タケちゃんの写真館

一歩一歩夢に向かって歩いています

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写道家 その1

……私は、「芸術とは生きることの意味に対する自分の答えを表現すること」だと思っている。そして、「人生こそが最大の作品である」と。

――「アイスクリームカーでカキ氷を売りながら、オーストラリアの写真を撮ってまわる」という夢を抱きながら、シドニーに住みついて早や二一年。一歩、一歩、夢に向かって歩いています。これから、自分の夢が実現されるまでをブログにしたためていこうかな。――


カキ氷のわけ

こんにちは! はじめまして。
って、アイサツから入ればいいんだろうか?
ハッキリ言って、「ブログ」ってイマイチなんのこっちゃ、ヨウわからん。
ので、思いつくまま勝手気ままに書いていこう。
って言っても、ウソやデタラメは書かないよ。
でも、恥ずかしながら私は、二一年も異国の地に暮らし、写真ばかり撮ってたものだから、とてもマトモな文章なんか書けそうもないので、多少、日本語がおかしくなっても、支離滅裂になっても、なにとぞゴヨウシャください。

……私の夢は、「カキ氷を売りながら、オーストラリアの写真を撮ってまわる事」
そう思い描きながら、二一年も過ぎてしまいました。
なんで「カキ氷」なのかというと、私がはじめてオーストラリアに上陸したのは一九八五年。ちょうど、ハレーすい星が地球に最接近して、南半球側からよく見えた時期だったなぁ。

なんで「オーストラリア」だったのかというと、そのことについてはまたあとで書くことにします。

で、初めてオーストラリアに来たのは、働きながら一年間滞在できるワーキングホリデーという制度を使って。
ワーキングホリデービザ、通称「ワーホリ」で海外に出て行く若者は、今でこそいっぱいいるけど、その当時の日本は終身雇用が当たり前の時代。
一度入った会社を辞めるのはフトドキ者! と思われるような時代に、まして、海外に出て行くなんていうのは、もってのほかという雰囲気。

それでも、「オーストラリアに行ってみたい!」という気持ちが抑えきれなかった私は、五年ほど勤めた写真会社を後にして、オーストラリアへと旅立ちました。
無知な私には、オーストラリアというと、「緑の大地にヒツジがいっぱい」というイメージしかなかったけど、シドニーに着いてみてびっくり。
(なぬっ? ビルがいっぱいあって案外都会やん!)
ところが、都会なんだけど、そこに暮らしている人々はいたって大らかなんだなぁ、これが。
街なかで地図を広げていると、親切にも見ず知らずの人が、どこに行きたいのか聞いてきて、懇切丁寧に教えてくれる。
(奇特な人だなぁ)
と思いながら、教えられた通りに行ってみると、全然違うところにたどり着く。
(ん? ニャロメ、さてはあヤツ、知らないのに教えようとしたな……)

そこが、コアラの国に住んでいるオージー(オーストラリア人の愛称)のオージーたるゆえんなんだろうけど、その、「困っている人を助けたい」という気持ちがすごくよく伝わってきたので、怒りよりも、むしろ、なにかほのぼのとした気持ちになりました。ホント。
日本人が忘れてしまった大切な何かを持っている。
そういう人たちが、いっぱい暮らしているのがオーストラリアです。

……あらら、話が横道にそれてしまいました。
そうそう、カキ氷、カキ氷。
シドニーに着いて早々、クージービーチという海の近くのプライベートホテルに住みつきました。
目と鼻の先のビーチにちょくちょく行って、真っ青というにはあまりにも青い、オーストラリアの空に映し出された紺碧の海を眺めながら、真夏の太陽がじりじりまぶしい砂浜に寝転がっていると、
(ここに、カキ氷売りがいればいいのになぁ)
と思うことがしばしば。
(それなら、自分でやっちまおう!)
と思いついて、当時のワーキングホリデー制度が半年ごとのビザの更新だったので、半年後に一度日本に帰って、大阪の道具屋筋で、手動の業務用かき氷機とシロップ類を買い込んで、かき氷売りの準備万端整えて、再びシドニーに戻りました。

