたら、なにか身体を動かすことを。ウォーキング、ヨガ、ガーデニング。なんでも自分に合ったものを。
16.チョコレートとかカレーなどの食べものは、気持ちが明るくなる原料入りです。
17.やるべきことがあまりに沢山あって嫌気がさしてしまう時は、15分とか30分と時間を決めて、まず本を読んだり何もしないでいたり、気が向くままに「自分の時間」を作ってしまう。
18.創造的なことに耽ってみる。絵を描くなり、物語を書くなり、楽器を弾くなり、ゴチャゴチャから頭を離せるなら何でも可。
19.その日の過ごし方をざっと決める。いつも通りに暮らせるだけの用事を入れて、ただし余裕でこなせることだけを。
20.自分に言い聞かせて。私は一人じゃないって。




特段、ケアラーに限らない内容のようにも思えますが、

それはともあれ、

「今日はなんだかなぁ……」という日のケアラーの方々に、
やっぱり、まずは、届けたい。

あなたの気持、こんなふうにちゃんと分かっている人がいるよ、
ケアラーのあなたに、こうしてメッセージを送っている人もいるよ、

……というメッセージとして――。

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「リハビリの夜」を読んだ 2

前のエントリーの続きです)


そうした共感を持って読みつつ、
それではあまりに希望というものがないではないか……と
暗い気持ちに陥ってきたところで、

ふいに、以下の鮮やかな一節が登場する。

失禁した私から見える世界は、その多くが、私とは関わりを持たずに動く映画のようだ。街行く通行人、楽しげな街角、忙しい喧騒は、私からは遠く、スクリーンを隔てた一枚向こう側に見える。そのかわり、これまでは余りに当たり前すぎて協応構造でつながっていることすら無自覚だった地面や空気や太陽は、くっきりとまぶしくその姿をあらわし、私の体はそちらへと開かれていく。彼らは失禁しようがしまいが相変わらず、私を下から支え、息をすることを許し、上から照らす。
活気あふれる人の群れから離れていく疎外感や、排泄規範から脱線してしまった敗北感と同時に、力強憶そこに存在し続ける地面や空気や太陽や内臓へと開かれていく解放感の混合。
失禁には退廃的ともいえる恍惚がある。
(p.216)


鮮烈な感動に襲われて、
涙が出そうになった。

ああ、これは「歎異抄」だ……と、しみじみと思う ↓



そこから著者が主張しているのは、

……私の経験を通して言えることは、失禁を「あってはならないもの」とみなしているうちは、いつ攻撃してくるか分からない便意とのの密室的関係に怯え続けなくてはならない、ということだ。むしろ失禁を「いつでも誰にでも起こりうるもの」と捉えて、失禁してもなんとかなるという見通しを周囲の人々と共有することによって、初めて便意との密室的な緊迫感から解放されるのである。
規範を共有するだけでなく、同時に「私たちは、気をつけていても規範を踏み外すことがあるね」という隙間の領域を共有することが、一人ひとりに自由をもたらすと言えるだろう。
(p.220)

私と他者とのほどきつつ拾い合うような関わりではなく、単体で切り離された私の運動のみを問題化して、正常な発達のシナリオをなぞらせるようなリハビリの過ちは、そのようなモノや人や自己身体を含めた、他者の存在を軽視したところにあると言えるだろう。

解放と凍結の反復が他者へと開かれたときに、そこに初めて新しいつながりと、私にとっての意味が立ち現れる。そして、他者とのつながりがほどけ、ていねいに結びなおし、またほどけ、という反復を積み重ねるごとに、関係はより細かく分節化され、深まっていく。それを私は発達と呼びたい。
(p.232-233)


「どうせ赤ちゃんのまま」と決めつけ正当化される”アシュリー療法”の論理を始め、
全てを個体要因に帰して、個体への操作で問題解決を図ろうとする
「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」は、

