全体表示

[ リスト ]

みくりやと賀川豊彦
―乳と蜜の流れる郷―
加山久夫
I はじめに

私が一昨年四月、賀川豊彦記念・松沢資料館館長をつとめ始めて半年ほどしたころでしょうか、御殿場の地方紙の小さな記事のコピーをいただきました。そこには、NPO法人富士賛会議の方々が、昭和初期に賀川豊彦や彼と出会った人々によって建てられた、歴史ある建物を「賀川記念館」として保存していただきたいと、御殿場市議会に要請している旨のことが伝えられていました。私たちはさっそく富士賛会議にご連絡し、賀川資料館としてご協力できることはよろこんでさせていただきたいとの申し出をお伝えしました。その後、昨年二月、高根学園保育所で関係者の方々とお目にかかる機会があり、その際、大変興味深い話をお聞きし、また、農村恐慌の困難な時代に賀川と出会い行動した若者たちの高い志に深い感銘を受けました。「賀川豊彦資料展」のために御殿場の関係者によって用意された文章は実によくまとめられており、すこし長くなりますが、本日のテーマである「みくりやと賀川豊彦」の要約にもなりますので、まずご紹介したいと思います。

賀川豊彦が御殿場にお出でになったのは昭和五年八月一〇日でした。昭和のはじめの、吹きすさぶ農村恐慌の荒風は全国の農村を赤貧のどん底に突き落とし、御厨農村も例外なく苦しい生活の中にあえいでいました。
御厨農村青年と賀川豊彦との出会いは、小田原市久野にある曹洞宗の京福寺住職加藤一秀との出会いから始まりました。多感で探究心に富む青年たち三人は小田原の友人からこの住職(当時は小田原市立足柄小学校勤務)が図書館ぐらいの書物を所蔵していることを知り、山北回りで一時間以上かけて自転車を飛ばして行っては本を借り、泊まっては住職から話を聞きました。その話の中には、キリスト教徒の内村鑑三や賀川豊彦が出てきました。第八回イエスの友会夏期修養会が八月五、六日箱根堂ヶ島大和屋旅館で開催されることを伝える雑誌「雲の柱」との出会いがありました。
このことを知った勝俣俊孝、野木忠之、滝口良策の三人は御殿場小学校からテントを借り受け、野宿して修養会に参加し、賀川豊彦に御厨農村の窮状を訴え、農村再建と救済の指導を懇願したのでした。
賀川豊彦は二枚橋の現在御殿場ギャラリー付近に下宿され、昼は『一粒の麦』を執筆し、夜は農村青年たちに多収穫農法、立体農業、農業協同組合論、消費組合論、農業技術論、農民組合史、労働組合論などの講義をしたのです。青年たちに、賀川豊彦は「乳と蜜の流れる郷」農民福音学校を作り、立体農業の実験農場を開こうと提案しました。集まっていた二十数名の青年たちは歓喜し、清後の敷地に参集し、勤労奉仕で業者を支え、福音学校の建設に取り掛かりました。用材は高根村のご好意で村有林から伐採し、建設資金一八〇〇円は賀川豊彦が負担しました。昭和六年七月二三日、内部は洋式、屋根は急勾配の萱ぶき、三四坪の二階建て「御殿場農民福音学校高根学園」は完成したのです。
理論は実践の段階に入っていきました。家庭簡易料理法・洋裁を中心として女子農民福音学校、栗、くるみ、しい、とちなどの樹木作物、椎茸栽培・養豚・山羊の飼育と搾乳・ハムやソーセージなどの食肉加工、パン、味噌作りなどを始めていきました。まさに多角経営、立体農業の実践の場になっていったのです。また開園直後の八月一五日から農繁期の託児所が開設され、昭和九年には静岡県最初の常設保育所として発展していきました。
賀川豊彦は明治二一年(一八八八)神戸に生まれ、若くしてスラム街に住み、貧しい人たちの救済と伝道活動をしてきました。その活動は年とともに生活協同組合、農村改革運動、労働運動、世界平和運動と広がり、伝道活動もアメリカ、中国、ヨーロッパと広がっていきました。昭和三〇年(一九五五)ノーベル平和賞の候補として推挙され、シュヴァイツァー、ガンジーと並んで三大聖人と称えられるなど、まさに世界的人物として活躍をしていきました。御厨青年たちと賀川豊彦が農村再生にかけ、貧困と戦った歴史の証言としての建物は昭和四〇年御殿場ライオンズクラブの寄付金一五〇万円を基金として現在東グランドに移築されて「旧御殿場福音学校高根学園」(賀川豊彦記念館はライオンズクラブスポーツセンターとして更衣室として使用)として、その由来を説明した掲示板を掲げて保存されています。私たちNPO法人富士賛会議は御厨の青年たちと賀川豊彦の歴史をここにとどめたいと願い、多くの機関、団体、個人の方々のご支援をいただきまして「みくりやと賀川豊彦」資料展を開催することになりました。

因みに、現在、御殿場市教育委員会が掲示しています「旧御殿場福音学校高根学園」の案内版にはつぎのように記されています―

この建物は、昭和四一年三月に社会福祉法人雲柱社高根学園保育園から移築したもので、御殿場農民福音学校がその前身である。この学校は、昭和六年七月にキリスト教伝道者で社会事業家であった賀川豊彦が西田中に創設した。地元の若者のみならず、全国からも農業青年を集め昼は農業を、夜には聖書をひもといたという。また、農繁期にはこの建物は託児所にも利用され、後に静岡県初の常設の保育所に発展していった。

これらは、「みくりやと賀川豊彦」についてほぼ語りつくしていますので、ここでは、いくつかの資料を参考にして、多少の肉付けするとともに、御厨の青年たちが賀川豊彦らと共に考え、実践しようとしていたことの意味をご一緒に考えたいと思います。

初に、青年たちが賀川豊彦と出会った昭和五年はどのような時代であったかということを瞥見したいと思います。

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


みんなの更新記事