太陽はいつも☆ 異次元からの訪問者

ただいま《ささ舟》(養護施設時代)を、再投稿しています。

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エスパーりき(力)

イメージ 1
 
 
私が初めてyahoo!ブログを開設した時、
知り合った方のブログ記事に、
『不老不死・自然治癒力』についての記事がありました。
 
 数百のコメントが寄せられていて、圧倒されましたが、
有名な秘密結社の学長に、《オカルトの天才》エスパーと呼ばれた私。
この《不老不死・自然治癒力》のタイトルには、
孤独で過酷な人生にも、ほのかな希望が見えた思い出があります。
 
さてと・・・ 知る人ぞ知る、私には、娘が一人おります。
初めて妊娠したとき行った産院の検診で、「結核されてますね」と、
レントゲンの胸の影を指摘されて、再検査と言うことになりましたが、
調べた結果、私は自分でも知らない間に、発病し、
そして自然に治癒しているという奇跡を起こしていたようです。
大阪でも有名な産院でしたが、担当の男の先生が非情に驚いておられました。
 
そういえば・・ 兄の死と結婚、なれない生活と虐待に、
精神的にも 肉体的にも疲労困憊の日々を過ごしていました。
 
 私は学生時代運動会で走った事がなく、体育の時間は、ほとんど見学でした。
施設と変わらず、嫁ぎ先でも「辛い」と言うことを拒否されていましたからー

その頃も、ただ黙々と、孤独と虐待に耐える生活が続いていました。
今も、お医者からはずっと、「安静」を言い続けられています。
死に行く母から生まれた子です。 芯が弱いのでしょうねー  
 
しかしです。 
《忍耐強さ》にかけては、3歳の頃から
《天下一品》と言われるほど、忍耐と努力&優しい人でした。
 
子供が小学生になって、私が20代後半で結核を再発したとき、
その病、再発した結核が、私自身の身を守る結果となりました。
(『死に神のポケット』《限界まで耐えて》で、その頃を紹介)
 
その頃の体重は30キロ台、娘と服を共有できる体格。
つまり体力が無くて、大人用だと副作用がきつくて処方できない。
子供用の治療(注射)しかできないのに、
「薬を飲めなきゃ、この病気は治らんのや!」と、医者が頭を抱えて嘆きました。

私はその時、死を覚悟で、通院と薬を止めました。
けれど半年後、なぜか元気になって、治っていたんです(笑)
 
不治の病と言われた「しょうせきのうほう症」も、通院と薬止めて完治しました。
このときの不自由な体験は、現在私の生活にとても役立ってます。
 
病は決して、不幸の原因では有りません♪

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お姉さん達と

死に神のポケット 養護施設
 
             4 お姉さん達と
 
 私は小さかったのでよく分からないが、そこはお寺の檀家さんが時々寝泊まりしたように思う。
そのおじさんは頭が少し禿ていてダルマさんみたいな感じの人だった。
お風呂の当番は女子中学生がやっていたが、一度お姉さん達とお風呂に入っていたとき、
このおじさんがいきなり入ってきた。
 
 なんか急ぎの用事で直ぐに入って、また出かけるって事だったらしいが、
お姉さん達は情報が入って直ぐに飛び出した人や、まだ入ってなかった人もいた。
 
「キャ〜ッ」と、
けたたましい悲鳴と共にお姉さん達は下着を着るのがやっとで、服を持って外に飛び出した。が、
私はなんのことやらワカランカッタσ(^^)…
 
お姉さん達があんまり慌ててキャーキャー言うので、そのおじさんは、風呂場の窓を開けて、
「そんなに嬉しいか、ほ〜ら」って、外のお姉さん達に向かってオチンチンを見せたらしいー 
 
「わ〜っ」とか、「きゃー」とか・・まあ賑やかな叫び声に混じって、
「もも、あんたなにしんての〜」っと、言う声が聞こえたが・・
(ん…)
 
「おじさん直ぐに上がるからな、出んでもいい」って、言って、お湯を10回くらいザーザーかぶって、
すぐに出ていった。(ホンの2分の出来事でした) おじさんが出ていくと一人のおねえさんが、
「ももったら、平気で入ってるんだからー」っと、言ったけど、(なんでぇ?)
 
