暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

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西郷はなぜ西南戦争に犬を連れて行ったのか

 「西郷の出陣の理由は、政府の『西郷暗殺計画』を政府に尋問することにあった。個人に関する尋問は私事。内戦を起こす気はなかった。政府や天皇に弓を引く戦争ではないとのメッセージを込めて、犬を連れて行った」と、作家の仁科邦男氏は語る。
 仁科氏は千葉県柏市在住の作家である。元毎日新聞記者で、「サンデー毎日」などで事件を追っていた異色の作家だ。現在、ヤマザキ学園大学で「動物とジャーナリズム」を教えている。雑誌「動物文学」に、「江戸時代に信州の犬が一匹でお伊勢参りをし、飼い主の元に戻った」という記事を見つけたのが、犬と歴史の関わりを調べるきっかけになったという。犬を通して歴史を語る。『犬のお伊勢参り』や『犬たちの明治維新』などの著書がある。
 仁科氏の講演会が、柏市立図書館の主催で開かれた。演題は、「西郷隆盛はなぜ犬を連れて西南戦争に出陣したのか〜愛犬家の謎〜」である。話は四方八方へ飛ぶが、田原坂など民謡・俗謡も交え、実に楽しく異色の講演会だった。
 西郷は坂本龍馬や大久保利通らと共に明治維新の中心的役割を果たし、明治政府では参議や陸軍大将を務めた。明治6年(1873)に政府内で起きた征韓論争の中で、特命大使として朝鮮に派遣されることになるが、岩倉具視らの反対を受け中止になった。
 西郷が郷里の鹿児島へ下野した4年後、新政府に不満を持つ士族が、西郷を担いで反乱を起こす。それが近代日本最大で最後の内戦、西南戦争だった。
 しかし、西郷は戦を桐野利秋(中村半次郎)らに任せ、暇さえあれば猟犬を連れて、兎狩りに出かけていた。官位剝奪を伝えに来た政府の使者も狩りに連れて行き、兎汁をご馳走したという。 
 その官位剥奪の伝令に来た上村直が、「今日の参上は、鹿児島県庁の使者として」と言うと、西郷は身を礼装に改め、東方に向かって拝礼し辞令書を受け取った。もちろん拝礼する相手はただ一人、明治天皇であった。
 西郷は明治10年2月17日に出陣し、3月20日田原坂陥落。4月22日人吉へ撤退。8月16日延岡で犬を放ち、軍服を焼く。9月24日城山で自刃、49歳8か月だった。
 愛犬家として知られた西郷は、13匹の犬を飼っていたと言われるが、西南戦争に何匹の犬を連れて行ったかは不明である。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』では、「長井村(延岡市)の民家の庭で陸軍大将の軍服を燃やし、2頭の犬を放った」を引用している。
 海音寺潮五郎は『西郷隆盛』の中で、「賊徒西郷隆盛は六月三十日、人吉を出発し、米良に至る。かすりの着物に博多の帯、金づくりの刀を持ち、愛犬四匹を携え、駕籠に乗り、前後十人ばかりの護衛兵を付けたり」を引用している。3匹説もあり、謎に包まれている。
 明治天皇は西郷の死後、皇后や女官に西郷を偲ぶ歌を詠ませ、西郷と同じように猟犬を飼って狩りを始めた。皇后は、「薩摩潟 しつもし波の 浅からぬ はじめの違い 末のあわれさ」と詠んでいる。
 後に天皇の特旨で「賊徒」の汚名がすすがれ、上野公園に銅像が作られた。「天皇は、一度は西郷の朝鮮派遣を認めながら撤回し、結果的に西郷を死に至らしめたことを悔やんでいた」と、仁科氏は語る。
 西郷には写真がない。素顔を知る人は殆んどいない。西郷の顔は、想像で描かれている。西郷のいとこ大山巌陸軍大将が、「赤シャツ隊を率いて祖国統一のために戦った、イタリアの英雄ガリバルディの銅像のようなものを作ろう」と発案し、高村光雲が製作した。しかし陸軍大将の軍服姿にクレームが付き、筒袖、兵児帯、わらじ履き、犬連れの姿になった。西郷の愛犬「ツン」は、実物より大きく作られている。
 島津久光の怒りを買い、徳之島や沖永良部島へ流された西郷は、エルバ島やセント・ヘレナ島に流されたナポレオンが好きだった。境遇を重ね合わせたのだろう。南北戦争を戦ったリンカーンも好きだった。
 西郷どんは不滅である。ほうき星(蜂起星)となって世を照らしている。インドやロシア、中国で生きている。義経が蒙古に渡り、ジンギスカンになったと同様に、悲劇の英雄は死なせたくないものなのだ。
 「ふたつなき 道にこの身を 捨小船 波たたばとて 風吹かばとて」、西郷の辞世の句だ。来年は明治維新から150年。それに因んでか、NHK大河ドラマは「西郷どん」である。

