歴史の証言(読者の反応、検索で得た情報)#2
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<読者から#1に対するコメントを頂いた。紹介する。木庵>
木庵さん、
新潟のアメリカ兵捕虜の話しですが、僕が最近読んだ”UNBROKEN”と言う実話の本(英語)に主人公が新潟の捕虜収容所に居て、そこで終戦を迎えた事も書いてありましたよ。
主人公はトーレンス出身で大戦前は陸上選手として有名で、オリンピック目前に空軍に徴兵され、太平洋で日本軍に撃墜され、何日間も太平洋を漂流した後、日本軍が占領する太平洋、インドネシアの一部(?)の小島で日本軍捕虜となり、日本の巣鴨捕虜収容所に送られ、最終的には新潟で終戦と共に開放されるとの話です。その中に、Oさんの話しにある、作業ののような事も書かれていたと記憶します。戦争をアメリカ人捕虜の目から見た話しとして興味深いものでした。
この本、ごく最近までCOSTCOで売ってましたよ。
Fより
<トーランス出身か。身近なところでOさんの話と結びつく人がいて、本まで著しているとは、面白い。”UNBROKEN”という本を読んでみたいところだ。木庵>
<もう一人、新潟出身のMさんからもメールを頂いた。木庵>
木庵先生
日本には、外国人の捕虜収容所が、結構沢山あったのです。
記事と同じく新潟県の直江津(現上越市)の海岸近く(やはり港がある)には、太平洋戦争で捕虜になったオーストラリア人の捕虜収容所があったそうで、約20年位前からは、捕虜の遺族の人達との交流も行われ、跡地に記念碑も建てられています。
ご参考までに、、、
Mより
<祈念碑については後に書くが、碑の除幕式にカナダ人もいたとあるから、Oさんはアメリカ人の捕虜だと信じていたのが、オーストラリア人とかカナダ人であったのかもしれない。新潟にはOさんの働いていたところだけでなく、他にも捕虜がいたようであるが(?)。
Oさんという個人の証言を書いたが、新潟港機雷攻撃などについて、調査が進んでいるようで、以下はインターネットの検索から得た情報である。Oさんの証言と比較しながら読むと面白いと思う。木庵>
1,空襲等の概況
新潟市は、信濃川河口を港とする日本海側屈指の港湾都市であった。新潟港と北朝鮮とを結ぶ日本海航路は、東京と「満州」の首都を結ぶ最短路であった。戦争末期には、太平洋側の航路が保てなくなり、内地への物資受け入れ港として、新潟港の重要性が急激に高まった。
新潟市が受けた空襲は、新潟港の封鎖を目的とした、アメリカ軍の機雷投下が主であった。B29爆撃機による機雷投下は、昭和20(1945)年5月14日から8月1日までの間、12回であるが、裏付けがとれないものが2回含まれる。機雷投下以外では、艦載機による銃爆撃が20(1945)年7月17日と8月10日の2回であった。また、アメリカは、7月25日に新潟市を原子爆弾投下目標の一つに定めたが、新潟市への投下は実行されず、終戦を迎えた。
2.市民生活の状況
2-1.動員
多くの市民、近隣町村の人が、港湾荷役や軍需工場に動員された。また、朝鮮・中国で連行されて新潟へ配属された人、新潟に収容された欧米人俘虜(ふりょ)も、港湾荷役などに従事させられた。
昭和20(1945)年4月以降、軍による港湾荷役のため3000〜4000人の船舶工兵が駐留し、学校や寺院が宿舎になった。市販の地図は、鉄道の引込み線や軍需工場が白抜きで印刷された。
2-2.緊急強制疎開
焼夷弾の空襲に備え、昭和20(1945)年5月に第1次、6月に第2次の建物疎開が実施された。8月1日夜、新潟市から約60キロメートル南の長岡市が、焼夷弾の空襲を受けた。南の空が赤くなった。第3次建物疎開が始まった。6日、広島市へ「新型爆弾」が投下された。次の投下は新潟といううわさが広がった。
