9イタリア編1

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イタリア自転車旅行 旅の記録 
旅行期間 1993623718
 
インドのコルカタを出発し、ネパールでトレッキングなどを楽しんだ後、パキスタンからイラン、トルコへ。トルコで相棒と別れた私はギリシャの島を渡って、いよいよイタリアにやって来た。
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▲ローマ・サンタンジェロ城からテベレ川を望む。2006年撮影。 
 
ギリシャ・パトラ〜バーリ〜(フォッジア)〜イッポカンポ〜(ベネベント)〜ボビーノ〜モンテサルキオ〜(カゼルタ)〜ナポリ〜スペルロンガ〜ローマ
ローマ〜グロセト〜リボルノ〜(ピサ)~マリーナ・ディ・マッサ~ジェノヴァ~ヴォゲーラ〜ミラノ~ドモドッソーラ~シンプロン峠
BariCamping Internazionale Ippocampo – LidoBovinoMontesarchioNapoli
SperlongaRomaTarquiniaGrossetoMassaGenovaVogheraMilanoDomodossola
 
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赤いラインが走行ルート。青いラインは航路による。 
印は滞在した場所。
 
1993年当時の為替レートは、
1ギリシャ・ドラクマ=約0.6
1イタリアリラ=約0.08
 
その1 南イタリアの巻
BARI ~ NAPOLI
 
1993、6/23
パトラからバーリへフェリーで渡る。
2030発、翌1500着。運賃はデッキクラス9,500ドラクマ(税1,000ドラクマを含む。約5700円)
パトラは道が広く、ごみごみした印象がない清潔な町だった。フェリーターミナル近くには旅行代理店が軒を連ねており、時間の余裕もあるのでハシゴしてみる。
5軒目に入った代理店から学割の料金提示を受けたのでここで購入した。
 2030出航予定だが、1900から乗船できるというので、とっとと出国手続きをし、
他の客が乗ってくる前にシャワーをたっぷり浴びて、ねぐらを確保した。
もう船旅はお手の物である。
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▲パトラの港。夜8時半、ギリシャを後にする。
 
 ギリシャからイタリアへは、一般的にはパトラからブリンディジに渡る。私は少しでも自転車の距離を短くしたかったので、もう少し北にあるバーリまで行ってしまったのだった。
これは失敗だった。もう少しイタリアのことを調べておけば、アルベロベッロに寄ることもできたし、南側からナポリにアプローチすればアマルフィの海岸やソレントに立ち寄ることもできた。なにより楽しかった南イタリアでの時間をもっと楽しむことができた。
同様の失敗はこの後も続く。ほんの少しだけ私がイタリアの観光について知っていて、若干の金銭的余裕があったなら、と思うと
「あそこに行っておけばよかった」
「ここは訪れておくべきだった」
という街や名所が絶えない。
残念なことにアドリア海沿いの南イタリアも、ナポリより南のエリアも今となっては遠い異国の地になってしまった。
 
 
6/24 
BARI 15km
ユースホステル12,000リラ+夕食12,000リラ=24,000リラ(約1,900円)
 
 フェリーのターミナル内にインフォメーションがあり、地図や宿の情報が手に入る。
英語はほとんど通じない。港から15kmほど進んでようやく着いたユースホステルのマネジャーだけが英語をしゃべった。日本でユースホステルの会員証を作っていったが、いよいよこの国からは会員証が力を発揮することになる。
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▲バーリの港。入国審査も税関もチョーいい加減でした。
 
 ギリシャではヨーロッパの物価に懲り懲りしていたので、イタリアでは、都市ではユースホステルに、そうでなければテントに泊まるつもりでいた私は、まずは港にいた兄さんを捕まえて、
「ユースホステル、ドーヴェ?(ユースホステルはどこか?)」
と聞いてみた。
ところが「ユースホステル」が通じない。そのうち港にいた人々が集まってきて、大声であれやこれやと相談を始めた。
「やや、これはトルコにいたころみたいな雰囲気になってきたぞお」
と思っていると、そのうち一人の中年オヤジが
「こいつが言ってるのはオステッロのことじゃないか?
と言い、中学生くらいの子どもを捕まえて、半ば強制的に
「おまえな、どこそこのオステッロわかんだろ? バイクで先導して連れてってやれや。」
と命令した(ようだった)。
バイクに乗ってよい年齢なのかどうか疑わしい子どもは得意げにモーターバイクを引いてきて、エンジンをかけ、左腕を振ってついて来い、と言った。
 こうして私は少年のバイクに先導されて、バーリのユースホステルにたどり着いた。
その夜、私はミシュランのロードマップを見ながらまずはローマまでのルートを大まかに決めた。アドリア海沿いの街・バーリから地中海沿いのナポリを目指してイタリア半島を横切り、その後ローマに向けて北上することにした。
 
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▲バーリのユースホステルで夕食。すでにパンかごはカラだ。イタリア語、勉強ちう。
 