平成29年3月4日 
須郷隆雄

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2・23(富士山)の日

 2月23日は2・2・3の語呂合わせで、「富士山の日」と呼ばれている。田代博氏(日本地図センター常務理事)は、著書『今日はなんの日、富士山の日』の中で、富士山の魅力を紹介している。
 田代氏によると、これまでに確認された富士山が眺められる最も遠い地点は、東は千葉県銚子市の銚子ポートタワーで、その距離は198km。西は和歌山県那智郡勝浦町の色川富士見峠で、323kmという。
 北は理論上の北端とされていた福島県川俣町と飯館村に跨る花塚山で、昨年11月に登山愛好家・菅野和弘氏ら3人により撮影された写真が、富士山であることが先月確認された。その距離は308km。以前の北端は、花塚山から10kmほど南の日山だった。
 南は理論上の最南端とされる八丈島の東山で、アマチュア山岳展望研究家・吉野宏氏が平成18年に撮影し、その距離は271kmだった。しかし今回、八丈島の地域紙「南海タイムズ」の記者・苅田義之氏が撮影したのは、理論上の最南端を1km延ばした272km、今根が鼻の崖の上だった。紺色の水平線の彼方に、雪に覆われた富士山の山頂部だけが顔を出している。
 遥かなる富士。日本人の心を捉えて止まない富士山の魅力は何なのだろうか。各地に〇〇銀座があるように、「ふるさと富士」は全国に465カ所もある。日本に限らず、世界各地にも「ふるさと富士」がある。
 同様に「富士見」の地名が、全国に418ある。東京と静岡が断突に多いが、東京が71カ所で第1位とは意外だった。家康は、富士が見えることに拘った。冨士見は「不死身」に通じるからだという。
 古来、富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山をご神体とする浅間神社は、静岡・山梨を始め関東を中心に1300社ほど存在する。祭神は木花開耶姫命。大変な美人だったそうだ。そのため、夫のニニギノミコトに浮気の嫌疑が掛けられ、その疑いを晴らすために火の中で子を産んだという伝説がある。火に係わることから、浅間神社の祭神となった。
 山岳修験者の信仰の対象だった富士山は、江戸期になると大衆化され、多くの人々が富士山詣に出かけた。しかし、江戸から富士山までは7日7夜を要する。誰もが登れるわけではない。女人禁制でもあった。そこで富士講なるものが組織され、屈強な若者が代表として行き、その御利益を皆に分け与えた。しかし富士登山への欲望は止み難く、各地に多くの富士塚が作られた。富士塚の条件は、頂上から富士山が見えることだった。
 町火消しによって組織された日本最古の富士講があった駒込富士神社は有名だが、初夢の「一富士、二鷹、三茄子」はこの神社に由来する。神社周辺に鷹匠屋敷があったこと、駒込茄子が名産だったことによるという。日本の主な富士塚として、江戸七富士と呼ばれる七つの富士塚があるが、流山浅間神社の富士塚も紹介されている。
 葛飾北斎は『富嶽三十六景』を、歌川広重は『富士三十六景』を著している。山部赤人の有名な短歌に、「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」がある。もし八丈島から見たら何と詠むであろうか。「八丈の 海の彼方に 見ゆるぞよ 真白き富士の 嶺の僅かに」。
 富士山の最後の噴火は宝永4年(1707)、今から310年前である。噴煙は成層圏まで達し、江戸では4cmほどの火山灰が積もったという。日本の火山の多くは、寿命が50万〜100万年と言われる。富士山は誕生から10万年、人間ならまだ10歳程度である。富士山には高山植物がない。高山植物は氷河期の生き残りである。富士山は氷河期以降の山なので、それがない。
 富士山は、生涯に1度は登る意義があるが、2度行く必要はないという。我が家も家族揃って、1度だけ登ったことがある。「ふるさとは遠きにありて思うもの」というが、「富士山は遠きにありて望むもの」ということなのだろう。
 「頭を雲の上に出し 四方の山を見下ろして かみなりさまを下に聞く 富士は日本一の山」、富士山の魅力は尽きない。