県は、10日に「一般新潟市民」の緊急疎開など4措置を決定し、11日に町内会を通じて知事布告を配布した。布告には、「新型爆弾ハ我国未被害都市トシテ僅ニ残ッタ重要都市新潟市ニ対スル爆撃ニ、近ク使用セラレル公算極メテ大」などと記された。
市民の疎開は、知事布告が配布される前の、10日夕刻から始まった。近郷に通じる道路は、荷物を担ぐ人や、荷物を積んだリヤカーを引く人で埋まった。12日、新潟市内は人気がなくなった。13日の墓参りは閑散とした。住職も多くが疎開した。
3.空襲等の状況
3-1.機雷投下
12回の機雷投下は、すべて深夜で、零時過ぎであった。5月27日、8月1日の機雷投下の実態は不明。他の10回はアメリカ軍資料で確認された。1回の飛来機数は2〜12機、10回計で66機。投下機雷数は43〜144個、10回計で781個。投下は、信濃川を横断する方位で、港内から港外にかけて、スライス状。撃墜は、7月20日に高射砲が命中した1機で、乗員11人のうち4人が死亡、パラシュートで脱出した7人が捕えられた。
機雷投下後は、一応の掃海作業完了後、航行再開が繰り返された。触雷は、機雷投下初日から発生し、8月15日までに触雷した船は、判明している数で36隻。漁船や艀も触雷した。沈没・座礁した船は航路の障害になった。7月19日に浚渫船「大黒丸」が触雷・沈没し、港の水深が維持できなくなった。新潟港の年間輸移入量は、昭和19(1944)年の約235万トンが、20(1945)年には約114万トンになった。
触雷による死亡事件は、判明している数で、戦時中は6月4日から8月2日の間に9件、死者83人。このうち、7月2日に信濃川の港内で起きた「鉄工丸事件」は、多くの市民に知られている。「鉄工丸」は新潟鉄工所の船で、信濃川左岸の入船(いりふね)工場と右岸の山ノ下工場の間を、通勤用の艀(はしけ)を引いて運行していた。午後5時5分、仕事を終えた所員や勤労動員の生徒ら、70人ほどが乗る艀が触雷・沈没した。新潟第一工業学校・新潟第二工業学校・相川(あいかわ)中学校の生徒12人と、鉄工所関係者16人の計28人が死亡し、後日さらに2人が死亡した。
終戦後は、昭和47(1972)年までに8隻が触雷した。このうち、死亡事件は3件、死者6人。昭和47年の触雷は、河床の下に埋没していた機雷に、浚渫船が浚渫作業によって触雷した。
3-2.艦載機の空襲
1回目の空襲は、7月17日、午前10時30分過ぎ。機数は十数機、機種はF6FヘルキャットとF4Uコルセア。新潟市郊外の新潟飛行場が攻撃された。機銃掃射・ロケット弾・小型爆弾で、大格納庫、整備教育用の輸送機3機などが破壊された。死亡者はなかった。
事前の空襲警報はなく、警報が発令されてからも、市中心部では買物行列が崩れなかったほど、市民は白昼の空襲に対し無防備だった。
2回目の空襲は、8月10日、午前11時45分過ぎから15分間程度。機数16機、機種F6Fヘルキャット。攻撃目標は新潟飛行場の石油タンクであったが、船舶や工場・民家も機銃掃射・ロケット弾で攻撃された。空襲による死者は、判明している数で47人、うち43人は船舶攻撃による死亡。撃墜は、陸軍軍用船「宇品(うじな)丸」との交戦による1機で、パイロット1人が死亡した。
兵士16人、船員3人が死亡した「宇品丸」は、触雷して港内の信濃川左岸浅瀬に乗り上げていた。高射砲や機関砲を装備していたため、座礁後も船員約50人・兵士約100人が乗り込んでいた。死亡は艦載機との交戦によるものであった。
乗客14人、船員1人が死亡した佐渡汽船「おけさ丸」は、信濃川左岸の発着場に接岸するため、微速で航行している時に攻撃された。後部甲板を中心に機銃掃射を受け、客室で多くが死亡した。
写真:地図「新潟港の主な触雷地点」
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