そして、シドニーでイギリス製の一九六三年式コマー(COMMER)というトラックを改造した、かわいらしいミッキーマウスの絵が描いてあるアイスクリームカーをゲットして、いよいよビーチの前でカキ氷売りを始めることに。
が、英語のまったくできなかった私は、てっきり日本の喫茶店で出してる「フラッペ」というのが「カキ氷」のことだと思っていて、
サインボードに「JAPANESE STYLE FRAPPE」と書いて出したところが、通行人がケゲンそうな顔をして通り過ぎるだけで、さっぱり客は来ず。

あとでわかったことなんだけど、「フラッペ」というのは「果汁を凍らせたもの」のことで、「カキ氷」なんて見たこともなかったオージーたちには、ナンノコッチャワカランかったんだろうなぁ。

ある日、あんまりヒマなものだから、目の保養にトップレスのおねえさんでも見てこようと思って、「イチゴミルク」をつくってサクサクしながら、ビーチを一回りして戻ってみると、びっくり! お客が並んでいる。
「赤いサクサクくれ」って。
(私が、カキ氷をサクサクしながらビーチを歩いているのを見て、ほしくなったのかな?)
で、今度は、試しに「レモンミルク」をつくってビーチを一回りしてみると、
「黄色いサクサクくれ」って並びだす。
(おもしろい、おもしろい)
お客が並ぶとまた並ぶ。わけがわからない人までも何事かとその後ろに並ぶ。
(オージーって、なんと単純な!)

おかげで忙しくなって、カキ氷をひっきりなしにかき続けたものだから、右腕だけが太くなってしまいました。
たった半年ほどの経験だったけど、でも、楽しかったなぁ。

以来、「オーストラリアの写真を撮ってまわる」という当初の目的に「カキ氷」がプラスされて、「カキ氷を売りながら、オーストラリアの写真を撮ってまわる事」が、私の夢になりました。

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写道家 その2

オーストラリアのわけ

カキ氷を売りながらオーストラリアの写真を撮ってまわるんだ。いいでしょう?
なんでオーストラリアなのかっていうと、なんでなのかなぁ? だだっ広い緑の大地に憧れてたのはなんでなのかなぁ? と、よくよく記憶をたどってみると、
たぶん、幼い頃にうちにあった、世界の国々を写真で紹介する本の中の、大草原にヒツジがいっぱいいるオーストラリアの写真を見て、「ヒツジさんに会いに行きたいなぁ」と思ったことが、深層心理の中に深く刻み込まれたんだろうね。

子供の頃に、ほらっ、よく「将来の夢」なんていう作文を書かされるでしょう?
その作文で、私の将来の夢は、「俳優になる」か、「ギタリストになる」か、「オーストラリアに行って牧場を経営する」かしたいなんてことを書きました。

作文を書いた当時のオーストラリアは、「白豪主義国家」で白人しか移民が認められていなかったから、黄色人種の日本人が、オーストラリアに移住するなんてことはできっこないって、授業で習って知っていたのに、それでもやっぱり憧れがあったんだろうなぁ。案の定、それを読んだ学校の先生には鼻で笑われました。

「俳優になりたい」っていうのは、小さい頃からよく、近所のガキンチョたちと「キーハンターごっこ」なんかやって、千葉真一さんのようなカッコいいアクションスターに憧れていたからなんだよね。折しも、作文を書いた頃は、「ブルース・リー」ブーム真っ盛りだったしね。
そういえば、アチョォォォ! なんて叫びながらカンフーのマネごとをして、勢い余って後輩の骨を折ってしまい、その親から怒鳴り込まれたこともあったなぁ。

「ギタリストになりたい」っていうのは、かぐや姫とか陽水とか拓郎とか、フォークソングが全盛の頃で、みんながフォークギターで弾き語りをしている時に、私はビートルズが大好きで、ファンになった時にはすでに解散した後だったんだけど、映画「レット・イット・ビー」を観て、ビルの屋上で「ゲット・バック」を絶叫するポール・マッカートニーがメチャクチャかっこよくて、絶対「ゲット・バック」を弾けるようになりたい! と思ってギターを始めたのがきっかけなんだ。
そしたら病み付きになって、夜な夜な、ジャカジャカ、もらい物のGS時代のオンボロエレキを目一杯かきムシリながら、変声期のイガグリ小僧が「ゲッ〜バー〜ッ!」なんて悲鳴とも怒号ともつかない声でがなり立てるもんだから、さぞ、近所迷惑もいいところだったろうなぁ。

ご近所のみなさん、その節はごめんなさいっ!
 