平成29年3月1日
須郷隆雄

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戒名いらず墓いらず

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戒名いらず墓いらず

 83歳で亡くなった白洲次郎の遺言は、「葬式無用、戒名不要」だったという。最近、「戒名いらず墓いらず」と言う人が増えているらしい。
 先般、知り合いの葬儀に行くと、無宗教葬とかで「お別れ会」と称していた。お経や線香をあげる訳でもなく、送る言葉を述べ献花する。趣味だった絵画が飾られ、実に爽やかな葬儀だった。
 「主人の実家の墓には入りたくない」と言って、お骨を自宅に置いている人もいる。自分が死んだら一緒に寺に納めるという。葬儀や墓に対する概念が、大きく変わりつつある。
 「お墓の準備は済みましたか」と、墓石屋や墓地屋から度々電話がかかる。「まだ死ぬ気はないよ」「散骨するから墓はいらない」と、憎まれ口をきいている。多少気にはなるものの、「戒名いらず墓いらず」という気もしている。一枚の写真で十分ではないか、とも思う。
 今や無縁墓の可能性が、50%とも言われる。墓石の処分に困り、お墓のお墓が出来る始末だ。どうしてこのようなことになってしまったのか。色々要因はありそうだ。
 無縁墓が増加している一つの原因は、人口の都市部への集中であろう。1960年代から都市部への人口流入が急増し、生まれ育った場所で死んでいくというライフスタイルが少なくなった。親が亡くなり、実家のなくなった土地に行く理由が薄れた。
 もう一つの理由が少子化だろう。長男長女時代と言われるが、結婚すると面倒を見るお墓は二つになる。更に高齢化だ。死後、自分を知っている人が生きている年数は非常に短い。墓参りする人も少ない。
 旧来の家墓は、「家」「家族」「先祖」といった概念に支えられて成立していたが、その概念が大きく変化している。先ずは家意識の崩壊だ。民法における家制度がなくなり、家父長制や家督相続という考えもなくなった。
 家だけでなく、家族・親族意識も変化した。 核家族化が定着してくると、祖父母と一緒に生活することも少なくなり、家族の定義も変わってきた。家族・親族の幅は非常に小さくなった。
 同様に先祖という概念も変わった。せいぜい祖父母までだ。NHK番組に「ファミリーヒストリー」というのがあるが、祖父母より前の先祖は意外に記憶にないようだ。女性の中には、「主人のお墓に入りたくない。実家のお墓に入りたい」 「会ったこともない主人の先祖と一緒はイヤ」という人が増えている。これは女性に限ったことではない。「入るなら家族だけ」ということなのだろう。墓も核家族化だ。
 良いか悪いかは別にして、その方向に向かっているのは事実だ。無縁墓も考えものだし、墓の墓を積み上げるのも心もとない。かつての常識が通用しない。この先10年の変化を見定め、決断する必要がある。
 葬儀の様式には、それを行う人たちの死生観、宗教観が深く反映される。文明が発生する以前の旧石器時代から行われてきた宗教的行為である。キリスト教などは復活を信じ、仏教では魂は天に昇り、肉体は地に帰ると信じている。
 日本人は正月に神社を参り、結婚式はキリスト教の教会で挙げ、葬式はお寺で行う。こういった生活の中にいくつもの宗教が混在する日本人の宗教観を、キリスト教などの一神教を基調とする欧米人は理解し難いであろう。
 日本は62%の人が信仰心はないとしているにも拘らず、神社仏閣に参拝する。寺社にお参りするのは宗教を信じているのではなく、宗教が生活に融合し、神仏と世俗が分かちがたい状況にあるからだ。
 万物を八百万の神とし、異国の神をも受け入れる。無節操というより、懐の深さと言ってもいいのではないか。西洋が「信じる宗教」であるならば、日本は「感じる宗教」と言われる所以である。
 これほど神に対して柔軟な国民も珍しい。死に対しても柔軟なのだろう。「戒名いらず墓いらず」残すは写真1枚、「はい、さようなら」というのも一つの手かもしれない。
 「嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空」(家康辞世の句)

