無題
原発を覆うもの 大飯原発の再稼働を、野田が「私の責任で行う」らしい。野田が勘違いしているのは、第一に、政治的な責任を取る個人的資質があるとうぬぼれていることである。小沢も説得できない野田に当事者能力などない。またこれが重要なことなのだが、選挙の洗礼を受けていない野田に責任を担わせた覚えなど国民にはない。責任を取るような決断をしたいのであれば、党首として総選挙の洗礼を受けてからにしてほしい。
朝日は、「今夏だけ」は稼働させ、本格論議は後にしようというような社説を載せた。絶対反対を叫んでいた橋下も同じようなことを言い出したらしい。なんだか、男と別れるために、最後の一発だけやらせろという要求をのむバカ女みたいである。経済界が再稼働にシャカリキなのは、このままなんなく夏を乗り切られると、原発などもともと不要であったという電力事情が露見してしまうからである。原発は、事故の際の住民被爆を担保にした大企業補助金のようなものであり、こんなおいしい仕組みは手放したくない。それでけなのである。一発やらせたらその事実が覆い隠され、原発と手を切ることができなくなる。
市場機構で考えると、原発事故という供給要因によって電力価格の見直しが必要となった。それも価格が上がる方向に、これまで不当に安かった大企業向け価格は大幅に見直すことが迫られるようになった。価格を抑えたいのであれば、需要を抑える、節電するしかない。大口需要者である大企業が節電することは、価格抑制のための最適な手法である。市場の自由な価格決定に従えば、そういうことになる。それを、ゆがんだ政治の力を用いて安いままに押しとどめようとする。再稼働を推進している連中のどこが自由主義者なのだろうか。
企業に飼われているノダメ犬だけでなく、福井の西川犬もそのうちにしっぽを振り出すだろう。橋下も、弱者にはこわもてだが強いものには逆らわないという本質を露呈させ始めた。正体がばればれになることはそれはそれで思わぬ成果かもしれないが、事故の不安を払拭したいという国民の思いはどこに反映させたらいいのだろうか。橋下よりも危険な独裁者を将来する下地になりはしないか。
先日どこかの新聞で竹中平蔵がポピュリズム批判をしていた。なんと「小泉内閣以後」にその傾向が強まったというのである。日本のポピュリズムは、おばちゃんたちが「純ちゃん」と呼んだ小泉で本格化し、竹中はそれに悪乗りして経済改悪を進めた。そのような不都合な事実を覆い隠そうと、いけしゃあしゃあと記憶の修正を図ろうとしている。原発という日本社会の本質にかかわる問題を、小手先で回避しようとする朝日の態度も似たようなものである。そこにあるのはごまかしの精神、口先だけで物事を解決しようとする無責任な心性である。この20年の経済停滞の原因でもある。日本人は、再度それを許してしまうのか。日本人の知性の正念場である。 |
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