そして夏休みの午後だったと思う。

みんなが部屋でくつろいでいたとき、一人の男子が突然倒れたかと思ったら、
白目向いて、口から泡吹いて、全身が硬直して、仰向けに仰け反った。
 
部屋のお姉さんの一人が、「あ、この子、てんかんや!」と、叫んで、
周りのお姉さんたちと、男の子の体を押さえながら、「タオル持ってきて!」と叫んで、
側にあったタオルを渡すと、丸めたタオルを男の子の口に食わせさえ、
タオルが口から外れないように、(舌を噛まないように)口を押さえていた。
発作はすぐに治ったんだけど、驚いたのは部屋にいたみんなで、
本人は、何もなかったようにケロッとしてる。
 
「あんた、名前何だっけ、先生に言っておかないとー」と、今思うと、すごいお姉さんだった。
その男子は数回発作を起こしたけど、後、療養を兼ねた施設に移ったそうだ。
 
  ☆>すごいお姉さん(中学生)だった。

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 陽だまり

 
 
                    3 陽だまり
 
 児童組の部屋には、唯一「コタツ」が有った。
これは直ぐに「いろり」に代わり、やがて園児が増えた事で最後には無くなった。
 
男子はお寺の庭の方にある別の建物で、一部屋だいたい4人で、「用務室」と言うか、
其処にストーブ有ったので、冬の寒い時期、部屋に火鉢しか置いてない上級生の
お姉さん達はうらやましかったようだ。
(私が高学年になったときは、女子部屋にもストーブが設置された)
 
 姉(次女)と私は年が8つ離れているので、部屋は別だったが、寝る時以外は、
主に私たち児童組の部屋でカルタや百人一種などして遊んだ。
いわゆるお姉さん達は、みんなで8人位だったかなー殆どが戦災孤児で、
中には戦時中親とはぐれた人も居て、『コックリさん』で、
親が生きているかどうかなど、占っていたのを見たことがある。
 
 私が幼児組の部屋を出たこの頃、月山の前に鶏小屋が造られ、 20羽位いたかな? 
中学生のお姉さんやお兄さんが交代で小屋の掃除や 餌の当番をしていた。
次に山羊が一頭きた。珍しい友達にワイワイガヤガヤ・草を食べさせたり、粒々の糞に驚いたり…
 
 ある日私たちが遊んでいると、山羊が「メぇ〜」と啼いて、子供を産んだ。
年長の男の子がすぐに、炊事場の先生方に報せに行くと、男先生が、驚いてすぐに駆けつけた。
これは予定外だったらしく、慌てて山羊の親子に毛布がかけられ、小屋が閉じられた。
子山羊は少し大きくなるとどこかへ売られたらしい。
 
 お乳は幼児に飲ませていたらしいが、これは直ぐに止めて山羊は居なくなり、
鶏小屋も壊され、その後には客用の離れが一件建てられた。

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門前のお乞食さん

死に神のポケット 養護施設
 
          2   門前のお乞食さん

 幼いときの記憶なので定かではないんですが、たしか幼児組は4歳までで、
5歳になると部屋を出で、洗濯以外はお姉さん達とほぼ同じ生活が始まる。 
起床は6時、洗面と掃除の後ラジオ体操。(雨天はなし)
そして朝夕のお勤め(お経と園長先生の法話)それが済むと 食事は食堂でする事になる。
お兄さんやお姉さん達が学校に行き、私たちは一日中が遊び時間、ただし、食事の時間は必ず
食堂に居ないと、みんが食事出来ない事になる。