平成29年2月25日
須郷隆雄

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ナメクジとカタツムリ

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ナメクジとカタツムリ

 似て非なるものに、「ナメクジ」と「カタツムリ」がある。殻が退化したものをナメクジと言い、殻を持つものをカタツムリと言う。素人考えで、ナメクジが進化して家を持つに至り、カタツムリになったと思っていたが、実は逆だという。
 ナメクジ(蛞蝓)は、陸に生息する巻貝のうち、殻が退化しているものの総称で、カタツムリから貝殻を失う方向に進化することを「ナメクジ化」と言う。殻を背負っているよりも運動が自由で、狭い空間なども利用できるメリットがある。
 カタツムリ(蝸牛)は、陸に棲む巻貝の通称で、「デンデンムシ」などとも呼ぶ。右巻きと左巻きがあるそうだが、左巻きは頭が悪いという訳ではない。他に「マイマイ」や「蝸牛」などの名称もある。
 マイマイは、子供たちが「舞え舞え」とはやし立てたことに由来し、デンデンムシは、殻から「出ろ出ろ」とはやし立てたという説がある。蝸牛は、動作や頭の角がウシを連想させたためだろう。
 カタツムリはともかく、ナメクジは嫌われ者だ。ナメクジの方が進化しているとは、どうしても思えない。想像するだけで「ナメクジに塩」、元気がなくなる。植物を食い荒らし、その見た目や家屋への侵入などから「不快害虫」とされている。
 「ナメクジ野郎」「ナメクジ親爺」との蔑称もある。スターウォーズ「ジェダイの帰還」の中の砂漠のシーンで、「そのヌメヌメしたナメクジ野郎に言ってやれ!」と、ハリソン・フォードが叫ぶセリフがある。
 五代目古今亭志ん生師匠一家が昭和初期に暮らしていた墨田区業平橋の長屋を、「なめくじ長屋」と呼んでいた。当時、志ん生師匠一家の生活は貧しく、家賃をためては夜逃げをするような状態であった。人寄せのために噺家が住んでくれるなら、家賃をタダにするということでこの長屋に引っ越した。ところが、その近辺は水捌けが悪く、蚊が大量に発生する上に、大きなナメクジが大量に出現するため、なめくじ長屋の名が付いたという。
 フランス料理で有名なエスカルゴは、カタツムリの一種だ。主にヨーロッパとヨーロッパ系の人種が多いアメリカで食用され、養殖も盛んに行われている。スペイン・バレンシア地方では、パエリアの具材として欠かすことが出来ない。カタツムリと聞くと抵抗があるが、エスカルゴは高タンパク低脂肪で、カルシウムや鉄分が豊富だという。
 カタツムリは小学唱歌にもなっている。「でんでん虫々 かたつむり、お前の頭はどこにある。角だせ槍(やり)だせ 頭だせ」。
 蛇は蛙に勝ち、蛙はナメクジに勝ち、ナメクジは蛇に勝つ。このためこの三者は身動きが出来ず、「三竦み」となるという伝承がある。D51蒸気機関車は、その形状からナメクジという愛称があった。誰が名付けたか、早そうには思えない。
 カタツムリはフランス料理になっているし、小学唱歌にもなった。ナメクジはナメクジ野郎やナメクジ親爺など、不快害虫として蔑称されている。しかし、カタツムリが進化してナメクジになったという。彼らには彼らなりの環境適応があったのだろうが、不可解である。
 我々世代は結婚して家を持つことが、ある意味で一つの人生目標でもあった。言ってみれば、カタツムリである。今の若者は結婚せず、家も持たない。ナメクジだ。これをナメクジ化と言うのだろうか。
 カタツムリのナメクジ親爺は、この現象を進化と捉えることは出来ない。

