「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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  耐え忍ぶ被害者気取り
 
 
 「その名は不思議」ブログ
 2ペテロ3:14〜18ー最後まで耐え忍ぶ者は幸いである!
 2017/3/19(日) 午後 0:55
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27998470.html
 
 転載元:「生活の中の聖書」ブログ
 2ペテロ3:14〜18ー最後まで耐え忍ぶ者は幸いである!
 2011/2/12(土) 午前 10:48
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/27232488.html
 
 
彼、シャローム氏が、なぜ、この記事を転載したか、かなり明らかだと思います。彼は、自分の非を認めない人ですから、この期に及んでも、自分が批判されることについて、こんなに迫害を受けている、という被害妄想的意識があり、その意識しかないのでしょう。それで、迫害されている自分を聖句によって励ますような記事を他者に求めているのではないかと思います。私は、彼があまりに汚いことばかりして、あまりに幼稚な詭弁ばかりを出してくるので批判しています。
 
実際には、根拠のない言いがかりや決めつけで、批判者を、荒らしと見なしたり、病気と見なしたり、異教と見なしたりなど、ひどい言葉を返して、さらに強制力を使って無視し抹殺し、侮辱して去らせようとしたのは彼のほうなのです。
 
彼、シャローム氏は、どこまで、自分の非道と醜さに気づかず、自分を正しい聖職者として、悪い奴にいじめられている義人として、神に仕える聖職者として、被害念慮と他罰意識で、相手をおとしめ、自分を高める妄想を出してくるのでしょう。根拠は何もありません。彼の性根の悪さを示す結果になるだけです。
 
 (ペテロの第二の手紙、口語訳)
3:14
愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。
3:15
また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。
3:16
彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
3:17
愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。
3:18
そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。
 (2ペテロ3:14―18、新約聖書)
 
まるで彼のことが書いてあるようです。
 
「しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。」
 
自分のシミと傷だけは見ようとせず、刺激がなくなったことを安らかといい、神の御前に隠し事だらけの、彼、シャローム氏です。
 
「無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。」
 
彼が、どれほど聖書のことを勉強したかは知りません。しかし、ふつうの良識と感性で分かるはずのことが、彼には分かりませんし、さらに、それを無視して自説の無罪信仰を言い続けています。こんなことも分からないのか、と言いたくなるようなことですが、それを指摘しても、全く引っ込める様子も訂正する様子もありません。信じると言っただけで、洗礼を受けただけで、何をやっても無罪、一生無罪、と信じ込んでいる、という、まるで悪のための信条みたいな妄想信仰です。
 
「非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。」
 
人が神について確信してよいことは、つまり、人および人の持ち物で神の御心に適っていると確信してよいことは一つもない、ということです。
人が神について絶対としてよいことは、つまり、人および人の持ち物で神の御心のように絶対だと言えることは一つもない、ということです。
 
あるというなら、その根拠を示してほしいです。彼、シャローム氏は、神の意志も行為も御心も、自分の頭で、確信し絶対化していますが、自己絶対化にしかなりません。しかも、その理由を、神の啓示だと言いますが、その彼の神の啓示なるものは、とてもお粗末で、矛盾だらけだったのです。彼に指摘しても、彼は反論できないまま同じことを言い張る、という、駄々をこねることしか出来なかったのです。
 
神は絶対、人は神よりも遥かに低く神に支配される者、では、人は、・・相対化以外にはないのです。
 
この聖句の確信は、信仰ゆえに、神を唯一の望みそして頼りとすることです。ゆえに信仰の対象である神を決め付けてはいけません。神に仕えているのならば、時々の判断を絶対化してはいけないはずです。神に対しては、恐れ多い創造主として、導きを予定調和にしてはいけません。神を信じる人は、自分にとって刹那的に良い悪いにかかわらず、ただ導きを待つ身なのです。このことが敬虔ということにつながります。
 
しかし、自己絶対化の、彼、シャローム氏は、独善信条の無罪信仰ゆえに、信仰の対象である神を自分の頭で自分に都合の良い絶対者として確信してしまうに至っているのです。しかも、訂正不能に完成しているつもりなのです。このことによって、敬虔を人に対する慇懃無礼にすり替えてしまったのが、非道の者、彼、シャローム氏であり、彼の惑わしの無罪信仰に誘い込まれることのないようにしてください。
 

 
いつかこの世界の終わりが来る。いま言われているような2012年人類滅亡だというものではない。それはただ滅びを煽るだけで、この福音から目をそらせようとするものなのだ。
 
この世界の終わりを決め、実行されるのは創造主なる神の御手のうちにあること。そしてその時はただ滅びが待っているのではない。イエス・キリストにある者の救いの完成の時なのだ。
 
なぜ神がこんなにも長く待っておられるのか、それは私たちに与えられているイエス・キリストの証し人という務めによる。新しいいのちに生まれることのすばらしい良き知らせを、御国の福音を、本当の希望を、イエス・キリストを知らない私たちの周りに宣べ伝えるために時間を与えておられるのだ。
 

 
宣べ伝え方と宣べ伝える内容の是非について、思考停止のためなのか、沈黙している人は、彼、シャローム氏の言っているような非道を見抜くことが出来ません。それは、人間として、人間の心を見ることが出来ないからだろうと思います。だから、彼、シャローム氏に、いいように利用されています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
24:5
多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6
また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:7
民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
24:8
しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
24:9
そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
24:10
そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
24:11
また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
24:12
また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
24:13
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
24:14
そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
 (マタイ24:5−14、新約聖書)
 
