『宮崎 駿』作品が語りかけるもの・・

生きること・・生きる意味・・ 生きねば・・

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カオナシ

千と千尋の神隠し・・ この作品にでてくる『カオナシ』というキャラクター

 何か不思議で異質な感じを醸し出すこのキャラクターには、実は宮崎さんが長年抱いていた強い『思想としての想い』が詰まっているような気がします・・

  実はこのカオナシという存在・・今までの宮崎作品にも度々姿を現していると感じるのです・・

例えば・・
 もののけ姫の『タタリ神』であったり、原作ナウシカの『皇弟』であったり、ハウルの『獣人となったハウル』であったり・・

 少し分かりにくいところで言えば、映画ナウシカの冒頭の『怒れるナウシカ』であったり、ラピュタの『ムスカ』や『黄金に目がくらんだ兵士達』であったり、トトロに至っても、実は『姉妹喧嘩』のシーンに『カオナシ』の存在があったりすると思うんです。

上記のシーンと『カオナシ』とが、何故に繋がるのか・・ 分かり辛いかもしれません・・
 しかし、『千と千尋のカオナシ』の存在を掘り下げていくと、それはある程度理解できていくのではないかと感じます・・


 映画の中でカオナシは、当初『橋の真ん中にただ立っているだけの無気力な存在』のように描かれています。しかしその存在は、千尋に出会ってから大きな変化を遂げていきます。そのきっかけは『千尋の、ただ素直な挨拶』からだったのかもしれません・・

  ですが、そのきっかけをもって、『カオナシ』は大きな行動に出るのです

 最初は遠くから千尋を見つめていただけのカオナシ・・ それがその『ちょっとしたきっかけ』にて想いが増長し、行動に出ていきます・・ 多分最初は千尋に対する淡い想いの『カケラ』程度であったのかもしれません・・

 ですが、初期の行動に出たカオナシは、千尋に一蹴されてしまう形となるのです(この時、千尋の思いとしては、一蹴するような大きな感覚が無かったとしても・・)。その後は『想いの雪崩・・積み木崩し』のように、千尋が気に入ると思われるものに固執し、更に自分の言葉では話せない抑うつした性格(とおぼしきもの)を、映画では『他人を飲み込み、取り込む』という『形』をとって、要は『他人の存在を盾にして、本当の自分を覆い隠しつつ』カオナシは饒舌になり、千尋以外の相手に対しても、姿を見せるようになります・・

 ・・カオナシが『カオナシ』たる所以でしょうか・・

 そうなると、もうカオナシ自身の中に存在する『自我(エゴ)』はとどまる事を知らなくなり(また、できなくなり)、自分の欲するままの・・まるで自分が世界の全てであるかのような『怪物』のような存在になっていきます・・

 ・・これらの状況は、じつは皆さんの生活の中に『本当に』無いと言えるものなのでしょうか・・ 他人に隠れて存在する自分が・・他人がいないと発言できない自分が、『無い』と言い切れる人は、どれくらいいるのでしょうか・・

 さて、そんなエゴの塊となった『怪物のようなもの』も、最初の『きっかけ』をくれた千尋に再会すると、元の・・ある意味内面的な・・臆病な存在に戻ってしまいます・・
                      『あ・・ あ・・』

 いや、ある意味『純真』といってもいいのかもしれません・・ ですが、その場面において、その純真なカオナシは、違う事柄に思いを馳せていた千尋に、またも一蹴されてしまいます。それ以前は、自分自身や他の者を相手に、ある程度の自我(エゴ)がまかり通る存在に(一時的にでも)なっていたにもかかわらず・・

           ・・このことが、カオナシの  大きな暴走を引き起こします・・

 彼は、自我・・利己的になっても、ある程度他者から認められた存在になっていたにもかかわらず、一番認めてもらいたかった相手(千尋)に否定されたことで、自我の暴走を招きます・・ ようは自分以外のものに対する想いが欠落した状態・・ 自分さえ良ければ、他人がどうなっても・・ 想う者・・愛するものさえどうなってもいいという状態・・

 でも、自分の中ではそれを正当化している存在・・ 本当の意味での顔(芯)の無い存在・・『カオナシ』に、その時なったんだと、僕は思います・・

 それは、後半の千尋との『一対一』でのやり取りで、顕著に現れていると感じます。何もかにもさておき、『セン欲しい』という、ある種の『欲望』に染まってしまっているカオナシ・・ そこにやってくる千尋に対して、『欲望』の化身たる『金塊』にて、千尋を我が物にしようと誘惑します ・・ですが、千尋はこの時、『愛するものへのまっすぐな心・・芯』を持ちえていた事もあり、カオナシの表面的な物欲を、『曇り無き眼』で見据え、カオナシの行動を否定し、また逆に肯定します。

 『あなたはどこから来たの?』『あなたは来たところへ帰ったほうがいいよ』『私が欲しい物は、あなたには絶対に出せない:・・』

 そして、カオナシの根本たる核心を突きます。カオナシの存在理由・・生まれた意味・・ カオナシはその『言葉』でたじろぎます・・

        いやだ・・ いやだ・・   さみしい・・  さみしい・・  あ・・ あ・・

 その次の瞬間、突然自我の爆発を見せるカオナシ(弱さを爆発させたとも言える・・)。一方的に自分の思いを・・ とにかくも通そうとする・・ 『セン欲しい!・・ 欲しがれ!!』

