スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル 柴犬ハルがお伝えします

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3月17日 記念日 その1

西暦(グレゴリオ暦)AD2017年 平成29年 昭和92年 大正106年 明治150年 皇紀2677年
第3金曜日 旧暦 2月20日、先負(癸卯)、月齢 18.5
グレゴリオ暦で年始から76日目、年末まであと289日。
誕生花 ルピナス・エンドウの花・サンシュユ・アンスリウム(ピンク)。

二十四節気・雑節等
春彼岸入。
雑節。春分を中心とする7日間が春の彼岸である。彼岸は、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行なう仏事を彼岸会と呼ぶ。最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」と呼ぶ。日本の気候を表わす慣用句に「暑さ寒さも彼岸まで」があり、残寒・残暑は彼岸の頃まで続き、彼岸を過ぎると和らぐという。彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているともされ、日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は、原始宗教の頃からの付き物とも言える。

漫画週刊誌の日。
1959(昭和34)年、日本初の少年向け週刊誌『週刊少年マガジン』と『週刊少年サンデー』が発刊された。講談社が発行する『週刊少年マガジン』の当初の主力作品は、連続小説が大半を占めていたが、当時はまだヒット作には恵まれず、ライバルである『週刊少年サンデー』に水を空けられている状況が続いた。しかし、1965(昭和40)年の「ハリスの旋風」を皮切りに『週刊少年マガジン』の快進撃が始まり、「巨人の星」「あしたのジョー」の2大スポ根マンガで一気に少年雑誌としての地位を不動のものとした。その他にも「ゲゲゲの鬼太郎」「天才バカボン」等も連載を始め、1967(昭和42)年1月にはついに100万部を突破した。また、雑誌編集者・SF研究家・映画評論家・翻訳家、大伴昌司の構成によるグラビア記事も人気に大きく貢献した。円谷プロの怪獣物テレビ番組「ウルトラQ」の怪獣を表紙の採用し、メディア・ミックスの先駆ともなった。1990年代前半は大ヒット作となる「金田一少年の事件簿」の連載が開始され、『週刊少年マガジン』史上最も連載期間の長い「はじめの一歩」、さらに「シュート!」「オフサイド」「風のシルフィード」等のスポーツ漫画や、「湘南純愛組!」「カメレオン」「疾風伝説 特攻の拓」等のヤンキー漫画の分野でヒット作が続出。1990年代の第2次黄金期の基礎を築いた。1965(昭和40)年に「マンガの神様」と評された漫画家、手塚治虫がSF漫画「W3」の掲載誌を『週刊少年マガジン』から『週刊少年サンデー』に切替えたできごとである「W3事件」の際、手塚治虫が『週刊少年マガジン』から原稿を引上げたため、対立軸を明確にすべく、『週刊少年マガジン』は1970年代に劇画路線を取ったことでも知られる。以降は読者の高年齢化が進み、1980年代から1990年代中頃まではヤンキー漫画や格闘漫画が主流を占めたため、「不良の読む雑誌」とされたこともあったが、いわゆる第2次黄金期(1997[平成9]年 - 2002[平成14]年)以降は、そのイメージは過去のものとなりつつある。近年の少年誌では珍しい、ノンフィクションのドキュメンタリー漫画が掲載される他、一時期は芸能人による連載企画も行なわれていた。多数の女性芸能人を輩出しているオーディション企画「ミスマガジン」を始め、グラビアアイドルや人気女優等のカラーグラビアも積極的に行なっている。また、「マガジン一押し!若手アイドル○連発」等と銘打って、まだ知名度の低いグラビアアイドルを纏めて掲載する企画が不定期で行なわれており、中には、乙葉や小倉優子等、その後、多くのテレビ番組に出演し知名度が高くなった女性タレントも出演していた。しかし、2000年代後半以後は、既にテレビで活躍している女性タレント(スザンヌ、南明奈等)が出演することが多い。