平成29年2月17日
須郷隆雄

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春日大社「千年の至宝」

 「平安の正倉院」と呼ばれる春日大社の「千年の至宝」が、上野・東京国立博物館平成館に会し、展観されている。
 春日大社は、「式年造替」と呼ばれる社殿の建て替えや修繕が20年に一度行われ、平成28年が60回目に当たる。本展はこの節目に、社外ではめったに拝見できない至宝250点を一堂に会し、かつてない規模で展示している。
 春日大社は奈良時代の初めに、国家の平安と国民の繁栄を祈願し創建された。祭神である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が常陸国(茨城県)から白鹿に乗り、春日大社を抱く御蓋山(三笠山)山頂に降臨した。その後、経津主命、天児屋根命、比売神を迎え、神護景雲2年(768)に称徳天皇の勅命により、現在の地に4棟の本殿を造営したのが始まり。全国に1000社ほどある春日神社の総本社で、鹿を神使とする。世界遺産に、「古都奈良の文化財」の一つとして登録されている。
 東京国立博物館平成館は大変な人だ。本当に分かって来ているのか、疑ってしまう。一生の見納めに来ているのかも知れない。自分がそうである。
 さすがに、平安の正倉院と言われることはある。金銀の研出蒔絵による「蒔絵箏」、「金地螺鈿毛抜太刀」、「赤糸威大鎧」など国宝が50点、更に重要文化財を加えると100点を超える。やはり見る価値はある。
 興味を引いたのは、武甕槌命が白鹿に乗り、常陸国鹿島から春日の地に降臨した様子を描く「鹿島立神影図」や、春日大社の社殿を中心に御蓋山、春日山、若草山を配した「春日宮曼荼羅」である。神仏習合の思想を背景に、仏法を守護する春日の神々への信仰が広がりを見せた、神仏の一体化を象徴する「文殊菩薩騎獅像および侍者立像」もいい。神事や催事の際に奉納された舞楽や能などに使われた「舞楽面納曽利」、「納曽利装束」も興味深かった。
 普段は拝観できない春日大社本殿が再現されていた。御殿の間の壁に描かれた「御間塀」は今回の式年造替で徹下されたもので、祭祀の際の調度品や御簾の金具も本殿で使われたものだという。高校の修学旅行以来、上野のお山で春日詣を体感できた。
 上野で春日詣を済ました後、国立公文書館へ向かう。企画展「漂流ものがたり」が催されている。
 四方を海で囲まれた日本に暮らす人びとは、中国、ベトナム、ロシア、アメリカ、さらには無人島と、数多くの漂流・漂着を体験してきた。一方、その逆もしかり、島国日本には異国から多くの船や人が流れ着いた。本展示では、アジアや欧米へ漂流した日本人の体験や、日本に漂着した異国人への幕府の対応、現地の人々とのふれあいの記録などを、当館所蔵資料から紹介している。
 特に、平成5年に重要文化財に指定された大黒屋光太夫の漂流記録「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」が興味を引いた。
 天明2年(1782)、江戸への航海中に遭難し、漂流の後ロシアに渡り、寛政4年(1792)に帰国した伊勢国白子の神昌丸船頭・大黒屋光太夫等の体験を、蘭学者で幕府奥医師の桂川甫周が、幕府の命を受けて聴取したロシアの地誌・見聞録である。 ロシアの政治・経済・社会・物産・文字・言語などが詳細に記録されているほか、器物の写生図、地図の模写も含まれている。寛政6年8月に完成し、幕府へ献上した。
 重厚なレンガ造りの旧近衛師団司令部庁舎だった、国立近代美術館工芸館にも寄る。「近代工芸と茶の湯供彭犬魍催していた。本展は茶の湯の器をテーマに、近代から現代にかけての茶の湯の造形を概観するものだ。加藤孝造の「瀬戸黒」、松田権六の「蒔絵」、三輪休和の「萩焼」など、「茶の湯の器」の中に、人間国宝の技を紹介している。一志野・二萩・三唐津というが、川喜田半泥子の志野茶碗「赤不動」も素晴らしい。内田繁製作の組み立て式茶室もある。
 春日大社と鹿は切っても切れない関係だが、鹿島神宮の祭神である武甕槌命が白鹿に乗って御蓋山(三笠山)に降り立ったことに由来する。鹿は神の使いである。
 神が騎乗する馬を「神馬」と言う。この尊い馬と鹿を「馬鹿」と言うのは恐れ多い。馬鹿は、サンスクリット語の「baka」の当て字のようだ。しかし、中国の故事、「鹿をさして馬となす」からとの説もある。鹿を「馬である」と言って献じ、矛盾したことを押し通す意味として「馬鹿」と言うようになった。
 阿倍仲麻呂の有名な和歌に、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」と、ある。

平成29年1月31日
須郷隆雄

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