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瀬島龍三論#1

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瀬島龍三論#1
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「山本五十六の大罪」において、瀬島龍三についてある程度論じたが、一応新しく書き改める。いつものようにどのような展開になるか予想もできないが、読者の参加を大いに歓迎する。
これから論じる瀬島龍三論は主に、瀬島氏自身が書いた「瀬島龍三 回想録、幾山河」(発行:産経新聞社版、初版第一刷発行:1996年8月1日、第13刷発行:2009年12月20日)、「瀬島龍三参謀の昭和史」(著者:保坂正康、発行:文藝春秋、昭和62年12月、文春単行本)、それに中川氏著「「山本五十六の大罪」を参考にする。なおこれから敬称は省く。
まず瀬島の自叙伝ともいえる、「瀬島龍三 回想録、幾山河」を検証してみる。

「瀬島龍三 回想録、幾山河」の検証

この本は669ページもある。ところで「大罪」でも書いたが、中川は瀬島のことを次のように記している。
「瀬島龍三は、開戦時の1941年の時はむろん、戦時中もずっとソ連のGRUに所属し、シベリア時代ではNKGBに、1956年8月シベリアから帰還する直前にKGB第一総局付きの高級工作員になったようである。1979年、米国に亡命したレフチェンコKGB中佐が、米国議会で証言したコード名「クラスノフ」とは、瀬島のことである。
瀬島龍三は、11年間のシベリア抑留時代のうち、1948〜50年の約1年半、モンゴルのウランバートルにあった、(偽装看板は一般収容所名の)高級工作員養成所で訓練を受けている。このときの教官の一人に、1954年、東京で米国に亡命した、ラストボロフNKGB中佐がいる。瀬島は、転々としたシベリア抑留時代の収容所名のすべてを明かさない。この高級工作員養成所に入所したのが判別されないようにする、用心深さからである。
ラストボロフは、自分が教えた教室には、11名の元エリート日本陸軍将校がおり、その中に瀬島がいた旨を米国で証言している。在日のCIAオフィサーは、瀬島が1956年8月にシベリアから帰国直後、下船した舞鶴港にそのまま一週間ほど「日本の官憲に依頼し」拘禁し訊問した。さらに瀬島が陸上自衛隊に入らぬよう。直ちに防衛庁その他に働きかけをした。米国の断固たる、この瀬島対策の根拠の一つは、ラストボロフ証言だった。
瀬島龍三は、やむなく伊藤忠(商社)に入社したが、世間の眼は「ソ連のスパイ」であり、これを軟化させる一計を案じた。山崎豊子の所にいって自分を売り込み小説の主人公にしてもらうことであった。それが『サンデー毎日』に連載され(1973〜8年)、『不毛地帯』となった。そして、この小説の主人公『壹岐正』を通じて、瀬島はイメージを劇的に好転させるのに成功した、数多くの事実の歪曲や隠蔽にも成功した。瀬島の情報戦はかくも天才級で、スパイと名指しされながら、出世と栄誉の中の人生を終えた。」

次の三点について、瀬島自身はどう述べているかを検証する。
シベリア収容所時代のこと
自衛隊に入らなかった理由、その結果(?)としてか、伊藤忠への入社
山崎豊子の小説のモデルになった経緯


シベリア収容所時代のこと
細かなことは後で述べるとして、「幾山河」によると、時代別に、アムール(黒龍江)河畔の収容所、ハバロフスクの第14分所、第45特別収容所、第13分所、第6分所、第21分所、滞在となっている。1948年(昭和23年)〜50年(昭和25年)の約1年半、モンゴルのウランバートルでの高級工作員養成所のことについては一切触れていない。では昭和23年〜25年の期間が明記されているところを抜粋する。
「昭和24年5月、メーデーが終わったころ、私はまた、突然『出発』と言われ、ジープに乗せられて監獄(ハバロフスク第一刑務所)へ連れていかれた。ソ連の囚人ばかりの部屋だった。翌日からさっそく、取り調べが始まった。『いよいよ裁判だな』と思った」(P332)
「年が明けて昭和25年のある日、高橋ブリガジールは私に、『今から25年の刑を終えるまで重労働に服するのは大変だ。一番からだにこたえるのは零下20度、30度での野外作業だ、厳冬のとき、室内作業が主となるのは左官仕事だから、それを覚えなさい』と言って、左官仕事に回してくれた(注:第6分所時代の話)」(P336)。
「昭和25年4月中旬、第6分所の全員約三百人は高橋ブルガジールに引率され、別のラーゲリへ移った。着いたところは、ハバロフスク南部のウラジオストクに向かう通称『スターリン街道』近くにある第21分所であった」(P338)

