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人が一生の間で会える人の数は決して多くはない。
そして、その人達にしてあげられる事も決して多くないと思う。
だからこそ、せっかく出会えた人とはいい出会いにしたいし、
自分が出来る事があれば、出来る限りの事をしてあげたい。
後輩の面倒やサポートをしたり、近所の御老人のお世話をしたりした時に、
「シャラさんがこんな事をしようと思ったきっかけは何ですか。」
とよく聞かれるが、多分、上のような考え方が根底ににあるからだと思う。
そして、その考え方をするようになった大きな理由は、紛れもなく16年前
の今日の経験からだろう。
物事の考え方、人の接し方も、あの経験を期に大きく変ったし、
何よりあの日間近で命を落とした学生の分も、最後を見届けた他の犠牲者
の方の分も精一杯に生きて行かなきゃと、ことあるごとに考える。
そして、あの経験を他の人に伝えていくのも俺の使命であるように思う。
ただこの数年、他の人にこの話は出来ていない。
という事で、このブログの趣旨とはかなり離れるが、今回は「阪神大震災」
について書こうと思う。
写真上:
俺の住んでたマンションの斜め前から撮った写真。
一帯全て焼け落ちて、ホンマに戦後みたいやった。
写真中:
下の日記に書いた学生が火にのまれたアパート跡。
この後に家族が来られて、遺品を捜したり、花を添え
たりされてました。
写真下:
マンション南側の道を撮った写真。
ここは火が回らなかったものの、木造が多く建物がぐちゃ
ぐちゃになって、下敷きになった人が多い一帯でした。
と、あの頃の光景を思い出しただけでも、ちょっと潤んできた・・・
こうやって、健康で仕事が出来て、満足する生活が出来てる、ということだけ
でも、心から感謝せんと、と思う。
少し前にその時の経験について書いた文章があるので、ここで載せようと思う。
(意を決して(!!)書いているので、何かコメント頂けると助かります・・・)
数年ぶりに松田と再会。
夜に会い会社近くの韓国料理屋へ。
この松田とは奇妙な縁で学生時代に一緒に1ヶ月暮らしていた。
あれは1995年1月17日、友人がチケットをくれた神戸製鋼と大東大の日本
選手権を見るため、東京へ観戦に行った後、神戸の下宿に戻った朝に地震は
起きた。
尋常ではない揺れの後、ムチャクチャになった部屋から外に出て周りを見ると、
以前までの景色とは一変していた。
木造の家やアパートはぺちゃんこに潰れ、マンションも一階部分が潰れている。
そしてすぐ近くの商店街で火が出て、風向きからどんどんこっちに迫ってくる。
しかし、木造の家やアパートの下には外に逃げ出したくても出れない人間が
いるわけで、自分のマンションから近い家から順番に掘り起こし、助けていった。
最初に掘り起こしたのが、一軒家に住む若いお父さんらしき人。
外に出だすとすぐに、
「あの辺に二人子供がいるはずです。探してやって下さい!」
とのこと。
急いで掘り起こすと二人の子供が・・・。
一人目は助け出だすとすぐ自分の足で歩いたが、二人目はショックからか手足に
力が入らず、うなり声しか上げていない。
急いで道まで運びフトンをひいて寝かし、最後はお母さんの捜索に。
運の悪いことにそのお母さんの上家具が倒れていて、助け出すのにかなりの
時間がかかった。
何とか外に出したが意識はないし、手も足もあり得ない方向に曲がってしまって
いた。
「助かるとええんやけど・・・。」と考えていたら、すぐ近くで子供の泣き声が。
さっき助けた2人目の子供だった。
意識が戻ったようで「子供って生命力スゴイな!」とホッとしながら、すぐ
次の隣の家へ救出に向かった。。
何故か近くには若い人間がほとんどおらず、救出が終わって外を歩いていると、
「こっち助けて下さい!」「まだ何人かいるはずです!」と声がかかる。
どこもいつ火が来るか分からず、1人でも多くの人を外に出してやる必要があった。
1階に夫婦で寝てた家での救助。
すっかり1階が潰れてしまっており、2階の床が自分の胸ぐらいの位置まで落ちている。
で、家の梁が倒れていて旦那さんらしき人の頭の上に落ちていた。
多分、即死だっただろう。
そのすぐ横に寝ていた奥さんは、右足だけがどこかに挟まっていて抜け出す事が
出来ない。
家そのものも半分崩れかかっていて、これまた壊れた隣の家に寄りかかっている
状態。
まだまだ余震が続いている状況で、またいつその建物が壊れるか分からない。
学生数人となんとか助けだそうとしたが、我々の使える道具はスコップや
木の棒ぐらいしかなくどうしようもなかった。
地震が起きて既に4,5時間経っていたが、もちろんレスキューが来るわけもなく、
なすすべがないまま、火の向かう方向を確認しながら、水を飲ませてあげたり、