ここに描かれた「リハビリの過ち」を、なおも繰り返し、さらに拡大しようとしている。

「リハビリの夜」もまた、
そんな時代に、鋭くも深い響きで警告を発する書なのだった。


                ―――――――

この本の本題とは全く逸れるけど、
一つとても印象的だったのは、

著者にとって親の介助はやって当たり前で、むしろ
親のペースに合わせさせられたことは不当な記憶として残っているのに、
パートナーの介助は「やって当たり前」にならないよう意識的な努力がされていること。

そこのところの違いが面白いと思った。
何がその違いを生むのか、これからじっくり考えてみたい。


親の立場としても、
親に介助・介護されることを、
親に養われるのと同じく「やって当たり前」と子には感じていてほしいし、
そう感じさせる親でありたいとも思う。

それは著者のように自立生活を送れず
成人した後も親の介助・介護を受けざるを得ない人であっても、
子にとっては「やってもらって当たり前」と感じられるようであれかしと、
親の立場として願う。

ただ、それは親と子の間での話であって、
何歳になろうと子は親の介助・介護を当たり前と感じていてほしいと願うからといって、
その親子の介助・介護関係を社会の中に置いてみた時に、
社会までが「いつまでも親がやって当たり前」というのは、
ちょっと話が違うんじゃないのか、と。

やはり、子が親に養われるのを「当たり前」と考える年齢を過ぎたら、
親が子を介助・介護することも当たり前ではないと捉える社会が
「当たり前の社会」なんでは?


それから、親としての立場で、
ものすごく体験が重なったのが以下の一節。

同じ身体障害者といっても、千差万別である。その差異を無視されて、“正しい”自立生活へと同化させられるのでは、私をまなざすのがトレイナ―から先輩へと移行するだけで、あいかわらず≪まなざし/まなざされる関係≫に陥ることになる。
(p.153)


障害のある子どもの親になった時、
まず、専門家から「我が身を省みず何をもいとわず
専門家の指導通りの療育に邁進する親」という
「優秀な障害児の(母)親」規範を押し付けられた。

同時に世間サマからは
「どんなに苦しくとも我が身のことは構わず、
常に元気に明るく前向きに、子どものために超人的な自己犠牲で献身する」
「美しい障害児の(母)親」規範を押し付けられた。

そういうまなざしと、「私は私なんじゃわい」と闘い続けてきて、
娘がようやっと成人し、親もそろそろ老いのトバ口に立ったところで
最近、ふと気付くと、時に、

障害者運動や支援職の人たちから
「子どもの障害像や家族や地域の状況がどうであろうと、
我が子に“自立生活”をさせるか、それを目指して全力を尽くす」
「正しい障害者の親」規範を押し付けられている……のか……?
という気がすることに、戸惑っている。

まなざされ、一方的に評価の対象物にされていると
意識させられることへの違和感は、いずれも変わらない。

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「リハビリの夜」を読んだ 1


ずっと気になっていた本をやっと読んだ。
たいそう面白かった。ちょっと新鮮な読書体験でもあった。

言葉ではなかなか伝えにくいこと、普通はおそらく小説の仕事とされていることを
著者は小説という形式を取らずに試みて、一定の成功を見ている、といったふうな。

脳性マヒ者で、車いすを使って生活している著者は
子どもの頃から自分で歩くとか走るという直接体験は持たないものの
周りにいる健常者が歩いたり走ったりする姿を詳細に観察して
それを疑似体験とすることによって、
あたかも自分自身が歩いたり走ったことがあるかのように、
それらの体験を自分の身体感覚として知っている、と
書いているのだけれど、

ちょうど、その逆の疑似体験へと、この本は読者をいざなう。

脳性マヒの身体で生きて世界を体験するということが、
その人にとってどういう感覚なのか、ちょっと体験させてもらえたような、
その感触がなんとなく少しだけ分かったような感じがしてくる。

そんなふうに自分の体験を描きつつ全体としては、
個体のあり方や機能と能力を「正常」を基準に捉え、
あくまで個体への働きかけで「正常」へと問題解決を図ろうとする
リハビリの眼差しそのものの不当さを浮き彫りにし、