そして、もう一つの「オーストラリアに行って牧場を経営したい」については、前述したように、幼い頃からなんとなく、ヒツジがいっぱいいる、だだっ広い緑の大地に憧れがあったからなんだろうと思います。

それで、まず「俳優になりたい」っていう夢は、私が地元の高校に通っていた頃に、東京の劇団で役者をしていた叔父さんが、田舎に帰って来るたびに、いかに男同士が役をもらうために足を引っ張り合うかという話をさんざん聞かせてくれたおかげで、夢から現実に引き戻されて、いつのまにか夢がしぼんで消滅してしまいました。

つぎの「ギタリストになりたい」っていう夢は、今でも全然しぼんでないし、一生しぼまないものだと思ってます。だって、ギターはやればやるほど面白いからね。
だから、ギターを始めた頃も、弾いていくうちに自己流では限界があると感じて、もっと、もっとうまくなりたくて、基礎からしっかり勉強しようと、地元のギター教室でクラシックギターを習い始めるようになりました。
やり始めてみると、クラシックギターも面白いもので、考えてみれば、ギター系の楽器っていうのは、自分の指で押さえて自分の爪で弦を鳴らして音を出すんだよね。つまり、楽器そのものの音色のほかに、爪の形や大きさによってタッチが変わるから、同じ楽器でも人によって音色が違ってくる。っていうことは、親から授かった自分の指と爪を使って、自分にしか出せない音が出せる唯一の楽器ってことなんだ。
曲調によって音色を追求していけばいくほど奥が深いんです。おもしろいよぉ。ホント、一生遊べます。

それで、高校を卒業する頃にはますますのめり込んで、「ギタリストになりたい!」という気持ちがいっそう強くなっていって……。それでも、その当時は、終身雇用が当たり前の時代で、いい大学に入って、いいところに就職してレールに乗ってしまえば、あとは一生安泰というのが規定路線だったから、ご多分に漏れず、私も大学を目指しました。
ボンクラだった私が、ボンクラのくせに目指したのは、北海道大学。
やっぱりどこかで、でっかいどう、ほっかいどうの、「だだっ広い緑の大地」に憧れてたんだろうなぁ。ボンクラだから、当然のことながら受験に失敗しました。私が人生ではじめて味わった挫折です。

今にして思えば、当然の結果で、かえってそれが良かったのかも知れないけど、当時、規定路線しか選択肢がなくて、それほどボンクラではないと思い込んでいた私には、受験失敗のショックは意外に大きく、フヌケのようになってしまいました。
それでもなんとか立ち直ろうと、ファイティングポーズをとりなおして、再び大学を目指して浪人してはいたんだけど、今度は、体の具合が悪くて休職していた親父が、突然、病気を苦に自殺しちゃったんです。

二重のショック! ダブルパンチ! グロッキー! ノックアウトォ!

…………

昨今の日本では、「自殺ばやり」らしく、死ななくていいものを、ちょっとしたことで、すぐに自殺しちゃうらしいけど、あとに残るものに、一生引きずらなければならない、深い悲しみとともにえぐられる深い心の傷を負わすことも少しぐらいは考えた方がいいよ。
私には、ある種の犯罪だと思えるんだけどね。
とくに、子供が親より早く死ぬのは、この上ない親不孝者だぁ!

……っていう話しはおいといて、さぁ、大学どころではなくなった私は、これからどうしよう? ここで人生の岐路に立たされました。
そして、
(よしっ! 自分でバイトして学費をためて、なりたかったギタリストになるために、ギタリスト養成学校に行こう!)
こう決めて、一年間アルバイトして東京のギター専門学校に入りました。

入ってみてビックリ!
そこで教わることといえば、ギターのテクニックどころか、いかに生徒を集めて高額なギターを売りつけて、その手数料を稼いで生計を立てるかというテクニックばっかり。
まだ純心だった私は、いきなり現実というものを見せつけられて、
(これは、イメージとは全然違うぞっ!)
と思っているところに、良い先生が大阪にいるということを聞きつけて、さっさとギター学校を辞めて、その先生に師事するために大阪に行きました。