 ・・それに対して千尋は『哀れ』と感じたのか『かわいそう』と感じたのか・・ それともそれ以外の感情が働いたのか・・ 両親の為に大切にしていた『にがだんご』をカオナシに与えます・・ その『にがだんご』がどう作用したのかは、はっきりとは分かりませんが、カオナシを覆っている『黒い物質』=『汚物に満たされた自我』を次々と剥ぎ取っていってしまいます・・ それら『黒い物質』はある種の『力』であり、ある種の『弱さ』でもあるものの塊・・ 黒く・・ネバネバするような物質・・(と、宮崎さんは表現しています)

 その『汚物』にも似た物質を削られながらも、カオナシの憎悪は収まらず、千尋を追っていきます・・ ですが、電車の手前まで来たカオナシには、実は既にその『汚物』たる物質は、殆ど消え去っており、ただ千尋についていくだけの、見た目としては『か弱い存在』になっています ・・『にがだんご』の効力かどうかは別として・・

  はたして、カオナシは『か弱い存在』となってしまったのでしょうか・・?

      僕は、単純には『違う』と感じます・・

 カオナシは、元にあった『どこかに闇を抱えつつある、純真・無垢な精神』に近しい存在に戻った(回帰した)んだと思うんです・・

 ・・人は皆、『泥沼の闇』を片脇に携えた、『弱い光』のようなものだと、僕は宮崎作品及び、宮崎さんを追う中で、感じてきました・・ そう、だれもが『暴走する闇』を携えた、『か弱き光』としての存在なんだと・・ ある意味矛盾するような二面性・・ いや、多面性のある存在・・

 それは、現実社会のニュースでもよく言われる『犯罪者とされた人間への証言』・・ 例え真面目で誠実で、おとなしく・・堅実な人に見えても・・ いや、本当にそうであったとしても・・ 誰もが実は、その中に・・ それ以外の闇を携えながら存在しているんじゃないかと感じるんです!
  
   ・・そう、闇と光は表裏一体・・  実は同じところに存在しているのではないかと・・


 人はすぐに『正義と悪』や『光と影』というように、『二元論的』に考えがちになり、結論付けてしまいがちになりますが、実のところ、その両方があるのが『人間』であって、また『生物』なのではないかと、僕は感じるのです。

 要は、どんなに誠実に見える人であっても、どんなに悪徳な所業を行っているように見える人であっても、元にあるものは全てにとってある意味同じ・・ 闇と光が混然となって存在するものが『人間』であり、また『生き物』ではないのだろうか・・

 世間的にどんなに『善人』として認められている人であっても、その奥底には必ず『闇』があり、世間的にどんなに『悪人』として認識されている人であっても、その奥底には必ず『光』がある・・

 はたして、世間的に『認められる』ほどの善人や聖者と言われる人々が、その構成要素の全てを『光』で照らせるのか・・ はたして、世間的に『ののしられる』ほどの悪人や犯罪者(のレッテルをはられた人々)が、その構成要素の全てを『闇』で覆い隠せるのか・・

   宮崎さんは、千と千尋の放映中に、更に語ります・・  『僕の中にもカオナシはいます!』  ・・と


 世間のニュースなどで、『犯罪者』とレッテルの貼られた『人間』が報道されると、『全てを悪や闇』と捉えてしまう潮流・・ 逆にある種の『カリスマ』を持った人物や・・ またはもっと身近な『善良な市民』を見るだけで、安心感や安堵感に捉われてしまう風潮・・

 ・・ですが、その両方に、どれだけの差があるのでしょうか・・? 『罪』とはいったい何なのでしょうか・・? 逆に『善』とはいったい何なのでしょうか・・? 善悪に捉えられる彼ら・・ もしくは『自分たち自身』の存在はいったい何なのか・・? その事柄にもっと深く考慮すべき時代が今、来ているのではないのでしょうか・・


 ここ近年、『凶悪な犯罪』と呼ばれるものが多発しています・・ それはいったい何故なのか・・ 『凶悪』や『平穏』とはいったい如何なるものなのか・・ はたしてその『凶悪』を生み出しているものは何なのか・・ 実は善良とおぼしき市民・・空虚なる平和、それ自体が生み出し育てているものこそが『大いなるカオナシ』なのではないのでしょうか・・?

最後に・・
 カオナシは、誰の心の中にも存在すると、僕は考えます・・ それが良いとか悪いとかの問題ではなく、誰もの奥底には、カオナシとそれに反するものが存在するんだと感じます・・ その両者を活かすも殺すも社会次第な部分も大きいのかもしれませんが・・ 実は、それらはそれを受け止める『自分次第』であるところも大きいのではないかと、強く感じます・・
                               『どう受け止めるのか・・』


 欲しい・・ 欲しい・・  嫌だ・・ 嫌だ・・
      僕が・・ 僕が・・  彼が・・ 彼が・・
  あれが・・ あれが・・  これが・・ これが・・
     辛い・・ 辛い・・  他人が・・ 他人が・・  社会が・・ 社会が・・
 怖い・・ 怖い・・
   僕は・・ 僕だ! 彼は・・ 誰だ・・? 僕は・・ 誰だ・・?    僕は・・誰だ・・?

・・誰だ・・ 僕・・・・

     サミシイ・・ サミシイ・・  ア・・ ア・・    ぁ・・ ぁ・・     a・・



 誰もが持っている心の一部分『カオナシ』と・・
           それに相反するように・・実は『表裏一体』としてある心の一部分との調和を・・

      共にあり・・バランスをとりつつ・・

・・つづく⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/syuna1666/2088916.html

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