スネコタンパコ、相も変らぬ妄執により、波久礼から寄居まで歩くこと 3
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ところで、この広場には、もう一つ「寄居町合併五十五周年 記念誌『金尾のあゆみ』の概要」と題する、巨大な説明板がどっしりと建っている。これほどの大きさ、これほど多量の文字が書き込まれた説明板というものをわたしは未だかつて見たことはない。申請すればギネスに登録されるのではあるまいか、と胸が高鳴る。
確かにこれだけ微に入り細を穿って記されていれば、わざわざ寄居町図書館へ行かずとも、金尾村の地誌の概要を把握することは可能だろう。しかし、いったい誰が読むのであろう。わたしだって始めの数行読んだだけで、あとは写真に収めたに過ぎない。仮に村人が読んだとしても二度と読むことはあるまい。とするとこれはわたしのような妄執者のために建造されたということなのか。それではいったいわたしのうような徘徊者がどれほどいるというのだろうか。 ま、そんな詮索はおくとして、その長文の始めにこうある。 ≪一 由来 金尾の地名の起りは古く奈良時代頃で、和銅年間(七○八〜七一五)銅を産し、天明天皇(第四三代在位七○七〜七一五)に献上した「黒谷村(現秩父市)の和銅山より続きし山の尾なるが故に金尾と言えり。」(『新編武蔵風土記稿』)とある。≫ 「天明天皇」?これは「元明」の間違いだろう。「元」を「天」と見違えたのか、あるいは元明の父、天智とちゃんぽんにしてしまったのか。いずれにしても、説明板が豪勢であるだけお粗末さが水際立っている。 もう一つ指摘すると、説明板を読んだだれもが、和銅山の尾根続きという金尾の地名由来は『新編武蔵風土記稿』の説、と思ってしまうのではなかろうか。ところが、同書には、続けて以下の文がある。 ≪甚附會の説なれども、土人の傳るままに姑くここに載す≫ ま、こんな重箱の隅を楊枝でほじるようなアラさがしはこのへんにして、わたしとしては、金尾の地名は、金属を産出するという意味の金生(かねふ)→かねう→かなう→金尾(かなお)ではないかと考える。つまり、岐阜県の金生山や桶川市の加納などと由来を同じくする地名なのではなかろうか。 http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/27129250.html それかあらぬか、『埼玉の神社』は、小字の上郷、中郷、下郷、笹原、小林にそれぞれ山神社が鎮座し、金尾に山神社信仰があったことを指摘している。山神社とは、鉱山神大山祇命を祀る神社だろう。 『大日本地名辞書』は、『和名抄』に載る「大山郷」を、寄居町の鉢形・折原とその周辺に比定しているから、これと関係があるか。茂木和平は、大山を大ノ国、つまり百済の渡来人集落を大山と称すと述べている。 また、『埼玉の神社』は、下郷には、子ノ神社があり、ご利益は足腰の痛みの快癒と財運招福で、叶うと金のワラジを奉納する習いがあると記しており、山神社同様採鉱冶金の民に信仰されたのではないかと想像される。財運招福というのも理解できる。そして、ことわるまでもなく、「叶う」は加納・金生・金尾に通じる。 金尾字笹原の集落
ついでにいうと、金尾の南を風布――フウプ、『新編武蔵風土記稿』にはフップ――といい、村社だった姥宮神社は石凝姥命を祀っている。地名と考え併せるとやはり銅を産出したものか。また、皆野町との境付近にある釜山神社がかつて蔵王権現を祀っていたということも、金尾=金生説を裏付ける根拠の一つとなるのではあるまいか。 伝蔵院本堂
寄居橋と「かんぽの宿寄居」
さて、白髪神社の別当であった傳蔵院――新義真言宗、本尊は薬師如来(『新編武蔵風土記稿』)――まで足を伸ばしてから、踵を返し、再び寄居橋を渡る。正面の山の上に見えるのは「かんぽの宿寄居」、そしてこの山を金山という。 |