……さてと、ギターの勉強のかたわら大阪で生きていくためには、何か仕事をみつけなくちゃ。
(何をやろうかな?)
私が当時、唯一自信が持てたのは、東京でプロのカメラマンをしていた親戚の叔父さんに、小さい頃から仕込まれた写真の腕ぐらい。写真でなら、その辺の写真学校に通ってる連中よりも飯を食えるだけの知識と技術はあるだろうという自負は持っていました。
(そうだ、写真だ!)
と思って、写真会社の門をたたいてみたら、うまいことその会社に入り込むことができて、カメラマンの仕事ができるようになったのはいいとして、その会社の仕事は、あっちこっち出張ばっかりだったから、肝心の、一日六時間は最低弾かなければならないギターの練習のほうがおろそかになってしまい、
(ギターは一生付き合っていくものだから、今、練習できなくても長い目で見てればいいか)
なんて自分に言い聞かせながら、自分をだまし、だまし写真の仕事を続けていたんだけど、ズルズルしてるあいだに、あっという間に五年の歳月が流れてしまって、
(このままでいいのか? 自分は何のために大阪に来たんだ?)
そう考え始めて、
(どうせこのまま続けていても、ろくにギターの練習ができるわけじゃないし、いっそのこと、もうひとつの夢だったオーストラリアに行ってみようか?)
と思うようになり、
ついには、
(そうだ! オーストラリアに行きたい!)
と、いても立ってもいられなくなりました。
思い立ったが吉日で、さっそくオーストラリアについて調べているうちに、「ワーキングホリデー制度」というものがあるということを知り、
(よしっ、これだ! 働くこともできるし、この制度を利用して行ってみよう!)
っていうことで、さっそくワーキングホリデービザを取得して、オーストラリアへと旅立ちました。

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写道家 その3

いざ、オーストラリアへ

「芸は身を助ける」って言うのは、本当だよね。
私は、「写真」という自信の持てる「芸」を身につけていたおかげで、これまで二五年以上にわたってプロのカメラマンとして、大阪でもオーストラリアでも、自分の「芸」を頼りに生き延びてくることができました。
だから、みんなも何か「芸」を身につけておいた方がいいよ。
特に海外で暮らすつもりがあるんなら、料理人の腕を持っているとか、美容師の資格を持っているとかすれば、どこの国に行っても食うには困らないんじゃないのかなぁ。
子供の頃には、「将来の夢」にも書かなかったように、「写真」で食っていくなんて思ってもみなかったことなんだけどね。唯一、まともに自分の「芸」にできたのは、子供の頃から慣れ親しんでいた「写真」だけだったとは。
子供の頃から身近にあったものだから、ピンと来なかったのかもしれないね。「写真」って本当にすばらしいモノだっていうことが。
「真」が見えなければ写せない、「真」を表現できてこその「写真」だから、「真」を写すと書いて「写真」なんだよね。

ちょうど私の場合、昭和天皇の撮影をしたこともある、プロのカメラマンだった叔父さんに、子供の頃から「写真」を仕込まれたことが幸いしました。
それに、余計な「既成概念」や「固定概念」なども叩き込まれなかったこともラッキーでした。
その後のモノの考え方にも大きく影響したように思います。
『一切の既成概念や固定概念を捨てて、自分の目でモノを見るということ』
自分の目でモノを見ようとして、自分が納得できないと誰がなんと言おうと右へならえしないから、昔から人と違うことをする「ヘンな奴」でした。

若い頃って、みんないろいろ悩んだりするよね?
私も、中学校の頃から、
(何のために生まれてきたんだろう?)
と考えるようになって、
高校の頃には、
(生きがいって、いったい何なんだろう?)
と考えるようになって、
親父が死んでからは、
(生きることの意味って何?)
と考えるようになって、以来ずぅーっと『生きることの意味』をテーマに生きてきたように思います。