 この国で初めての夕食には驚いた。
部屋でシャワーを浴びダイニングのテーブルに着くと、パンが置かれ、パスタが運ばれたので「12,000リラ(980円)も出してこんなもんかい???」と思っていると
「アローラ、なんたーらかんたーら、プレーゴ。」
などと言ってチキンのトマト煮を持ってきた。さらには2皿目のパスタが出てきた。
 私はカゴに盛られたパンをそのソースに付けてすべて食べつくした。そしてなぜか、最後に生ハムとサラミのオードブルとデザート、それにバカでかいオレンジジュースを持ってきてくれた。
 もちろん完食した。そしてこの国の食べ物に対する期待を、トルコ以上に、自分のおなか以上に、胸いっぱい膨らませたのだった。
 
6/25
Camping Internazionale Ippocampo - Lidoイッポカンポ 90km
テント 場所代5,000リラ(400円)。一日の生活費:2,400
 
 バーリからはアドリア海沿いのSS159号線を走った。イッポカンポはフォッジアに入る手前にある海沿いのキャンプ場の名前だろう。場所代といってもシャワーも水道もあり、施設使用料と思えば高くない。はじめ10,000リラと言われたが、シーズン前で閑散としていたので「チンクエ・ミッレ(5000にしてちょ)」と言ってみると、意外と事もなげに
「シー、シー(イエス、イエス)と言い、うれしそうに案内してくれた。私は「いい加減な値段だなあ。」と思ったが、ちょっとした売店やレストランもあって寝ぐらとしては悪くなかった。
英語は通じないが、こうしたおじさんやおばさんとの交渉は楽しかった。この国の言葉はまるで音楽でも聞いているかのようにリズミカルで、表現力が豊かだった。こうして私は、美しく、おいしく、安いイタリアがどんどん好きになっていった。
 
6/26
BOVINOボビーノ  88km
テント タダ。一日の生活費:2,100
 
 道を間違えてフォッジアという街まで北上してしまった。フォッジアからはSS90号線を進み、丘の上のドライブインで休んでいると他のお客を交えてやんやの騒ぎになった。
「どっから来た? 何キロこいだ? サドルはイタリア製やんけ。これからどこへ行くんや? おお、ナーポリー、ブラボオオオオオ。」
「今夜はここでテントを張って行け」などと言われ、夕食を食べてそのまま居座ってしまった。結局この日はレストランの駐車場の隅にテントを張らせてもらった。
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▲レストランはこんな野原の真ん中にあった。
 
ここの主人は英語を解するインテリ風のおじさんで、この夜、私はみっちりイタリア語を教わった。イタリア語は覚えやすかった。カタカナに直して日本語と同じ発音で言えばたいていは通じた。母音が二つある単語は二つ目の母音を伸ばせばよかった。ボンジョールノ、ピアチェーレ、マンジャーレ…。文法など気にせず(というより知らないのでこれを無視して)、ただ単語を並べれば通じた。
単語は聞いたことのある音楽や料理の用語が多く、私の語彙はすぐに増えた。赤いは「ロッソ」、白いは「ビアンコ」、おかわりは「アンコール」、大きいは「グランデ」、小さいは「ピッコロ」だ。なかでも「プリーズ」を表す「ペルファヴォーレ」と、「〜してもよいか?」を意味する「ポッソ」は毎日使った。
「○○をください」は「○○、ペルファヴォーレ」
「ここで寝てもよいか?」は「ポッソ、(ドルミーレ)、クイ?」
ただし、おじさんは私に「おいしい」を「ボーノ」でなく「トロッポ・オッティモ」と教えた。私は当初これを単に「おいしい」であると覚えた。本当は「最高にうますぎる」みたいな意味であるが、私は以降この言葉を連発し、そのたびによくウケた。
これがおじさんのいたずら心だったのか、想像力にあふれた気遣いだったのか。できることなら私はおじさんに尋ねてみたいと思っている。
 
6/27(日)
Montesarchioモンテサルキオ 92km
Hotel Ristorante Campo Verdeアルベルゴ・カンポ・ヴェルデ40,000リラ(3,200円)。一日の生活費:5,000
 
 午後ベネベントという大きな町を通過したが、人も車もいないことに驚く。まるでゴーストタウンのようだ。日曜の午後、イタリア人はこうも出歩かないものなのだろうか。
平日でも昼ごはんの調達には苦労した。立ち食いピザ屋やスーパーで買ってきてそこいらの公園で食べたが、午後になるとどの店も開いていないことがしょっちゅうだった。
 一軒だけあいていたバールに立ち寄って冷たい飲み物をもらおうと思った。
あいにくイタリア語勉強メモには「アイスコーヒー」の単語はなかったので
「アイス・カッフェ、ペルファヴォーレ」(アイスコーヒーちょうだい)。
と言ってみたが通じない。
「アイス、アイス。いやコールド。」
などとわめいていると店のお客が集まってきて、あーだ、こーだと騒動が始まった。
そのうちに店の兄さんは、入れたてのエスプレッソに砂糖をジャーーーーーーっと入れ、氷の入ったグラスに注いで出してくれた。私は一口飲んでうまいと思ったが、さらに欲を出して聞いた。
「ラッテ、ペルファヴォーレ。」(ミルク、ちょうだい)
こうして私は「カフェ・フレッド・コン・ラッテ」という、とんでもなくうまいアイスコーヒーの味を覚えた。
 