これは、終末についての、キリストの言葉です。
 
自分の都合の良いように、言葉面でキリストや聖霊を決めつけて語り、神の側に自分を置いて、無罪信仰という幼稚な詭弁を弄して、人を惑わしているのが、彼、シャローム氏です。
 
6〜7節は、大きな戦争もあり殺人効率が昔より桁違いに高まって大規模になって戦争やテロの範囲も全世界的になっている現代を思わせるかもしれませんが、その危惧を思い考えるのは妥当だとしても、この聖句をもって終末が近いと現代を断定するのは、かの時代も、あの時代も、同じようであったことを思えば早計と見るべきでしょう。人は、人類は、大昔から、忌まわしい戦争の歴史だらけです。
 
それについて、キリストは預言し、多くの争いや艱難があること、偽者が現れること、人の愛が冷えること、つまり温かい情感が失われる時があること、そして、信仰によって耐え忍ぶことの必要を教えています。偽者の持ってくる信仰の偽物についての発言が多いような印象を受けます。終末に向けては特に注意が必要なことなのでしょう。
 
彼、シャローム氏のように、人と共感する必要がないと思い、そう言っている者は、そういう情感を持とうとしないので、うっかり受け入れると、温かい情感も共感も失ってゆく可能性を、私は真剣に案じています。彼の信仰は偽物としか言えないものです。
 

聖書が、また使徒たちが語っていることは、イエス・キリストについてであり、罪の滅びからの救いがあるということであり、永遠のいのちを得る約束であり、御国が待っていると言うことなのだ。

 
救いがある、ということだけを言って、何か説得力があるでしょうか。
 

信仰はたとえボロボロであろうともイエスが私たちを愛していること、平安を得ていること、イエスにある希望に生きていることの喜びを確信することなのだ。私たちのアイデンテテーはキリストにあることなのだからである。

 
ボロボロという言葉は、例えば、彼、シャローム氏の語ることの幼稚で滅裂な理路とか情感のなさ、など、悪い意味で使うべき形容です。信仰がボロボロ、というのは、たぶん、不十分という自覚を言いたのでしょう、と補足しておきます。
 
つまり、明らかに間違っている場合や、背いている場合は、ボロボロであろうとも信仰、とは言えないということです。彼、シャローム氏は、この、ボロボロでも、という言葉に惹かれたのかもしれませんが、反信仰の彼はボロボロの中には含まれないということです。彼の信条を信仰に含めてしまったら、キリスト信仰は不浄の種の存続を認めることになり、いずれ不浄の信条に支配されて滅びるからです。
 
また、平安を得ていることについては、彼、シャローム氏が、刺激を遮断することで批判を聞かないだけなのに、それを、神の平安と呼んでいる、という、とんでもない例があることを付け加えます。
 
本文に戻りますが、上のボロボロ、のように、遜っておきながら、アイデンティティーがキリストにあるなどと、どうして言えるのでしょう。アイデンティティーという難しい用語がわかるのでしょうか、日本語で同一性のことだというくらいは分かるとしても、人が、人の同一性をキリストの所属とすることは、終末まで、目標として努めるべき信仰の道であり、今そうだと言えるようなことではありません。神がどう見なしているかということを、既成事実のように語って根拠にするのは、信仰における不謹慎と言うべきでしょう。
 
似たようなこととして、神が人を見ている、ということは、信仰として肯定するべきことですが、人が神に従っている、ということは、神の判断ですから、人が言えば自分を誇ることになります。また、神が人を、自分を、愛してくださる、ということは言ってよいように思えますが、神が人をどのように導いて愛を示すかは人には分からないことですから、神の前に遜って敬虔である人は口にすることを控えるでしょう。
 

サタンは神の愛を受けるキリスト者から切り離そうとする。だから私たちはこの神の愛を、恵みの支配を喜び、信頼して忍耐していくのが、与えられた信仰なのだ。そこに生き続けるのが幸いなのである。

 
彼、シャローム氏の、訂正不能の無罪信仰は、妄想といってよいくらい、間違っています。彼は反論できたことは一度もありません。だから彼は、削除、削除、と続けて来て、結局、コメント欄を全部消してしまったのです。批判を、自分が見たくない、また、人に見せたくない、という目的だけのために。
 
無罪信仰は、神の愛を、その恵みを受けるキリスト者から切り離そうとするものです。
 
この転載記事のような、当たり前だが根拠を掘り下げていない文章は、掘り下げて考えるということが皆無と言ってよい、彼、シャローム氏が、最も好んで引用するものです。それゆえに、掘り下げていないことを問題にしたり、体裁だけ整えようとしている傾向を指摘したりすることで、人間なら分かるだろうということが分からない彼、シャローム氏に対する無罪信仰批判の材料にはなるのでしょう。ここにおいて、キリスト教やキリスト信仰で当たり前と言われていることの中には、どうしようもない人間の固定観念や先入観が多く含まれているという主張にもなるかもしれません。
 
 
(2017年03月19日、同日一部修正)
 
艱難(かんなん)
遜る(へりくだる、謙る)
 
 

 

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