励ましたりするしかなかった。
その後、1時間程経ってやっとレスキュー隊が到着。
といっても3人だったが、今にも壊れそうな家を見て、
「後は我々に任せて下さい!君達は早く外に出て離れて下さい!」
と。
「ここはレスキュー隊に任せよう。」と思い、最後にそこから出ようとしたら、
「あっ、君はここに残って下さい。」
と半命令調で言われた。
なにやら、3人では足りないらしく即席で「レスキュー隊に加われ!」とのこと。
そのレスキュー隊の持ってきたジャッキアップで作業開始。
思ったより簡単で、一時間ぐらいで助け出すことが出来た。
確かに、あの時レスキュー隊に止められていなければ安全な場所に避難していた
だろうが、最後まで助けたいという使命感のようなものがあって、呼び止められた時
には逆にホッとした記憶がある。
その頃、この松田は俺がいたすぐ裏の自分の住むアパートで救助活動をしていた。
彼の住む木造アパートはうちの大学生ばかりであったが、地震で1階が潰れ、
ここも例外ではなく数人がその中に閉じこめられていた。全てうちの大学生だった。
そして不運にも炎がそのアパートに近づいていた。
そして、数人はガレキの中から助け出すことが出来ずに火に飲み込まれていった。
足だけが挟まれてる学生、潰れたアパートから引き出すにも全く体は動かない。
そして迫る火、その学生は言った。
「もういいから逃げてくれ。」
みんな泣きながらその場を離れた。
もちろん、泣きじゃくり離れようとしない学生もいた訳で、無理矢理その場所から
引きずり連れて行った。
そして、遠くから最後の叫び声が聞こえた。
「あ、あついっ・・・!!」
そして直後に潰れた建物が火に飲み込まれ、最後にグシャと倒れた。
松田とは、その救助活動を通して知り合った。
偶然にも同じ学部で共通の知人がいたこと、そして彼のアパートが全焼してしまった
こともあって、俺のマンションで同居する事になった。
その1ヶ月の間は、避難所にボランティアに行ったり、水を汲みに行ったり、
そして通う学校が避難所としてしようされ、閉鎖されていた近所の高校生に勉強を
教えたり・・・、と貴重な体験をした。
そして、俺のマンションもやっぱり基礎が緩くなっていて住めないこと、
そして松田が東工大の大学院に行くことになり、バラバラになった。
確かに一緒に過ごした時間は少ないが、普通ではあり得ない凝縮された時間を共有
した事もあり、こいつとは言葉は良くないが「戦友」のような感覚がある。
東京に来て、地震の話をほとんどしたことがない。
そう簡単に人に話せる話でもないし、話したところで現実を分かってくれるものでもない。
でもやはり簡単に記憶が薄れていくものでもなく、心のどこかにずっとあった。
で、今回松田が上京して来たこともあり、久しぶりに地震の頃の話を夜遅くまでした。
神戸に残った人間達は、その後の神戸の変化を刻々と見ているだろうが、我々は
あの頃の神戸のままで記憶が止まっている。
「近々二人で今の神戸の街を見に行こう。」という結論になり、寝床についた。
追加 :
偶然にも数日前、うちのオカンからメールが来ていた。
「松田君、地震のことで新聞に載ってるで。」
寮の管理人に頼み朝日新聞を貰った。
↓読みずらいとは思いますが、是非内容をご覧ください。
(画像の上にマウスをあてると右下にプラスマークが出てきます。
そのプラスマークをクリックすると画像が大きくなります。)
これを読んで何か安心したというか、胸のつかえが取れたというか。
ずっと松田も同じ事を考えていたんやなー、と。
地震から数日経って、一緒に松田のアパートの焼け跡を、
「何か残っとるんやないか」
と掘り返した。
が、形が残ってたのはスケート靴と水道の蛇口ぐらい。
他は全て見事に燃えており粉状になっていた。
スケート部だった松田は、このスケート靴を大事に持って帰り、汲んできた水を使って
一生懸命に綺麗にしていたのを良く覚えている。
そのすぐ横の数ヵ所に、花とお供え物が置いてあった。
高温に焼かれ骨さえも砂のようになってたらしい。
その場所でしっかり意識があったにも関わらず、逃げられずに炎に巻かれた学生達は
最後にどんなことを考えたのだろう。
あの地震で時が止まってしまった学生達が沢山いた。
俺はその学生達の分まで懸命に生きてこれてるんやろか?
今でも地震の頃のことを思うと、胸が痛くなって涙が出そうになる。
30過ぎたええ年のオッサンやのに。
あの震災を風化させないためにも、これからも少しずつでも伝えていこうと思う。
そして、これが少しでも周りで死んでいった人の供養になれば・・・
年始早々、重い内容ですいません。
って事で、明日から頑張ろっと〜。
全力で生きていかないとな!!
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