 子供の頃は何でも玩具になってしまう。
この頃は、お寺の大きな正門の扉が汽車の乗降口の代わりで、扉に弾みをつけて、
しがみつくように飛び乗るが流行だった。 
 
 いつもの用に正門の前に行くと、其処に一人の「お乞食さん(男)」が居た。
そのお乞食さんは私を見て、「 三つか? 四つか? 」と、私の頭を撫でてきた。
そしてポケットから小さな物を2つ出して、私の手に持たせ、門の前にあるお店を指さして、
「飴買ってこ」と、言った。

意味がよく分からなかったが、店のおじちゃんに見せると、「これどうした」と聞くので、
「あのおじちゃんが、飴買ってこって」て、門前のおじちゃんを指さすと、お店のおじちゃは、
「ん・そうか」と、お乞食さんをチラッと見て、「どれにするか・・よし」と、一番大きな飴玉を3つ、
紙袋に入れてくれた。

 飴をお乞食さんに渡すと、「食べ、食べ」と、袋から飴を一個出して私の口に入れてくれた。
「おいしいか?」って、尋ねるが、大きな飴だから、口一杯になって返事が出来ない。

「うん・うん」と、よだれを垂らしながらうなずいたら、「そうか・おいしいか・おいしいか・・・」と、
嬉しそうに目を細めて私を見て、飴の入った袋を私持たせたが、そのおじさんはすぐに、
顔を隠すようにして園から遠ざかっていった。
 
当時は分からなかったが、多分、泣き顔を見られたくなっかったんだと思う。
私はその飴を「奥さん」に見せると、貰ったんなら食べて良いって言われたので、
NちゃんとYちゃんに上げた。 
頂いたお金は2円でした、飴も少しオマケだったみたい。
もし逢えるなら、あのお乞食さんに、もう一度逢いたい。
 
 

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 影法師

死に神のポケット四  この章では、児童養護施設での生活を紹介します。
ずいぶん昔のことなのに、次々と思い出され、書いていくほどに懐かしいー
   
     
              1 影法師
 
 あれは確か、三歳の頃だったと思います。
その日は凄く天気のいい日で、お姉さん達が学校へ行った後、私とNちゃんと、
男の子A・B・C・D・としておきましょうか・・
私たち幼児組は、確か当時六人だったと記憶しています。
みんなで花壇の側で遊んでいたとき、Bが突然、「ぅわ〜っ」と、男先生(K)に抱きついた。
 
 何かと思えば、「黒い奴が怖い」と言う。
洗濯物を干していた女先生達も、突然の悲鳴に驚いて集まったんですが、
自分にしつこくつきまとう影法師が怖いと言ってるんです。
先生達が口々に、「ひとりぼっちの時も寂しくないようにお友達が居るんだ」とか、色々説明して
くれて、まあ・大きな陰に入れば居なくなるって事がわかりました。
 
 で、そんなにイヤなら踏んでやれって事で、「えいっ」と、男先生がBの陰を踏んだのがきっかけで、
私たちは《影踏》みと言う新しい遊びを発見したわけです。 しかしBは、みんなに笑われて
ふてくされたのか、それともまだ怖かったのか、しばらく図書館の陰から出てきませんでした。
いっぽう、私はこの頃から反対に、頭上に『光』が見えていたわけですから、「寂しくないように」と、先生の言う、
影法師の存在の意味がとてもよく分かりました。
 
 『光りの人』は、暗い足下に寄り添うお友達ではなく、常に頭上から見守るお友達なので、
影法師に対して光法師としたんですが、みなさんも幼いとき、影法師と光法師が、何時も側に居ませんでしたか?
 
光法師は、目をつぶると余計にはっきり見えるから、養護施設という一つの 《家》に在る、光と陰の部分を、私は『光』と共に何時も視ていたので、この一説をこのような題名にしました。
 
 

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開設日: 2011/5/10(火)


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