古くは、手塚治虫や赤塚不二夫、つのだじろうといった著名な漫画家が居住していたことで有名な木造アパート、通称『トキワ荘』(1982[昭和57]年まで東京都豊島区南長崎に所在していた)組や小林よしのり等といった、複数の漫画誌を渡歩いている漫画家を多く起用していた。1990(平成2)年頃になるとその傾向は一旦低下するが、1999(平成11)年頃から再び、同社他誌の主力漫画家や他社デビューの漫画家を積極的に起用するようになっている。女性漫画家の起用は早い時期から多く行なっているが、ペンネームが男性風になることが多い。テレビアニメについては、1960年代から1970年代前半にかけては「あしたのジョー」や「巨人の星」等の有名作品を出していたが、1970年代後半から1980年代にかけては、アニメ化される作品が少なかった。これは、「泥臭さ・社会性」の誌風のため、時代背景にあった作品を出すことができなかったためである。1990年代以降は、ラブコメや萌え路線等、誌風の多様化によりアニメ化される作品が多くなったが、2000年代になると、少子化の影響により全日枠での放映が縮小され、深夜枠での放映が多くなっている。小学館が発行する『週刊少年サンデー』は、企画立上げ時のスタッフの中核が学年誌の編集者ということから、創刊前には「小学館の新児童誌」と宣伝され、実際、創刊から10年近くの間、学年誌の延長線上にあり、読み物や付録等が充実していた。1960年代半ばにはSFに力を入れ、当時気鋭の若手作家、筒井康隆が小説の連載を行なっていたこともあった。1960年代にシリアスな漫画で問題を起こすことが多かった一方、比較的ライトな内容のギャグ漫画やコメディ・タッチの漫画にヒット作が多かったことから、俗に「ギャグのサンデー」と呼ばれることになった。1980年代初頭には「ラブコメ」や「パロディ」も加わり、この様な軽快さは、雑誌の大きな気風として現在も続いている。両誌の価格は『週刊少年サンデー』が30円、『週刊少年マガジン』が40円で、創刊当時の編集長であった豊田亀市が「もしサンデーがマガジンと同じ値段だったとしたら、マガジンの付録の分お得感で負けてしまう」と判断したことから、両誌の契約している印刷所が共に大日本印刷であったこともあり、「マガジンが刷り始めるのを確認してからサンデーの値段を入れて刷る」という機密漏洩的後出しジャンケンのような裏技を使っている。創刊号の売上げは『週刊少年サンデー』が約30万部で、『週刊少年マガジン』が約20.5万部と『週刊少年サンデー』側に軍配が上がり、『週刊少年マガジン』も第5号から30円に値下げした。これ以降も、お互いが張合って雑誌の総ページ数を増やしていった。1960年代半ばから『週刊少年マガジン』が劇画路線・スポ根路線を開拓して、創刊当初の主要読者層(第二次世界大戦後のベビーブーム世代)を離さなかったのに対して、『週刊少年サンデー』は少年向けの漫画に拘った。1970年代になると、『週刊少年マガジン』との争いの敗北を受けて、追随する形で青年向け雑誌(『週刊少年マガジン』とは異なり、スタイリッシュな路線を目指した)への方向転換を図る。1980年代に入ると、劇画村塾(正式名称は「小池一夫劇画村塾」で、漫画家や漫画原作者・映画原作者の養成塾)出身の高橋留美子の「うる星やつら」と、小学館の少年漫画雑誌『少年ビッグコミック』で「みゆき」をヒットさせていたあだち充の「タッチ」、同じく「エリア88」をヒットさせていた新谷かおるの「ふたり鷹」のヒットでラブコメブーム(学園もの、青春もの)を巻起し、この3作品のアニメ化により部数を大きく伸ばして、1983(昭和58)年には最高発行部数の約228万部を記録した。1985(昭和60)年中盤に「ふたり鷹」が、1986(昭和61)年末に「タッチ」が、1987(昭和62)年初頭に「うる星やつら」が終了したのを皮切りに、それまでの『週刊少年サンデー』を支えていた作品の多くが完結し、1980年代前半の勢いが止まる。その後、高橋留美子の「らんま1/2」や、ゆうきまさみの「機動警察パトレイバー」等がヒットするものの、続くヒット作がなかなか出ずに部数が大きく落込み、1987(昭和62)年頃には『週刊少年マガジン』に発行部数を追抜かれた。

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