そこにある、そのような身体と、そのような身体をもった人と、周囲との、
「ほどきつつ拾い合う関係」に目を向けた問題解決を、との主張。

いわば「一つの身体」とその周辺の日常という小さな射程での
「医療モデル」から「社会モデル」への移行の過程を丁寧に解き明かしていきつつ、
リハビリ医療に根深い「医学モデル」への、
これまでにはなかった深みと厚みのある批判の展開ともなっている。

いくつかのキーワードがあって、その中心は「敗北の官能」。

例えば、

課題訓練前に行われる体をほぐすためのストレッチと、課題訓練がうまくこなせなかったときに苛立ちとともに行われるストレッチとは、強引に身体に介入されるという意味では同じだが、前者に「ほどけと融和」があるのに対して、後者にあるのは「かたまりと恐怖」である。
トレイナ―の動きは、私の動きとはまったく無関係に遂行されていて、私の身体が発する怯えや痛みの信号はトレイナーによって拾われない。トレイナーは交渉することのできない他者、しかも強靭な腕力を持った他者として私の身体に腕力を振るうのだ。
私の身体はやがて、じわじわと敵に領地を奪われていくかのように、トレイナ―の力に屈していく。
まず腕が、足が、腰が、一つまた一つとトレイナ―の力に負け、ふにゃりと緊張が抜けていく。
しかしそこには、折りたたみナイフ現象の時のような快感はない。むしろ、腕や、足や、腰を、私の身体から切り離してトレイナ―という他者へ譲り渡すような感じだ。
(p.67)

・・・「自発的に」という言葉は、トレイニーが自らの自由意志に基づいて運動せよという含みをもっているのだが、同時にそこには自発性だけではなくて「私の指示に従え」というトレイナ―の命令も込められている。つまりトレイナ―は「自らすすんで私に従え」と言っていることになる。だから、そこで掲げられる「主体」というのは、トレイナ―の命令への「従属」とセットになっているのである。
(p.70)


読んでいると、なにやら「敗北の官能」とは
人格が未成熟な虐待的な親によって育てられ、ダブルバインドで縛られ、
自分の人格を無視されたまま相手の都合で玩弄された
ACの体験にも通じていくような気がする。

さらに、例えば以下なども、
障害児が医療から「まなざされる」という体験は
なんのことはない、被虐待体験そのものではないか……と、目からウロコ。

人は皆、成長のある段階で、実際の他者にまなざされながら規範を覚えていく。やがて規範をほぼ習得しおえるころになると、他者がいなくても自分で自分を監視するようになる。さらに規範が身体の一部の用に当たり前のものになれば、とりわけ自分や他者から注がれる監視の眼差しを意識しなくてもよくなり、いわば「心の欲するところに従いて矩を超えず」の状況になる。
これはつまり、自由意志に基づいて主体的に行動しているという感覚のままで、規範から逸脱しないという状態になれるということだ。…(略)…それは、他者の内部モデルを、みずからの内部モデルとして取り込んだ状態とも言えるだろう。
しかし規範を取り込むことに失敗した私は、眼差しや規範との同一化に至ることなく、自分を監視する不特定多数の他者や自分自身の眼差しをひりひりと感じ続けることになる。それは第一章で述べた、「健常者向け内部モデル」と「等身大の内部モデル」の両方が一致しない私の状況に対応している。
規範の取り込みに成功した身体は、内部モデルによる予測的な制御で動くから、しなやかでやわらかく、身体の緊張度が低い。いっぽう私のように取り込みに失敗した身体は、ただでさえこわばる体をより緊張させて動かすことになる。
(p.126−127)


周囲の評価が気になり、緊張が強く、
承認を求め続け頑張り続ける一方で、
どれだけ承認を得ても常に満たされることがなく
「もっと」求めざるを得ないのも、また、ACの特徴の一つ。

そして、医療を始めとする科学とテクノの価値意識が
利権を背景にした経済の要請を受けて、俄かに席巻していく世界が
管理・操作・コントロール志向を強め、幼稚な人間観の短絡思考で、
どんどんと虐待的な親のような場所になっていくことを考えると、

この本に描かれているリハビリの被害体験は
世界中であらゆる形で「弱者」の立場に置かれる人に広がっていきつつあると
考えてもいいのでは……という気がしてくる。

次のエントリーに続く)

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