スネコタンパコ、相も変らぬ妄執により、波久礼から寄居まで歩くこと 1
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JR熊谷駅で秩父鉄道に乗り換える。車内はハイカーが多い。一様に道具が新しいから、最近はやりの流れに飛び乗ったものと想像される。この時間(AM.10:00)に車中とはのんびり低山ハイクだな。にもかかわらず、装備が厳冬期エベレスト並みなのはどういうわけか。
秩父鉄道 波久礼駅
波久礼駅ホーム 単線のため上り列車の待ち合わせか
波久礼(はぐれ)駅で下車したのは、わたし以外に一人しかいなかった。線路の上を歩いて改札を出る。 波久礼とはおもむきのある地名だと思う。でも、そのサイズがよくわからない。このあたりの大字を寄居町の末野という。地形図では、寄居橋の南、荒川左岸に波久礼と記されているものの、周辺の小字を下寒野といい、寄居橋の北に中寒野、上寒野と続く。つまり一帯を寒野と称したのだろう。それでは、波久礼の位置はどうなるのだろうか、悩んでしまう。 『埼玉苗字辞典』にはこうある。 ≪葉栗 ハグリ 榛沢郡末野村(寄居町)に秩父鉄道波久礼駅あり。但し、風土記稿には小名葉栗、波久礼の地名は見えず。地元民が通称として用いていたか。丹党葉栗氏あり、波久礼氏とも記す。武蔵七党系図(冑山本)に「山田八郎政成(岩田、井戸)―七郎家経―葉栗五郎国経(波久礼)―五郎助綱、弟九郎綱国、其の弟十郎有国」と見ゆ。末野村は葉鹿郷と称す。葉栗は葉鹿の書き誤りか。≫ それでは「葉鹿」についてはどうかというと、 ≪葉鹿 ハジカ 橋下(はしもと)、土師下(はしもと)をハシカと読み葉鹿の佳字を用いる。常陸国東茨城郡上圷村字橋下部(はしかべ)、真壁郡宮山村字橋本、字橋下(はしくだり)あり、土師集団の橋本族居住地なり。下(もと)は浦の意味で海洋民なり。下野国足利郡葉鹿村(足利市)は大宝三年藤原宮出土木簡に下毛野国足利郡波自可里あり、土師下(はじか)にて和名抄の足利郡土師郷に比定す。豊島郡上渋谷村(東京都渋谷区)条に「土師家天満宮あり、菅神の本姓をもて冠し唱うるなるべきに、今誤てハシカの義と思い、麻疹の病を祈るもの多し」と。榛沢郡末野村(寄居町)条に「元亀四年三月五日、葉鹿郷料所分林以下、不可切取之、云々」。末野は陶(須恵)野にて、土師器製作の末野窯跡あり。≫ 茂木和平の眼光は紙背に徹している。しかし、土師器と須恵器とを一緒くたにしてはいけない。 荒川 寄居橋から 中央のピークが寒野山 その下から右端にかけてが寒野
荒川もこの寒さで凍っている
「寒野 サビノ」について、同書には、≪榛沢郡末野村字寒野(寄居町)あり。武蔵志に「末野村に字錆野有り」と見ゆ。古代製鉄跡なり。当所は秩父神社元亨四年文書に佐比野郷と見ゆ。隣村の矢那瀬村中西文書に「丑年、御預ヶ山三ヶ所之内、さひの山、坂本山、やなせ山、中西右馬助殿」と見ゆ。坂本山は寒野山の隣の矢那瀬村字坂本なり。≫とあって、≪古代製鉄跡なり≫としているが、特に製鉄関連の遺跡が出ているという報告はないようだ。 なぜ製鉄跡なのか。おそらくサヒが鉄を意味する語だからだろう。そしてサヒ=サイ(犀・才・佐井)は、サビ(錆・佐備)→サブ→サム(寒)と、そしてさらにサル(猿)へと転訛したのではなかろうか。 神奈川県高座(こうざ)郡寒川(さむかわ)町は寒川神社で有名だが、ここも寄居町同様高麗系の渡来人が多く居住したところで、高座は古く多加久良=高倉と称した。高麗朝臣=高倉朝臣であるから、寒川の寒も鉄と関係するのかもしれない。 寒野ついていえば、今もサビノと地元で呼ばれているのかどうかは定かではない。サムノ、あるいはサブノかもしれない。あてはめられた漢字で読み方が変わってしまう例はよくあること。たとえば、兵庫県佐用郡佐用町だ。現在はサヨウというようだが、元は讃容(さよ)で、おそらく小夜の中山などのサヨも同じ語だろう。 荒川 寄居橋
金尾白髪神社
したがって、寄居橋を渡った同町金尾の荒川右岸に、白髭神社があるのもうべなるかなと、境内の由来を記した石碑を見れば、そうではなく、白髪神社であった。 |