若い頃はいろいろやったよ。
高校の頃は、ただひたすら走りたくて、無免許のバイクで遠乗りしたら、帰る途中に整備不良で捕まって、家庭裁判所に呼び出されて停学をくらったり、浪人中は、どういうわけか「人は食わずにどれだけ生きていられるんだろう? 人間の限界に挑戦!」なんてことを考えて、水以外は一切摂らずに断食してみたり。
この時は、見る見るやせ細っていくバカ息子の姿を見るに見かねたのか、六日目にして、おふくろが無理やり私の口に飯を押し込んだので記録が途絶えました。
以来、そんなバカなことはやってないから、断食記録は「ガンジー」の五日間に並んだところで止まっています。

それから、大阪に行くときも、私の実家は福島県のいわき市にあるんだけど、いわきから大阪まで八〇〇キロ近い道のりを、寝袋を担いでチャリンコで行ってみたり。
この時は、「箱根の山」は冗談かと思いました。
小田原に着いたところで山を見上げたときには、あのけわしい山々の間をすり抜けていくんだろうと気楽に考えていたら、行けども行けども「のぼり」ばっかりで一向に「くだり」になる気配はなし。
(まっ、まさか……、あの山のテッペンまで行くんじゃないよな?)
まだのぼり始めの頃に、ヨタヨタしながらチャリンコのペダルを踏んでいたら、道を歩いていたオッチャンから、「そんなんでのぼれるラ?」とかなんとか方言で声をかけられたんだけど、その「ラ?」の意味がわかりました。
そう、その「まさか」のテッペンまで「のぼり」だったんです。
「箱根の山」なんか楽勝、楽勝と、タカをくくって夕方近くにのぼり始めたものだから、途中、だんだん暗くなってくるは、寒くなってくるはで、
(ここで野宿は寒すぎるよなぁ)
と、ペダルを踏むたびに心細くなりながら、ヘーコラ、ヘーコラ、やっとの思いでのぼりきった時には死ぬかと思いました。
でも、大した事をしたわけじゃないんだろうけど、ゼイゼイ言いながら妙な達成感というか満足感を覚えたなぁ。

「箱根駅伝」ってあるけど、あの急な山道を駆け足でのぼるなんて、とんでもない、とてもじゃないけど私には人間業とは思えません。
もし、始めから「箱根の山」というものを知っていたら、根性なしの私は、チャリンコで箱根越えをしようなんてことは、これっぽっちも考えなかっただろうね。
「箱根の山は天下の険」という意味を、身を持って理解した私でした。

……あれやこれや、いろんなバカなことをやってると思うでしょう?
その通り、私はバカなんです。バカだからこそ、いろいろやって経験してみないと「答え」が見つからない。だから、いろいろバカなことをやりながら「答え」を見つけようとしてたんだろうなぁ。
そして、大阪でカメラマンの仕事をするようになって、日本全国ほとんど行き尽くして、それでも日本国内では「答え」が見つからなくて、幼い頃から憧れていたオーストラリアで「答え」を見つけ出そうとしたのかもしれないね。

そして、ついに待望のオーストラリアに来てみたら、ようやく探しものにめぐり会えたんだ。オーストラリアで暮らす人々を見て。
ジョン・レノンの「イマジン」っていう曲があるよね?
ああいう世界。ああいう世界を目指そうとしている社会。
「人が生きて行く意味」って、こういう事なんだろうなぁ、っていう「答え」。
オーストラリアの人々は、それを目指そうという「マインド」を持っている。

「イマジン」の歌詞をここに書いてみようか。
ここに書くと著作権とかで怒られるのかな?
でも、書いておきたいんだ。もし、まずいようなら罰は甘んじて受けます。


『IMAGINE』
By John Lennon

Imagine there's no heaven,
It's easy if you try,       
No hell below us,        
Above us only sky,     
Imagine all the people   
living for today...       

Imagine there's no countries, 
It isn't hard to do,       
Nothing to kill or die for,
No religion too,              
Imagine all the people       
living life in peace.

Imagine no possessions,     
I wonder if you can,          
No need for greed or hunger, 
A brotherhood of man,         
Imagine all the people       
Sharing all the world...     

You may say I'm a dreamer,    
But I'm not the only one,      
I hope some day you'll join us,   
And the world will live as one. 