 モンテサルキオに入って小さな公園で一休みしていると、若い姉さん数人が寄ってきてあれこれ質問された。学生さんだろうか、少しなら英語が通じた。一人はかなりの美人で、ベスパにまたがって前かがみに話しかけてくるので胸の谷間があらわになった。彼女は
「トモダチのホテルがそこにある。モンテサルキオにレッツ・ステイ。」
と言った。聞けば真ん前のレストランがそのホテルだそうだ。値段を聞くと50,000リラだというので「40,000にしてちょ。」と言うと、それでよいと言う。「レッツ・ステイ」だから彼女もいっしょに泊まるのか、とも思ったがそんなワケはなかった。無念である。
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▲モンテサルキオの子供たち。残念ながらベスパの姉さんの写真はありません。
 
モンテサルキオのモンテとは山を意味する。つまりサルキオ山の村の意である。アルベルゴとはレストランが宿もやっているよ的な安宿で、夕食は1階のレストランで食べた。
ここで初めて「ペンネ・アッララビアータall'arrabbiata」を食し、帰国後も私の好物のひとつとなった。正しくはアラビアータではなく、冠詞が付くのでアッララビアータという。
日本人など来たことがないのだろう。わざわざ厨房からシェフがやってきて大きな声で
「チャオージャポネーゼ、オンダー(ホンダ)、トヨーター、アッララビアーター、プレーゴー」
などと言って持ってきて、勝手に隣のテーブルに座った。
辛いものが好きな私はもっと辛くしたかったので、もしかしてタバスコなる物は置いてないか尋ねた。シェフはタバスコのことは知らなかった。そこで私は
「ペペ、ペルファヴォーレ。ペッパー?チリ?ホット!!
と言ってみた。彼は大げさに頭に手を置くと、ちょっと待ってろ、というようにいったん厨房に下がると、しばらくしてフライパンを持って現れ、炒めた鷹の爪と油を皿の上のペンネにかけてくれた。
うまかった。
私は早速イタリア語勉強メモを取り出して
「トロッポ・オッティモ、グラーツェ。」と言ってみた。彼は大層喜び、両手を広げて
「オーッティモー、オーッティモー」と叫びながら厨房に帰っていった。
 
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6/28 Napoliナポリ 65km
ユースホステル 16,000リラ。一日の生活費:2700
ナポリの北・カゼルタから南下して市内に入ったが、石畳ばかりで自転車は進みにくい。
 このときも私はカゼルタ宮殿を見損なっている。走行ルートは宮殿の南側を西進しているが、その存在さえ知らない私はこれを無視して通過した。
私は観光には興味がないと強がり、旅にさえ画一性をもたらすガイドブックなる物をバカにしていたので、持っていても目を通さなかった。私はガイドブックよりバカだった。
ところで、バーリに渡るフェリーではドイツ人夫婦から
「ナポリには行かない方がいいんじゃない?」とか、
コス島であった日本人には                  
「ナポリは危ないらしい」
などと言われてきたのだが、道を尋ねたゲームセンターの兄さんも、カフェの姉さんも、このユースのスタッフもホスピタリティにあふれ、実に気分がよい街だ。
 ただ、昼まっからブラブラしているヤツは確かに多い。野田知佑氏の「魚眼漫遊大雑記」によれば、
「俺たちイタリア人はお前たち日本人の倍笑い、3倍食い、半分も働かない。幸せだろw?」
だそうだ。ナポリで会ったヤンキーどもは、まったくもってそんなヤツらだった。
 
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▲仕事はないが、なるほど幸せそうなナポリの人々
 
 ユースホステルは丘の上にあり、ナポリ湾が見渡せた。ナポリは重厚かつ美しい街である。歴史を刻んだ建物、夕日を浴びて金色に輝くベスピオ火山、街に響く鐘の音、明るい海、白い港…。「ナポリを見て死ね。」とはよく言ったものだ。
 
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▲サンタルチアの港ではウエディング・パーティーが行われていた。
 
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▲サンタルチアの港にて。海沿いには高級ホテルが建ち並ぶ。
 
 そしてこの国ではどうやら自転車乗りはスター扱いをされることに気付いたのもナポリだった。走っていると子どもが手を振ってくれるし、クルマは上手によけてくれる。
Da India per qui in bicicletta
ダー、インディア、ペル、クイ、イン、ビスィキュラッタ
=インドからここまで自転車で来たよ
と言うと、一斉に注目を集め、ピザが入った口のままあらゆる質問に答える羽目になった。
 
その2 ローマの巻
NAPOLI〜ROMA
につづく
 
ブログ村へ
 
 
 

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