中川が言う、当時ウランバートルに瀬島がいたとすると、瀬島の記述と矛盾する。どうも中川の説は昭和41年に刊行された松本清張著「現代官僚論」の記述から来ているようだ。保坂正康著、「瀬島龍三参謀の昭和史」P46〜P48に中川の書いていること以上の詳しい叙述がある。松本の指摘ではモンゴルのウランバートルではなく、モスクワ近郊の第7006収容所となっている。保坂は中川より慎重な書き方をしている。
「モスクワ近郊の第7006収容所については、今となっては確認はできない。この収容所にいたといわれている軍人の一人に取材したが、「このときの話はあの世にもっていく」といい、詳細は語ってくれなかった。しかし、自らはアクティブに協力的だったと認め、あそこで生きるためには仕方がなかったことだ、といい切った。一定の生活が保証され、モスクワ市内を歩く自由もあったことを暗に認めた。そして、収容所の中で徹底的にマルクス主義を学び、この思想が歴史的にある程度の役割をもつと評価している、と断言していた。
瀬島は、この松本の著書に関してはいかなる形でも触れていないので、その実体はわからない。ただ、元関東軍のロシヤ語教育隊の軍属で、収容所内の民主化運動リーダーだった浅原正基(後にアクディブ間の権力闘争に破れ、ソ連側から戦犯扱いとなる)は、帰国してからの手記(『中央公論』昭和31年10月号、「デマ、中傷に抗して<シベリア天皇>の手記」)で、民主化運動はなやかしころの瀬島を同志として讃えるかのように、こう書いている。『ソ連証人として関東軍の罪状を勇敢にあばき、またシベリヤ民主運動の昂揚期にはハバロフスクの第13分所の将校ラーゲルにおいて、自ら民主運動参加を表明した経歴を持つ瀬島中佐・・・』
瀬島スパイ説の真偽は不明だが、松本の著者に紹介されている怪文書は、スパイ説の底流になっていて、今も囁かれつづけている」

瀬島がソ連スパイであったかどうか、松本清張の著述の信憑性にかかっている。松本がしっかりした裏づけされた事実に基き書いたかどうかにかかっている。保坂のこの収容所にいたらしき人間とのインタビューからすると、極めて黒に近いということになるだろう。中川は瀬島をスパイと断定しているが、保坂は断定を避けている。
木庵の感触として、瀬島の著作だけを信じるのはあまりにも単純だろう。だからといって、中川のように瀬島をスパイと断定もできない。しかし、ソ連側の立場から考えると、瀬島のような陸軍の中枢部にいた人間を普通の兵隊のように扱うはすがない。瀬島のような高級将校から日本がどのように対ソ戦を考えていたかを知りたいところだろう。普通の兵隊のように重労働させていては、日本の戦前戦中の極秘情報を得ることなどできない。だから瀬島たちを、特別なところに収容して、情報を得るだけでなく、ソ連に組する人間に教育、改造しようとしたのは間違いない。瀬島は著書のなかで、捕虜だちがソビエトが強制する労働を効率的に行わせるために旧日本軍の組織そのものを利用したと述べている。それだけの目的のために。高級将校を利用したという瀬島の言葉の裏に、重要なことを隠蔽しようとする胡散臭さを感じる。

写真の説明:巨峰。芽、葉っぱ、花まで育っている。
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