(自分なりに訳してみました)

想像してみてごらん? 天国なんてないことを。
難しいことなんかじゃないはず。
僕らの足もとに地獄はなく
僕らの頭上には、青い空が広がっているだけ。
想像してみてごらん? 今日という日を生きている、
僕らの存在があるだけなんだということを。

想像してみてごらん? 国境なんて存在しない世界を。
そんなに難しいことなんかじゃないよ。
国家のために殺すことも殺されることもない、
宗教のために死ぬこともない世界。
想像してみてごらん? 僕らがみんな、
争いのない平和な世界に暮らしている姿を。

想像してみてごらん? だれも財産なんて持たないことを。
君にできるかい?
どん欲に富を漁る必要も、貧困にあえぐこともない、
兄弟愛に満ちあふれた共存共有の社会。
想像してみてごらん? 僕らみんなが、
すべてのものを分かち合って生きている世界を。

君は僕が夢想家だと言いたいかもしれないけど、
だけど僕ひとりだけが考えている事じゃないんだ。
いつか君も僕らといっしょになって、
ひとつになった地球の中で、ともに暮らすことができればいいね。

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写道家 その4

オーストラリアに住みたい

オーストラリアはね、「マルチカルチャリズム」という崇高な理念を標榜する国なんだ。「マルチカルチャリズム」というのは、世界各地から集まった異なる民族や文化をひとつの国の中で融合し、発展させて行こうという考え方で、国をあげてそういう社会を実現しようとしているのがオーストラリアという国。
だから、いろんな民族が暮らしているよ。
そして、民族も宗教も言語も違う人々が、それぞれの文化を保ちながら笑って暮らしているんだ。お互いにいがみ合うこともなく。
理想的な国だと思わない?
それぞれが、母国での戦争を経験してきて難民として逃れてきた人が多いから、なおさら平和に対する願望が強いんじゃないのかな。本当にあったかい国だよ。
これは、撮るしかないでしょう、「写真」を。笑って暮らしている人々を。理想的な暮らしをしている人々を。
そして、戦いに明け暮れている世界中の人々に向かって、もう争いはやめて、こういう社会を目指そうよ、っていうことを「写真」にして訴えたいと思わない?

私はオーストラリアに来てみて、日本人として、そういう「写真」を撮ってまわりたいと思うようになったんだ。
それを実現するのに、日本の二〇倍以上も面積があるオーストラリア中の「写真」を撮ってまわるには数年がかりになるだろうから、オーストラリアに移り住まないと、とても無理な話。
だから、ワーキングホリデービザでオーストラリアに来て、一年の滞在期限が迫る頃には、どうしたらこのままオーストラリアに住めるのかいろいろ考えたよ。
そして思いついたのが、「オーストラリアに会社を設立しちゃえば、その会社を経営するためにビザがもらえるんじゃないだろうか」ということ。
設立する会社の業種は、「カキ氷売り」じゃあ、ビザ申請は却下されるだろうし、自分にできてオーストラリア人より優れていることといえば、唯一、自信があった「写真」の技術だけだったから、ワーキングホリデービザの期限が切れないうちに「写真会社」を立ち上げて、その会社を経営するためにビザが欲しいということで、一度帰国して、日本でオーストラリアの永住権を申請することにしました。

オーストラリア大使館の嫌がらせとしか思えないような不親切さは、知ってる人は知ってると思うけど、いろいろややこしい手続き、というよりも半ば嫌がらせに近い扱いを受けながら、企画書やら申請書やらその他モロモロ小出しに要求される書類を、そのたんびに苦手な英文で提出しなければならなかったから、かなり苦労させられたけど、その甲斐あって、やっとのことで「将来性と若さ」を買われてオーストラリアの永住権が認められ、晴れて夢に向けての第一関門を突破しました。

ところが、永住権をもらって、オーストラリアに来てからは、さらなる試練が待ち受けることに。
何のコネクションもお金もなく、裸一貫で一からのスタートだったから、「将来性と若さ」しかなかった私には、異国の地での初めての会社経営は、わからないことばっかりで苦労に次ぐ苦労の連続でした。
オーストラリアの写真を撮ってまわるなんて、夢のまた夢……
だから、生きるために撮影の仕事ならなんでも受けて、ありとあらゆるものを撮影したよ。こめつきバッタのように働いて、五年ぐらいしてからかなぁ、やっと軌道に乗りだしたのは。

そっちの趣味はミジンもないんだけど、どういうわけかゲイのテレビキャスターに気に入られて、お抱えカメラマンになったり、国際閣僚会議でそうそうたる顔ぶれの政治家の写真を撮ったり、ゴルフトーナメントのフタッフカメラマンを任されて、世界的にもメジャーなトーナメントプロを撮影したり、大手企業の商品広告撮影でいろんな芸能人の写真を撮ったり、まだ皇太子だった頃の新トンガ国王も出席していた、セレブの盛大な誕生パーティーの撮影を頼まれたり、いろんな世界の、いろんな人たちの裏の素顔をだいぶ見てきたよ。

結構メジャーな仕事もしてるんで、私の撮った写真は、雑誌とかポスターとかで、何回か見てるんじゃないかなぁ。
おかげで、高嶺の花だったカメラ機材や数千万円もする現像機をそろえて写真の自家処理もできるようになったし、大手広告代理店の人にも良くしてもらって、安定した仕事が入ってくるようになったんだけど、けれども、これがいけなかった。
天狗になっちゃうよね。
「社長、社長」と呼ばれて、オセアニアを代表するカメラマンだなんておだてられて、日本円にして四、五〇万円のお金が毎日入ってくるんだから。

「オーストラリアの写真を撮ってまわる」なんてことはいつしか忘れて、仲間を連れ回しては酒池肉林、ゴルフ三昧の日々を送るようになってしまいました。
もともと、お金を持つと全部使っちゃうタイプだったから、貯金能力ゼロ。いくらもらっても、全然ギャラなんか残らない。

転機を迎えたのは、私のおふくろが死んでから。
一人暮らしのおふくろが、親族のだれにも看取られることなく死んじゃったんだ。バカ息子が、オーストラリアで好き勝手なことをして放蕩している間に。
ちょうど、シドニーオリンピックの最中に、日本のテレビ局に頼まれてホームページ用の写真撮影をしていたときに、おふくろの様態が悪化したっていう連絡が入ってきたんだけど、仕事が終わるまでは身動きが取れなくて、
終わったとたんにあわてて電話したら、
「たーちゃん……」
と、私の名前を一言だけ。
オリンピックの仕事が終わってすぐに飛行機のチケットを取って、日本に見舞いに戻ったときには、横たわったおふくろの顔には白い布が被せられていました。
夕べ遅く、私が飛行機に乗っている間に息を引き取ったって。
私の名前を呼んだのが最期の言葉だったって。

…………

間に合わなかった。
おふくろが死んじゃったよ。
好き勝手やらせてくれて、さんざん心配かけて、恩返しをする前におふくろが死んじゃった。

これだけおふくろをほったらかしにして、好き勝手やってきたバカ息子なのに、焼香に訪れた人が私に向かって言ったんだ。
「おふくろさんにしてみれば、お前は自慢の息子だったんだ」って。

…………

涙が出たよ。涙が出た。

…………

私の人生の中で唯一悔いが残っていることは、おふくろを看取ってやれなかったことです。
それでこう思ったよ。
(原点に戻ろう、おふくろが本当に自慢できるような息子になろう)
って。

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写道家 その5

生きることの意味

お金がいくらあってもお金をいくら稼いでも、「人の命」は救えないんだよね。
私は、お金よりも「大切なもの」をすっかり忘れていました。
お金に執着することが『生きることの意味』じゃないことも。
……それで、あらためて『生きることの意味』を考え直してみた。
「人の一生」を考えてみた。「生命」というものを考えてみた。
ユダヤ教から神道に至るまで、さまざまな「宗教の本」も、古今東西の「哲学者の本」も読み漁ってみた。
「宇宙の歴史」も「地球の歴史」も「人類の歴史」も「世界の歴史」も「日本の歴史」もあらためてひもといてみた。

宇宙や地球や世界や人類や宗教や哲学をすべてひっくるめて俯瞰からのぞいてみると、おぼろげだった「答え」の姿がはっきり見えてきた。
実にシンプルな「答え」だった。

「宗教」のからくりも理解した。
「国家」というものの陰謀も読めてきた。
「答え」が見えてくると、霧が晴れたようにすべてのものが見えてきた。

「宗教」などというものは、人の脳ミソに生えた「カビ」のようなものだ。人間の「性質」を逆手に取った、排他的で実にやっかいな「カビ」だ。
だから、宗教間の紛争が絶えない。
「国家」は、「国益」という名の「損得勘定、私利私欲」のためだけに動いている。「国益」のためなら「人の命」などはどうなってもかまわない。
だから、国家間の戦争を引き起こす。

やっぱり、人類は「宗教」も「国家」も「人種」も「民族」も隔たりのない世界を目指すべきなんだろう。お互いがお互いを尊重し、理解し合うべきなんだろう。

世界中の人類のミトコンドリアDNAを解析すると、すべての人間は、およそ二〇万年前にアフリカにいた一人の母親にたどり着くという。つまり、現代人は、もとをただせば二〇万年前の一人の母親から生まれて、ドミノ倒しのようにさまざまな人種に分かれながら世界中に広がって、今日に至っているということになる。

個々の「人の一生」は、ドミノ倒しの中の、一枚の「ドミノ」のようなものだ。
どの方向に倒れるかによって、未来の人々の行く先が大きく変わってくる。
ならば、おかしな方向に向かわないようにするためにどうすればいいのか?

私は、次のようなイメージを持つに至った。
「人の一生」は、「スキージャンプのジャンプ台を滑り降りるようなもの」だ。
「ジャンプ台」の長さがその「人の一生」の長さで、その「ジャンプ台」を滑りやすく整備するのが「行政」の仕事。
人は、一度だけ与えられた「ジャンプ」のチャンスで、与えられたジャンプ台を最期に踏み切る時にできるだけ高く遠くに飛ぶために滑り降りる。
スタート地点、つまり生まれ出るときには、『風船』と「知と理と感」を持って生まれてくる。
その『風船』は、「光を増しながら膨らむ性質」を持っていて、ともに与えられた「知と理と感」をバランスよく磨くことによって、光を増しながら膨らんで行くが、逆に、「風船の光の量は“私利”の二乗に反比例して、暗黒に膨らむ性質」も持っていて、私利私欲の強い人間ほど黒々と大きな『暗黒の風船』を膨らます。
人に与えられた使命は、自己の『風船』が、できるだけ光を増して膨らむように「ジャンプ台」を滑り降りて行くことだ。そして、最期に「ジャンプ台」を踏み切るとき、つまり死を迎えるときに、できるだけ高く遠くまで、自分で膨らませた『風船の光』をかかげなければならない。
先人たちがそうしてきてくれたように。
なぜなら、人とは、だれしも「しあわせ」を追い求め続ける生き物だからだ。
「しあわせ」とは、先人たちがかかげてくれた『風船の光』によってできた自分の「影」のことだ。
人は、自分の「影」を追いながら、「ジャンプ台」を滑り降りて行く。
自分の「影」だから、いつまでたっても追いつくことはない。しかし、人は、それでもいつか追いつくと信じて追いかけて行く。
「光」が強ければ「影」も濃くなり、「光」が弱まれば「影」も薄くなる。
「影」が濃くなれば「生きる希望」も湧くが、「影」が薄まれば「生きる勇気」も薄れてくる。まして、『暗黒の風船』によって「光」がさえぎられれば、「影」が消されて「絶望」しか見えなくなる。
「影」が濃いということは、周りが明るく滑りやすいということだ。
今、われわれが生きて行けるのは、いにしえより先人たちが、脈々と『風船の光』をかかげて「影」を作ってきてくれたおかげだ。
だから、われわれは、子孫たちのために、できるだけ『風船の光』を明るく輝かせて「影」を濃くする努力をしなければならない。
なぜなら、あとから滑り降りる愛するものたちのために、方向を見失わないように、しっかり最期まで「ジャンプ台」を滑り降りられるように、『風船の光』を大きく膨らませて明るく照らしてやることが、人間の『本当のしあわせ』だからだ。
だから、決して『暗黒の風船』を大きく膨らませて、周りの「光」をさえぎるようなことをしてはならない。

「ジャンプ台」を踏み切るまでに、自分に与えられた『風船』を、精一杯光り輝くように膨らませながら生きて行こう。
人はそれぞれ、「“経験”が“思考”を生み、“思考”が“選択”を生む」ということを繰り返して「今の自分」があるわけだけど、私は、紆余曲折の「経験」の末に、このような考えにたどり着きました。

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